忘れない夜のこと(後編) 投稿者: いち
 俺は梓にただ抱きついているだけだった。
 まるで独りぼっちで深い深い森に迷い込んでしまったような気分だった。
 何をすればいいのかも判らない。
 どこに向かえばいいのかも判らない。
 そんな中、梓という存在だけがリアルな感触を感じさせてくれた。
 あ、あれ?──突然、体の中に哀しみとは異質の感情が沸き上がる。それま
でじっとしていた梓が俺の頭をさわさわと撫でたのだった。その手はとても温
かく、動きはとても優しかった。頭を撫でる、たったそれだけのことで、永遠
に続くかと思った哀しみを押しのけ、愛しさが心に満ちていく。
 俺はこれほど梓を愛していたのか。
 こんな俺を、梓はまだ想ってくれている、そう感じた。俺がしがみついてい
るこの年下の女の子は、見た目よりも遙かに華奢で、繊細で、こんなバカな俺
を世界一愛してくれる強い女の子なのだった。
 この時、俺はようやく自分の想いに自身が持てた。
「梓...聞いてくれよ。」
「...うん。」
 俺は梓のお腹に頭を押しつけたままの体勢で言った。
「ゴメンな、俺、バカだから。男として最悪だよな。カッコ悪いな、俺。でも
 な、同情なんかじゃない。同情だったら、こんなに哀しい気持ちになるわけ
 ないよ。こんなこと言う資格無いけど...好きだ、世界で一番、オマエが
 可愛い。」
 普段なら恥ずかしくてとても口に出せないような歯の浮くセリフが、不思議
なぐらい自然に口から流れ出る。いつしか涙は止まっていた。
「お前に頭を撫でられただけで、幸せになっちまうんだ。こんな情けない俺だ
 けど...嫌いにならないでくれよ。」
「...ズルイよ...耕一。」
 俺の髪を撫でていた両手がスルリと後頭部に回ると、梓は俺の頭をギュッと
抱き締めた。すこし息苦しかったが、それを遙かに上回るほど幸せだった。
「ズルイ...かな?」
「ズルイよ。あたしが耕一のこと嫌いになるワケないじゃない。知ってるクセ
 に...。へへへ、覚悟しろよ耕一。あたしの独占欲の強さを後悔するよ?」
「こっちのセリフだよ。もう、ずうっと放さないからな。」
 俺は頬を梓のお腹に寄せ、スリスリと頬ずりした。布一枚隔てて伝わってく
る梓の温もりと、匂いと、感触が心地よかった。死ぬまでこうしていたいと、
本気で思うほどに。
「ねぇ、耕一。耕一は長い髪の方が好き?」
 不意に梓が訊ねた。この夜のきっかけともいえる梓の問いかけだった。
 名残は惜しかったが、少しだけ身体を離して梓の顔を下から見上げる。上か
ら覆い被さってくる梓の顔と豊かな胸の光景は、なかなかに新鮮な感じだった。
「髪なんかどうでもいいよ梓なら。けど、ず〜っとショートの梓しか知らない
 から、正直言ってイメージが湧かないな。一度くらい長い髪の梓を観るのも
 いいかもしれん。ただし──。」
「ただし?」
「アフロだけは止めてくれ。」
「...バカだねぇ、相変わらず。」
 少し呆れた風な表情をしてから、梓はクスクスと笑った。そこにマネキンの
笑顔はなかった。初夏の日差しにも似た爽やかな笑顔、それこそが俺の大好き
な梓本来の笑顔だった。
「それじゃあ、試しに伸ばすとしようかねぇ。惚れなおしても知らないよ?」
「そりゃ、ヤバイ。」
 言いながら、俺は梓の目線まで立ち上がる。梓は、ちょっと悪戯な視線を俺
に向けた後、ゆっくりと目を閉じた。
「これ以上、好きになったら大変だ。」
 今度はしっかりと抱き締めて、梓と唇を重ねた。

 冷静にあの時を振り返れば、目を真っ赤に腫らしてカッコつける俺の姿は相
当滑稽だったに違いない。思い出す度に顔が熱くなる。
 涙を流すほど取り乱すとはなぁ──実際、あの夜の自分の行動は驚きだった。
失態と呼ぶにはあまりにも失態。けれど、自分の気持ちに確信を持てたのは涙
のお陰だと考えれば、不思議と後悔はなかった。
 母を早くに亡くし、父の力を借りずに生きていた(と思っていた)俺は、同
年代の男達の中では精神的に強い方だと思っていた。少なくとも孤独というカ
テゴリーに関しては、だ。それが、自分でも気付かないうちに、あれほど弱く
なっているとは...正直、自分に呆れてしまう。
 いや、本当は初めから弱い男だったのかもしれない。となると、いきがって
生きるうち、いつしか自分のことを強い男だと勘違いしていた俺は、梓のお陰
で本来の自分を取り戻したことになるのだろうか?
 そんなのどうでもいいか──今はそう思える。
 昔の自分より、今の梓を大事にしよう。かけがえのない女の子なのだから。
 今でも俺と梓の関係は、それ程変わらない。俺がちょっかいを出しては、ケ
ンカして、殴られる。変わったことと言えば、梓の髪が伸びたこととぐらいだ
ろうか? その髪も、まもなく切るらしい。理由は『鬱陶しい』からとの事で、
実に梓らしい簡潔な理由だ。まぁ、実際、快活な梓には短い髪が似合ってるか。
 ぎゅっ。寝ている梓の腕が俺の首へと伸びる。そういえば、終わった後、し
がみつく梓のクセも変わっていない。ふふふ、可愛いヤツめ。
「な〜に、真夜中に男が一人で顔赤くしてニヤニヤしてんだ? 気色わるい。」
 カチーン。音を立てて全身が硬直した。恐る恐る視線を下げた先には、呆れ
たような表情で見上げ、事実、キッパリと呆れている梓がいた。気まずいなん
てモンじゃない。頬が茶を湧かす程、恥ずかしい。
「.......ずっと見てました?」
「ど〜せ、スケベなことでも考えてたんでしょ?」
 ぐうっ、当たらずとも遠からずだ。反論できん。
「さっさと寝ろよ、耕一はただでさえ寝起きが悪いんだから。」
「それは、お前の起こし方が悪いからだ。ほっぺにチュッってしてくれたら、
 コンマ5秒で起きる。」
「...アホらし。あたしゃ、寝るからね。」
 梓はそう言って、まるで自分の所有物であるかのように俺の肩を枕にすると、
再び目を閉じた。取り付く島もないとはこの事だ。
 仕方がねぇ寝るか、と、目を瞑ったときだった、
「...あの時の耕一、可愛かったよねぇ。」
 ギクッ。見ると、梓が目を閉じたままでくっくっくっと笑っている。なんて
こった、すっかり見透かされてるじゃねぇか。冷静を装っても無駄だった。驚
きも動揺もすべて筒抜けなのだ。なにしろ照れと動揺で少し速くなった俺の鼓
動は、肌から肌へと直に梓へ伝わるのだから。
「ん〜おやすみ、あたしの耕一。」
 そう言って、梓は俺の胸板に軽く口づけると今度こそ眠りについた。
 どうやら、俺の敗北は明らかだ。今夜は黙ってそれを享受するとしよう。
 梓は完全勝利に満足げな微笑みを浮かべて、早くも寝息を立てている。この
世界一の微笑みを浮かべられるのは、世界で俺一人なのだ、その誇りを胸に俺
は目を閉じた。
 こういうのを見る度に、俺はどんどん梓を好きになる。本当に困ったモンだ。
 そういえば...もう一つ確実に変わったことがある。俺はシーツから手を
出して天にかざす。
『願わくば、梓のキスで目覚めることができますように』
 俺は月の光に輝くリングに願いを込めた。

                                 (終)