まだ知らぬ恐怖(中編) 投稿者: いち

 じわり、じわりと獲物に近づきながら、『それ』はかつてない興奮にその身
を震わせていた。

 ──コノ俺ニ反撃スルトハ。コノ俺ニ! コウデナクテハ。『狩リ』トハ、
コウデナクテハイケナイ!!

 かつて、獲物はその姿を視るや否や、皆一様に這いつくばり、放心するか、
助けを請うかのどちらかだった。だが、綾香はあろうことか、『それ』に一瞬
とはいえ、反応できないほどの攻撃を仕掛けてみせたのだ。
 腹の底から沸き上がる高揚感が、骨を、筋肉を、血管を、神経を伝って躯中
に広がっていった。
 ひんやりとした夜の空気を肺一杯に吸い込み、期待と欲望に熱せられた息を
吐き出す。

 ──イイゾ、コノ獲物ノ炎ハ!!

 生命の炎が散る輝きの前には、星々ですらその輝きを失う。そして、その炎
が大きければ大きいほど輝きも増す。
 絶望的なこの状況にあってなお、綾香の瞳にはわずかな輝きが残っていた。
 高揚感で頭は痺れ、首筋がきしむ程に全身の筋肉が膨張する。
 血液が下腹部に集中し、ペニスがビクビクと震えた。

 ──ナニヨリ、コノ雌ハ──美シイ!!


 陵辱と殺戮の喜びを噛みしめるようにゆっくりと近づく『それ』に対して、
綾香は自分の無力感をただ噛みしめていた。
 渾身の力を込めた一撃はスピードも破壊力も申し分なかった。しかも不意を
ついたにもかかわらず、かすりすらしなかった。無造作に払い除けられただけ
で、吹っ飛んだのは綾香の方だった。圧倒的な力の差の前で、綾香の一撃など
『鬱陶しい』程度の物でしかなかったのだ。
 しかも、あろうことか『それ』は殺すだけに飽きたらず、欲情している──
考えただけで吐き気をもよおし、目眩を憶える。
 ふと仲の良い姉と信頼する執事の姿が脳裏に浮かんだ。
 ふふ...走馬燈ってヤツかしら。ごめんね、姉さんに長瀬。こんな獣に陵
辱されるぐらいなら、私は──綾香はある覚悟を心に決めた。
 ザアッ...強い風が吹き、樹々が一斉にざわめく。まるでこれから起こる
悲劇を悲しむかのように、覆い隠すかのように。
 最後の抵抗──綾香は自分を凝視する『それ』の邪悪な赤い瞳を睨み付けた。
 ──その時、

 ビクッ

 『それ』は一瞬身震いをすると、動きを止めた。ウウ...と警戒するよう
な低い呻り声を上げ、重心を下げて身構える。
 綾香を品定めするように睨み付けていた狂気に満ちた赤い瞳の焦点は、綾香
を飛び越え、その背後へと注がれていた。
「ひゃっ!?」
 不意に身体が持ち上がり、綾香は張り詰めた雰囲気によほどそぐわない驚声
をあげた。
「良かった。命に別状はないみたいだな。」
 背中と膝の裏に手を回し、綾香を軽々と抱きかかえると、その男は顔を覗き
込むようにして微笑みを浮かべた。
 殺戮の舞台に忽然と現れた男は、この距離に至るまで『それ』に、そして、
抱き上げるまで綾香に、その気配を感じさせなかったのだ。
 今にも飛びかからんと身構える『それ』の目前、しかも両手がふさがるとい
う不利な状況で、その男は気にした風でもなく悠々と歩くと、綾香を道端の樹
の幹にもたれかけるようにそうっと降ろした。
 綾香はまじまじと男を見る。
 背丈はかなり大きく、ガッシリした均整のとれた身体つきが、男をより大き
く感じさせた。浅黒い肌と短くツンツンと立った髪が爽やかな印象を与え、ス
ポーツメーカーのロゴが入ったTシャツにGパンがよく似合う。
 この時期、街を歩けば10人や20人は見かけそうなありふれた格好だった
が、唯一、背中に背負った男の背丈ほどもある黒い棒が、綾香の目を引いた。
「身体は痛むか? すぐに終わるから、ちょっと辛抱しててくれ。」
「は....はい。」
 男の言葉に、思わず素直に返事をしてしまう綾香。
 何が終わるというのだろう?──綾香は思った。
 身体つきやしなやかな身のこなしを見ただけで、男がただ者ではないことを
綾香は感じていた。だが、それがどうだというのだ。『それ』はヒトを遙かに
超越した存在。現実世界に舞い降りたどす黒い『恐怖』。
 しかし、不思議と男の言葉を素直に信じる自分がいた。
 何故だか解らない。だが、さっき男の腕に抱かれ、その精悍な顔に浮かぶ子
供のような微笑みを見たとき、身体中の緊張と恐怖がすーっと引いていくのを
綾香は感じていた。
「お? 物分かりがいいな。」
 男は再び笑って、綾香の頭を撫でた。
 この私を子供扱いするなんて──とたんに綾香の顔が朱に染まる。
 普段の綾香なら電光石火の平手打ちが炸裂するところだ。だが、この夜は違っ
た。沸き上がる根拠のない安心感に浸っていたい。
「──さてと、」
 男はくるりときびすを返し、無造作に『それ』へと向かっていった。まるで
ブラッと散歩にでも出かけるように。
 なおも警戒の唸りをあげる『それ』の手前、約5メートル程の地点で立ち止
まり、ふぅと一息つくと、正面から『それ』を見据えて男は言った。
「よぅ! 名前はなんて言うんだ? 鬼」
 今なにを? あの人は『オニ』って言ったの!?──綾香は男の言葉に自分
の耳を疑った。
 『それ』と対峙したとき、綾香の脳裏に『オニ』という名前が浮かんだのは
確かだ。しかし、『オニ』とは昔話や神話の世界の住人だという想いが、綾香
に『それ』を『オニ』と呼ぶ事を躊躇わせていた。その現実たり得ない化け物
の名前を、その男はさも当然のように言ってのけたのだ。
 鬼──しばしば昔話にみられるその化け物は、ほとんどの場合、恐怖を伴い
登場する。その姿形は様々だが、ほぼ一様に圧倒的な破壊力、残忍性、狂気を
秘める存在だ。確かに...確かに『それ』は『オニ』と呼ぶに、あまりにも
相応しい存在と言えた。
「やっと見つけたぜ。俺が相手だ。」
 鬼の方へ一歩踏み出す。両手はだらりと下がり、緊張した素振りなど、微塵
も感じさせない。
「お前は殺しすぎた。それがお前の生きる証だとしても、俺は許さん。」
 また一歩、もう一歩。みるみる男と鬼の距離が狭まる。
「おい、起きろ! 俺の言葉が聞こえているなら、起きて返事をしろ!」
 鬼は動かない。
 地獄の底から漏れてくるかのような呻り声が辺りに響く。
 禍々しく燃えさかるような赤い瞳で、心までをも串刺しにする。
 肉を、骨を、そして魂までも噛み砕きそうな鋭い牙を剥き出して威嚇する。
 だが、綾香ですら眼を背けずにはいられない狂気のただ中にあって、そのす
べてを男は平然と受け流して、なおも近づく。
 鬼は動かない──まさか、動けないというのか。狂気の瞳も、瞬殺の爪も、
導獄の牙も持たない、か弱い人間に気圧されているというのか。
 遂に鬼が手を伸ばせば届く距離に男は踏み込んだ。
「鬼を制御してみせろ! さもなくば...殺す。」
 グオオオオオオオォォォォォォォ!!!
 魂を鷲掴みするような雄叫びが上げる。
 殺す──男のこの一言に呼応したかのように鬼が動いた。
 一撃が男を襲う。
 手加減など頭にない。なぶり殺すなど考えもしない。ただ、殺す。それだけ。
 今宵、また新たな死者が黄泉の国へと旅立っていくのか。
 鬼の鋭い爪が、呆然と立つ男の頭へと吸い込まれていった。


                            (つづく)