「(コン!コン!)おーい梓、入るぞー?」 軽くノックしてから、ドアのノブに手をかける。 ちなみに、柏木家には部屋に鍵をかける習慣がない。そこはそれ、女の子の 部屋だけに、一応は鍵が付いているものの、家族への信頼感が人一倍強い柏木 家では、滅多に掛けないのが普通だった。 案の定、戸に鍵はかかっておらず、ノブはあっさりと右に回った。俺は梓の 返事も待たずに戸をグイッと開ける。正面のベットに梓が腰掛けているのを視 界に確認すると同時に、俺は深々と頭を下げた。 「すまんッ! このとおりだ梓、俺が悪かったッ!」 とりあえず、謝っとけ──これが俺の考えだった。相手はあの梓だ、数発の 蹴りが飛んでくるかもしれないが、ま、それくらいで終わるのなら簡単でいい、 さっさと終わらせてオセロの続きだ、そんな風に俺は考えていた。 数秒間の沈黙が流れた後、 「あのさ...耕一...。」 梓がボソッと呟いた。 なんだか妙な感じだ?──ここに至って、俺は微妙な違和感に気付いた。普 段ならコンマ数秒で威勢のいい啖呵なり、蹴りが飛んでくるところだ。なにを 企んでるんだ? 「あのさ...。」 もう一度、梓が呟く。その声は普段のやかましいぐらいに生気に満ちた声と は大違いだった。空気の抵抗に負けて、俺まで届かないんじゃないかと思った 程だ。梓のこんな声を聞いたのは生まれて二度目だった。一度目は...そう、 一年前のあの事件の後だ。 「無理してるのなら、もういいよ。あたしはもう大丈夫だから。」 「無理?」 梓の様子が変だ──だが、梓の言ってる言葉の意味は、よく解らなかった。 無理? 大丈夫? いったい何のことだ? 俺は、ほぼ直角に曲げた腰はそのままで、顔だけを恐る恐る上げて梓を見た。 さすがの俺も油断させられたところに、渾身の跳び蹴りなんかを喰らっては、 タダでは済まない。目が覚めると朝、なんて事にもなりかねない。だが、目前 の梓はベットに座ったまま深く俯き、その表情を伺うことは出来なかった。 わずかな無言の後、再び梓の口からぽつり、ぽつりと言葉が流れ出る。 「耕一は優しいから...。あんなコトがあれば、あたしを気遣ってくれるの は当たり前だよね。そんなの簡単に解ることなのに、あたし一人で浮かれち ゃって...バカだよね、あたし。」 「ち、ちょっと待てよ梓。オマエ何言って...?」 梓の予想外な様子に、俺は慌てた。だが、お構いなしに梓の言葉が続く。そ の、梓の口から慎重につむぎ出される一言一言は、俺へというよりも、自分自 身に言い聞かせている、そんな気がした。 「耕一の気持ちだってあるんだよね。いつまでも耕一の同情や優しさに甘えて、 あんたを一人占めするわけにはいかないよ。」 「────────!?」 俺はようやく梓の気持ちに気付き、愕然とした。 自分が俺を縛り付けている、梓はそう思っているのだ。 俺の想いは本当の愛ではない、梓はそう感じているのだ。 両手で膝小僧をぎゅっと握りしめる梓の手と肩が、心なしかふるふると震え ているように見える。 『異常な状況で結ばれた男女は幸せになれない。』 ふと、誰かの言葉が俺の脳裏に浮かんだ。その瞬間は『愛情』だと思ってい た感情が、時が経つに連れて『同情』『哀れみ』だったと気付くからだという。 梓への気持ちは『同情』だったのだろうか? 梓への気持ちは『哀れみ』だったのだろうか? そんなハズはない。 だが、そうではないと何故言い切れる? あの時、梓を可哀想だと思ったのは確かだ。 だとすると今まで俺は同情で梓を愛していたというのか? 純粋だと思っていた想いは俺自身も気付かぬ偽りの想いだったというのか? 自分の中に突然沸き上がった疑問に、俺はとっさに答えを見いだすことが出 来なかった。様々な葛藤は出口を見つけることが出来ず、行き場を失ってただ 頭の中をぐるりぐるりと駆けめぐる。 部屋中の空気がとんでもない重さを伴って、俺の両肩へのし掛かってくる。 生まれて初めて空気の重さを感じたような気がした。 「だからさ...」 ぱんッ!──両手で強く膝を叩き、梓は勢いよく顔を上げると、にっこりと 微笑んで言った。 「あたしはもう大丈夫! この一年間、とっても幸せだったよ。ありがとう。」 それはひどい演技だった。 デキの良いマネキンのような美しい笑顔。 美しいだけの笑顔。 魂の宿っていないその笑顔は、なんともいえない違和感と寂しさを感じさせ、 その瞬間、俺は、 俺は──梓に抱きついていた。 「こ、耕一!?」 梓の困惑した声が俺の頭の上からする。 俺は梓に抱きついていた。抱き締めていたのではない、文字通り抱きついて いた。両膝を床につき、両手を梓の腰に回し、顔を梓のお腹に押しつけて、ベ ッドに腰掛ける梓に抱きついていた。もしも観る人がいたならば、母親にすが る幼子を連想したかもしれない。 逃げ出したい、そうとさえ思った。だが、ほんの1ミリでも後ずされば俺達 は終わり、そんな気がした。 「ごめん...アズサ...ごめん...」 解答の糸口すら掴めてはいなかった。何故そんなことをしたのかも、この時 は解らなかった。梓が離れていく──そう思ったとき、頭の中のぐちゃぐちゃ が真っ白になったかと思うと、手が、足が、体が勝手に動いていた。だが、不 思議とその行為が間違っているとは思わなかった。もちろん、正解にはほど遠 かったのかもしれないが。 「ごめん...」 まるで母親に叱られた子供のように同じ言葉を繰り返す。 心から溢れ出した想いは、ついには身体からも溢れ出し、熱い液体へと姿を 変えて目から流れ出ていた。 なんてバカなんだ、俺って奴は。 思えばこの一年間、俺は梓からの想いに浸り、その居心地の良さに甘えるだ けで何もしなかった。それでも梓の想いは永遠に続く、勝手にそう思っていた。 そんな俺の態度に、梓が不安を感じるのはあまりにも当然のことだったのだ。 幼い頃から柏木家を裏で支えてきたからだろうか。梓の性格はあけっぴろげ なようでいて、繊細で遠慮深い。俺に遠慮して、少しずつ、少しずつ溜め込ん できた不安が、あの一言で溢れ出てしまったのだ。仲の良い兄弟だった頃なら 梓が俺に遠慮するなんて事はなかったかもしれない。だが、男と女になったあ の日から、俺と梓の関係は微妙に変化していたのだ。そして、俺はそれを知っ ていたハズなのに。 俺はバカだ──強く、強く思った。大人ぶって、偉そうなことばかり言って、 梓の気持ちにちっとも気付いてやれなかった。いや、気付こうともしなかった。 あの日から俺は幾度と無く梓を抱いた。手で、唇で、梓の身体を隅々まで触れ た。そんなことで梓のすべてを解ったふうな気分になってはいなかったか? 心には触れていたのか? 後悔だけが後から、後から、とめどなく沸き上がり、他には何も考えられな かった。涙を流し、それでも梓だけは離すまいと抱きつく。この瞬間、俺は間 違いなく世界で最も不様な男だった。 (つづく)