忘れない夜のこと(前編) 投稿者: いち
 俺はベットの中で、ふっと目を覚ました。
 部屋はまだ薄暗く、窓にかかるカーテンが清々とした月の光を遮って青白く
発色している様子は、幻想的と言えなくもない。
 右の肩が重い。そこには俺の肩を枕にして眠る女の子がいた。
 彼女を起こさないように注意しながら左手だけをそうっと動かし、任務に忠
実な騎士よろしく、朝の訪れを今か今かと待ちわびている小さな時計を手に取
った。短い針が、ちょうど3と4の中間あたりを指している。お姫様が命じた
時間はまだまだ先だ。
 すうすうと安らかな彼女の寝息が素肌に当たってくすぐったい。が、同時に、
なんともいえず心地よくもあり、自然と顔の筋肉が緩む。
 ほんの数時間前までは熱いぐらいに火照ったお互いの身体も今はクールダウ
ンし、押しつけられた柔らかな胸と、絡みついた足と、胸に添えられた手の平、
それぞれから伝わる彼女の体温が、俺の身体へじんわりとしみ込んでくる。
 彼女の背中に回した俺の右手にサラサラとした長い髪が触った。
 世界で一番愛しい女性。
 こんな時、よく思い出す夜がある。
 あの日は仕事で遅くなるという千鶴さんを抜いた四人での夕食だった。
 食卓にはいつものように梓の手料理が並び、いつもと変わらぬ美味しさの料
理を俺は腹一杯に詰め込んだ。千鶴さんがいないという以外はとりたてて普段
と変わらぬ柏木邸の夜だった。そう、あの時はそう思っていた。
「あたしも髪伸ばそうかな?」
 忘れない。いや、忘れてはならないあの夜の記憶は、そんな梓の言葉から始
まる。

 食後のお茶の時間、俺は初音ちゃんにオセロ勝負を挑んだ。勝負は予想外に
白熱し(ちょっと情けないか?)、そのうち横で観戦していた楓ちゃんが勉強
に部屋へと戻ると、居間には俺と梓と初音ちゃんの三人が残された。そんな時
だった、TVをBGMに女性向けファッション雑誌をパラパラと捲っていた梓
がボソッと言ったのは。
「どうかな? 耕一。」
「う〜ん...後にしてくれ、後に。今、大事なトコなんだから!!」
 勝負に熱中していた俺は(俺の二勝三敗で、引き分けのかかった大事な一戦
だった)、梓の方へと振り返りもせずに投げやりな返事を返した。すぐさま、
盤上へと意識を集中させる。
 返事をしてから数十秒ぐらいだろうか、
「...耕...お兄ちゃん。耕一お兄ちゃん。」
 呼ぶ声に、『おや?』と顔を上げると、目の前になにやら困ったような顔を
して俺を見る初音ちゃんがいた。
「ちょっと待って、初音ちゃん。もう少し、もう少し時間を頂戴!」
「梓お姉ちゃん、出て行っちゃったよ...。」
「え?」
 そういえば──ぐるりと居間を見渡すが、梓の姿はどこにもなかった。ちゃ
ぶ台の上には雑誌が開かれたままで放置され、TVからは芸能人の乾いた笑い
が虚しく垂れ流されている。
「梓が一言も言い返さないなんて珍しいな。雪が降るかも?」
「お兄ちゃん...憶えてないの? 昨日の夜のこと。」
 苦笑混じりに訊ねる初音ちゃんのなにやら重苦しい雰囲気に、俺は昨日の夜
のことを振り返ってみることにした。ほんの昨日のこととはいえ、意識してい
ない日常なんてあまり憶えていないものだ。すでに薄れかけている記憶を、夕
方に見たTV、夕飯の支度、夕飯のメニュー、その時の会話...と順番に辿
っていく。
 ん?──その時、なにかが引っかかった。
『千鶴さんの髪って本当に綺麗ですよねぇ。長くて、艶があって。』
 それは夕飯の時、俺が千鶴さんに言った言葉だった。千鶴さんの、頬をほん
のりと朱に染めて照れる仕草が、卑怯なほど可愛かったのを鮮明に憶えている。
 まさか?──しかし、怪訝そうな顔をする俺に、初音ちゃんはコクリと頷い
て言った。
「お兄ちゃん、梓お姉ちゃんの所に行ってあげて。」
 だが、俺にはこんな些細なことであの梓が落ち込むなんて信じられなかった。
「大丈夫だよ、初音ちゃん。こんなことでアイツが落ち込むわけないよ。大方、
 眠たくなったか、それとも──?」
「ダメだよッ!!」
 初音ちゃんの強い声に驚き、俺は思わず『びくっ』と身をすくめる。
「あっ、ごめんなさい...でも、行かなきゃダメだよ、耕一お兄ちゃん。」
 いつになく真剣な眼差しで、初音ちゃんが訴える。初めて見る初音ちゃんの
姿に、俺は妙な迫力を感じて心なしか圧倒されていた。
「...わかったよ、初音ちゃん。んじゃ、ちょっと行って来る。」
「うんっ。」
 よっこらしょと腰を上げる俺に、ニッコリと初音ちゃんが微笑んだ。
『まったく...姉思いないい子だねぇ初音ちゃんは。爪の垢でも煎じて梓に
飲ませなきゃいけねぇな』そんなことを考えながら梓の部屋へと向かう俺は、
まもなく、自分がどんな失態をみせるかなど知る由もなかった。

                               (つづく)