まだ知らぬ恐怖(後編) 投稿者: いち

 うなりを上げて鬼の一撃が振り降ろされる。
 ただ殺戮だけを目的とした攻撃は、破壊力、スピード共に綾香への一撃とは
比べ物にならない。
「────っ!!」
 綾香の脳裏に、弾け飛ぶ男の映像が浮かぶ。しかし、そのあまりの速さに、
眼を背けることすら叶わない。

 シャッ

 風を切る音がした。
 そこに立つのは勝者である鬼のみが──いや、そこには微動だにしない男と、
後ろ跳びに距離をおいた鬼の姿があった。
 何故、鬼は退いたのか?
 男はピクリとも動いていないというのに。頭も、肩も、足も、腕も──!?
「えっ!?」
 綾香は眼を疑った。
 ぼんやりとした光が、次第に強くなり、輝き出す。
 男の影は少し前と幾分も違わぬハズだ。だが、構えもせずだらりと垂らした
右手に、先程までは確かになかった物が忽然と現れていた。
 ──刀。
 綾香にはそうとしか表現のしようがなかった。
 その刃渡りはあまりにも長く、その長さに比例するように、刀身の幅も、肉
厚も通常の日本刀の倍近くあった。
 飾り刀と呼ばれるものには、このような長大なものも存在する。しかし、こ
の刀には一切の装飾が施されておらず、その姿は無骨そのものだった。そう、
生命を奪う道具である、武器そのものだった。
「...凄い。」
 優美ではない。華美でもない。
 だが、その生まれから、美術品にふれる機会の多い綾香をして、思わず我を
忘れ感嘆のため息をつく程に、その刀は壮絶に美しかった。
 月の光なき真闇において、自ら発するかのように青白く輝く刀身。
 観る者に緊張を与える凛とした鋭さ。
 そうか──綾香は気付いた。暗がりでよく分からなかったが、男が背負って
いたのは、この刀だったのだ。だが、綾香にすら気付かせぬ迅さで、自らの背
丈ほどもある刀を一瞬で抜刀するとは、いかなる業によるものか!?
 感嘆のため息をもらす綾香をよそに、鬼は自らの中に沸き上がる不安感に、
戸惑いを憶えていた。
 それは遺伝子に眠る、遠い過去の忌まわしき記憶が呼び覚まされる、そんな
感じだった。
 綾香は──そして鬼は知らない。それは異星の刀。殺鬼の念込め、鬼が鍛え
し背信の刃。自らを殺めるその呪われた性ゆえに、皇族にのみ伝えられし禁忌
の宝。かつて室町時代、皇鬼の姫がひとりの侍に託した一振りの宝刀。掟に背
いた美しい姉妹の、悲しき恋の物語──。

 ザアッ

 なにがあろうと知ったことか──そう言わんばかりに、再び鬼が動いた。
 突き、払い、蹴り、まるで吹き荒れる竜巻のような絶え間ない連続攻撃。
 だが、破壊力を犠牲にして速度を増した一打一打も、男にかすり傷どころか、
その身に触れることすらかなわなかった。
 あらゆる角度から襲い繰る殺刃の爪を、男は刀を振るい、半歩も退くことな
く、ことごとく跳ね返す。
 優美とはほど遠い。しかし、力強く一切無駄のないその剣技は、どのような
剣舞よりも美しく綾香には思えた。
 それにしても──常人には持ち上げることすら困難であろうかという剛刀を、
まるで小枝のように振り回すとは、なんという男の膂力か。
 綾香をして、その剣捌きを見極めることは困難だった。その瞳には、ただ、
暗闇に刀身の放つ銀光が残像として焼き付くのみ。
 数秒──だが永遠とも思える刻が過ぎ、またも距離をおいたのは鬼の方だっ
た。
 その息は大きく乱れ、肩は上下していた。それに対し、男の姿に寸分の乱れ
もない。
「は────ッ...」
 大きく息を吐き出す綾香。
 両者の息をつかせぬ攻防に逃げることも忘れ、魅せられている自分がいる。
 だけど──綾香は感じていた。まもなくこの闘いは終わるだろう。

 ス────ッ

 男の腕が動いた。
 まるで、刀を鬼に見せつけるかのように、頭上に高々と掲げる。
 男を中心に、張りつめた空気が辺りに広がっていく。
 音が消えた。
 大気が、樹々が、水流が、固唾をのんで男を見守る。
 すべてが息を潜め、すべての終わりを待つ。
 無音の世界で自分の動悸だけが骨を伝う──まるで死の世界に自分だけが生
き延びたかのような孤独感を綾香は感じた。息苦しい。暗闇に取り込まれる。
暗闇に押し潰される──。
「思い出すんだ、人の心を。」
 その男が創り出した永遠の静寂は、自身の声によって破られた。
 正面から狂気の瞳をしっかりと見据え、まるで瞳の奥に眠るなにかに告げる
ようにゆるりと語りかける。
「愛する人を強く思え。誰でもいい、恋人でも、親でも、子でも、兄弟でも。
 その腕は抱き締めるためにあるんだろう? 傷付けるためじゃないハズだ。」
 鬼の躯が小刻みに震えた。
 男の言葉が心なき獣にいかなる葛藤を与えているというのか。
「愛する人を切り裂く痛みを、辛さを、お前は味わいたいのか!」
 あれ?──綾香は男の声に微妙な震えを感じた。自らを責めるような悲しい
響き。その言葉には綾香に判りえぬ魂が宿っているのだろうか。もしや、あの
男は愛しい人を切り裂いたことが? それとも──切り裂かれたことが?
「俺にだって、出来たんだ。お前にも、出来るはずだろう? なあ...生ま
 れながらの素質なんて運命の一言で片づけられちゃあ、悲しすぎるじゃない
 か...そう思うだろう?」
 頭上に掲げた刀の輝きが増す。
 ──まるで男の悲しみを癒すかのように。
 ──まるで鬼の心を諭すかのように。
 ──まるで絶望という名の闇を照らす、希望の光のように。
「男らしいとこ、みせてやろうぜ! 頼む! オレ達の可能性を見せてくれよ!!」

 オオオオオオォォォォォォォ

 鬼の慟哭。
 さまざまな感情が複雑に絡み合い、限界を超え、弾け飛ぶ。
 吸い込まれるように刀を凝視していた鬼の瞳は、熱く、赤く、恐ろしく男を
睨み付け、
「オレ、ハ、鬼ダ! 鬼、ナノダ!! 闘イ、狩ルモノダ!!」
 ──そう語った。
 綾香には解らない。それは心通じ合う者にしか聞こえぬ、魂の叫び。
「狩りの喜びを知ってしまったんだな...ならば、せめて...。」
 呟き、男が構えた。
 鬼に対して半身になり、両手で刀を持って腰だめに構える。
 男の放つ気が変わった──綾香には解った。ああ、遂に終わるのだ、と。
「────来い。」
 小さく、だがよく響く声で男は言った。
 それが闘いの合図。
 鬼が跳び、男が迎え撃つ。
 ブンッ──鬼がなにかを投げつけた。と、同時に間合いを詰める。
 なにやら巨大な物体が男を襲う。なんとそれは、先程の女性の亡骸だった。
 避ければ間髪入れずに爪を叩き込む。避けなければ骸もろとも貫くのみ。
 死者になんということを!?──綾香は嫌悪した。そして苦笑する。死者を
弔う心などあるはずがないと解っているのに。
 暗闇を切り裂いて、鬼にその命を奪われた者と、鬼にその身を支配された者
が男を襲う。
 男の顔に恐怖はない。ただ、なんともいえない哀しい光をその瞳にたたえ、
 そして──男が動いた。


   鬼には判っていた。
   そう、少し前から解っていた。
   目の前に立ちはだかる男が人間ではないことを。
   人間などという、一時的に欲を満たせるだけの脆弱な獲物ではないということを。
   鬼。

   初めて出会った同族の戦士。
   自分よりも強い男。
   自分を殺し得る男。
   自分に恐怖を与える男。
   かつてない死闘の予感。それはどのような快楽にも優る、甘美な麻薬。

   ──まだ知らぬ恐怖。
   ──まだ知らぬ狂喜。


 綾香の目前で両者の影が重なり合っていた。
 一瞬よりもさらに僅かな瞬間、両者の間になにが起こったのか、綾香には判
らなかった。
 振り降ろされた爪。見下ろす瞳。鬼の懐に男。そして、鬼の背中から突き出
た銀色の刃。
 男は迫る女の亡骸を避けた。鬼の狙いしていた通りに避けた。だが、狙い通
り避けた男を、鬼は捉えられなかった。胸に吸い込まれていく刃を、どうする
こともできなかった。
 知っていてもなお、男の一撃を防げなかった──不意を突いてなお、鬼の一
撃に倒れた綾香のように。
 鬼は敗れた。
 初めから勝負は決まっていたのかもしれない。
 鬼に支配された男と──鬼を支配した男。
 糸の切れた人形のように、鬼が男へともたれ掛かっていく。
 そして、狂気の衣を脱ぎ捨てて、次第に人間の姿へと戻っていった。
「お...俺は?...俺は?...」
 なにかに怯えるように、男に尋ねる。
 男は、旅立ち逝く男の耳元に口を寄せると、なにかを一言告げた。とたんに、
鬼だった男は安堵したような表情を浮かべ、安らかに、そして永遠に眠った。
 風が再び流れ出す。逝った人々を天に送るように。
 樹々がさわさわと音を立てた。狂夜の終わりを告げるように。
 今、ようやく、すべてが終わった。

 綾香は痛む身体をひきずり、男の背後に立っていた。
「.........。」
 綾香は何も言わない。何も言えない。
 どのような賛辞も、疑問も、慰めも、言葉にしたとたん悲しみに変わる、そ
んな気がした。
 綾香の目前、男は、たった今まで鬼だった人間の亡骸をそっと地面に降ろす。
「さ、待たせたな。終わったぜ。」
 男は振り返って綾香に言った。
 瞳が少し赤い。悲しみを胸に秘め、努めて明るく振る舞う男が哀しかった。
「ちょっとこれを持っててくれるか?」
「??」
 唐突に言われ、何のことか解らず首を傾げる綾香に、男は刀の鞘を差し出す。
「一度抜くと、納めるのに苦労するんだよ、この刀。」
 そう言って、刀をヒラヒラと振る。
「ぷっ!」
 なんというか、その仕草がいかにも滑稽で、綾香は吹き出してしまう。ああ、
いつもの世界に戻ってきたのだと実感しながら。
「あなたは──。」
 鞘に刀を納めていく男に訊きかけて、綾香はやめた。この人が鬼か人間かな
んてどうでもいい。もう、終わったんだから。それに──おそらく鬼でもあり、
人間でもあるのだ、この人は。
「ありがとう。」
 男は言った。それは鞘を持ってくれた礼か、それとも訊くのをやめた綾香の
やさしさへの礼か。
「ああそれと、お礼ついでに...出来ればでいいが...」
「解ってるわ。どうせこんな話、話したところで誰も信じちゃくれないもの。
 ショックで気が動転してると思われるのがオチよ。」
 少し肩をすくめて、綾香が言う。
「助かるよ。そういえば身体は大丈夫か? なんなら──。」
「大丈夫。病院ぐらいは一人で行けるわ。」
「そうか...君は強いんだったな。」
 そう言って、男は綾香の頭をなでた。とたんに電光石火の張り手が飛ぶ。
「なるほど、大丈夫そうだ。じゃあな。」
 綾香の張り手を難なくかわして、子供っぽい笑顔を浮かべる。
 そして、男は忽然と闇に消えた。
 現れたときと同じように唐突に。


〜エピローグ〜

「というわけなのよ、信じられる? まったく、伝説の鬼なんて、私なんかよ
 りもよっぽど姉さん向きのお話よね〜。」
 数日後、綾香は病院のVIP用個室で、姉の見舞いを迎えていた。
 あの夜の惨事は、当然のように、かなり昼のお茶の間を賑わせた。ただ一人
の生存者である綾香は、警察やらマスコミに適当な事をでっち上げたが、来栖
川財閥のご令嬢ということもあって必要以上の詮索はされず、家が大きいって
のも、こういうときは役立つわねなんて綾香は思ったものだ。
「あの男ときたら、まるっきり私を子供扱いで、頭に来るわ。」
「......。」
 来栖川芹香──綾香の優しい姉は何も言わず、なでなでと妹の頭をなでる。
「やめてよ、姉さん。思い出すじゃないの。」
「......。」
 照れつつも本気で嫌がっていない妹に、姉は小さな声で言った。
「ばっ、なに言い出すのよ、姉さん! 私があんな男に惹かれるわけが...」
 顔を真っ赤にして本気で照れる妹を、姉はその透き通った黒水晶の瞳で、じっ
と見つめる。
「...そうね。姉さんにウソは通用しないわね。でもね、姉さん、正直分か
 らないの。本当に惹かれてるのか、それとも──」
「......。」
 すべて解っていても、姉は何も言わない。ただ、なでなでと妹の頭をなでる。
「それにね、私まだ『ありがとう』って言ってないのよ。あの人を捜し出して
 今度は私が現れてビックリしてるところに、お礼を言ってからぶん殴ってや
 るんだから! やられっぱなしなんて私のプライドが許さないわ!」
 その時、傍らに静かに立つ来栖川家の執事の口元に笑みが浮かぶのを綾香は
見逃さなかった。
「なによ、長瀬。言いたいことがあるならハッキリ言いなさい。」
「セバスチャンにございます、綾香お嬢様。いえ、悪意はございません。しか
 し、なんともお嬢様らしいと思いまして。しばらくは私も忙しくなりますな。」
 執事の言葉に満足そうに頷くと、ふふんと鼻を鳴らして綾香は言った。
「そうよ。来栖川綾香は思い立ったら一直線なんだから!」

 数日後。
 その男──柏木耕一──の周りが、より騒がしくなったのは言うまでもない。