まだ知らぬ恐怖(前編) 投稿者: いち

 カッ! カッ! カッ! カッ!

 小気味よいハイヒールの音がリズムよく夜のオフィス街に響く。
 仕立ての良さが一目で判る淡いブルーのスーツを当たり前に着こなす。
「はぁ〜、仕事の出来る女は辛いやね〜。」
 その女性は誰に言うでもなく、ひとり呟いた。
 すでに『深夜』と言った方がしっくりくるような時間。
 しかし、そういう彼女の表情からは仕事の疲れなど微塵も感じられない。
 その美しさは少しも損なわれることなく、むしろ一日の仕事を終えた充実感
がよりいっそう輝かせる──来栖川綾香とは、そういう女性だった。

 ほどなくさしかかった公園に、綾香は躊躇することなく足を踏み入れた。
 オフィス街の中心にある、大きくはないが、小さくもない公園。
 昼休みは自作の弁当を持ち合うOLや、昼寝をするサラリーマンで賑わうこ
の公園も、深夜ともなればほとんど人影はない。
 公園を斜めに横断する、約5分程の道のり。この仕事帰りの些細な近道を、
綾香は気に入っていた。
 ほんの少しの自然。
 静寂した空間に響く音──木々のざわめき、噴水の水音、虫の鳴き声、そし
て砂利道をゆく自分の足音。
 人に話せば『そんな些細なことで』と笑われるかもしれない。
 だが、例えそれが人が作り出したほんの些細な偽りの自然だとしても、それ
を楽しめるだけの心のゆとりを綾香は大事にしたいと思っている。
「あら? 今日は新月なのね。」
 ビルが乱立するオフィス街では気付かなかった。
 申し訳程度の照明では十分な光を供給できず、公園内はいつにも増して暗い。
「ふふ、こういうのもイイわね。」
 真夜中の公園。
 女性にとって、本来あまり有り難いとは言えない状況ではあったが、鍛え上
げた武術の腕前は、過去、出会った数と同じ数の痴漢を病院送りにしていた。
 悠々と歩く綾香の前方に、ひときわ真っ暗な空間が広がる。
 ひとつあったハズの照明は光を灯しておらず、十数メートルに渡って漆黒の
世界が広がっていた。
「まったく...身を隠すにはおあつらえじゃないの。」
 そういう顔に『恐怖』はなく、むしろ『期待』ともとれる表情を浮かべる。
 危険を楽しむ──自然を感じる心とはまったく相反する好戦的な一面を綾香
は合わせ持っていた。
 いや、自然界とは本来、過酷で危険な世界なのだ。そういう意味では、綾香
にとって両者にそれ程違いはないのかもしれない。
 暗闇に向かって歩を進める。
 次第に重心が下がる。それは、獲物を前にしたネコ科の獣を連想させた。
 少しの躊躇いもなく足を一歩踏み入れた──その時だった。
「!!?」
 不意に風向きが変わり、綾香の鼻孔をある臭いがかすめた時、彼女の両足は
ピタリと止まった。
 その臭いを綾香はよく知っている。
 稽古中に顔面を強打され、口内に広がったあの臭い。
 生臭く、錆びた鉄を思わせるあの臭い。
 なにより、平穏な日常生活では嗅ぐはずのないあの臭い。

 ────血の臭い。

 今や風向きは完全に変わり、前方からおびただしい血の臭いが流れて来る。
 綾香は目前で思いも寄らぬ出来事が起こっているであろう事を直感した。
 すべての感覚が極限まで研ぎ澄まされる。
 五感に加え、第六感までを総動員して状況を見極めようとする。
 額に首筋に、そして握りしめた拳にジワリと汗がにじんだ。
 木の葉の一枚一枚、肌に触れる風の流れ、大地の振動、そして──前方で息
を潜める生物の気配。
 獲物が近づくのを待っている!?
 綾香には解った。それの意図に、そして獲物は自分だということに。
 ゆっくりとハイヒールを脱ぐ。
 迂闊には動けない──そう判断した綾香は、何が起こっても即座に対応出来
るよう、前方に意識を集中させる。
 ──だが、

 ずしり...ずしり...

 なんということだ。獲物が自分に気付いたと見るや、『それ』は無造作に距
離を詰めてきた。ゆっくりと...ゆっくりと...。

 ずしり...ずしり...

 急ぐでもなく、そして立ち止まるでもなく...。

 ずしり...ずしり...

 ──そして、
 丸太ほどもある足。
 べっとりと朱に染まった鋭い爪。
 ゆうに2メートルは越えるであろう巨躯。
 残虐性に満ちた禍々しい赤い瞳。
 全身に闇色の毛皮をまとい、綾香の前に『それ』は現れた。

「あ.....え.....!?」
 出来損ないのSF映画を観るような違和感。
 現実に起こり得ないハズのない光景。
 しかし──圧倒的なまでの存在感。
 まるで『恐怖』を具現化したようなその容姿。聡明で知られる綾香の知識に
このような生物の名前は無かった。最も近似したモノを敢えて引き合いに出す
ならば、そう───オニ。
 歯がカタカタと鳴り、足はガクガク震えた。
 体中の筋肉が恐怖で弛緩する。
 さっきまでの汗が急速に引いていく。
 ダメだ、このままではダメだ──綾香は意志の力で全身のコントロールを強
引に取り戻そうと努力した。
 綾香はただの無鉄砲な娘ではない。
 多人数に囲まれたとき、明らかに不利な状況に陥ったときなどは迷わず逃げ
るしたたかさがある。
 『それ』はヒトどころか、現実かどうかすら怪しい生き物。
 理性が、そして本能がかつて無いほどの警告を発していた。
 次の瞬間、綾香はなりふり構わず逃げだした──だが!

 ザアッ

 頭上で風が舞ったかと思うと、なんと『それ』は逃げようと反転した綾香の
数メートル前方へ着地したのだ。
「!!?」
 なんということだ。あの巨体でこれほど俊敏に動き、予備動作無しであの距
離を舞う跳躍力とは!?
 逃げられない。
 倒すことも出来ない。
 殺られる殺られる殺られる殺られる殺られる殺ら──。
「おおおおお!!」
 綾香は気合いの声をはっし、雑念を、迷いを、そして恐怖を意識の底へと封
じ込めると、一気に間合いを詰めて、渾身の突きを繰り出した。
 一瞬にして懐に潜った綾香に対し、『それ』はあまりにも無防備だった。
 不意を突けば倒せる──などと、綾香はムシのいい事を考えてはいない。少
しでも怯ませることが出来れば、逃げる時間を稼げるかもしれない。それが狙
いだった。

 どガッ!!

 当たる──そう確信した一瞬の後、吹き飛ばされたのは綾香の身体だった。
『それ』の薙払う一撃を腹に受け、数メートルも後方に転がる。
「ゴホッ、ゴホッ」
 腰を、背中を、肩を地面にしたたかに打ち付けて咳き込む綾香。
 あまりの衝撃に、コンマ数秒の間意識を失い、焦点がうまく定まらない。
 不意を突く──それのみに限れば、綾香の狙いは完璧だった。『それ』は反
撃に出た綾香に対し、確かに反応が一瞬遅れた。もはや、野生の猛獣とて避け
ることは叶わない、そういうタイミングだった。だが、『それ』がなにげに払っ
た手の速度は、綾香の考える生物の限度を遙かに凌駕するものだったのだ。
「うう....」
 体中の痛みに綾香の口からうめき声が漏れる。
 いったい何が──綾香は朦朧とする頭で必死に今の状況を整理しようとして
いた。
 自分と『それ』とは、強さに天と地ほどの差があった。いや、両者を比べる
こと自体がすでに間違っている。虎と蚊の強さを比較して、なんの意味があろ
うか。それ程、強さの次元が違っていたのだ。全身全霊をかけた綾香の突きも、
『それ』にかかれば、鬱陶しい程度のモノでしかなかった。
 だけど──幾分ハッキリとしてきた頭で更に考える。
 本気で殺す気ならば、機会は幾らでもあったハズだ。先回りなどと回りくど
いことをしなくとも、背後からの一撃ですべては終わっていた。そうだ、なぶ
り殺す気なのだ。幼年期の野生生物に見られる残虐性。目的よりも、『狩り』
という手段そのものを楽しんでいるのだ。
 綾香はふと自分の脇にある塊に気付いた。
「!!?」
 今夜、何度目かの驚き。そこには数十分前まで恋人だった男女の骸が重なり
合っていた。
 正直、予感はあった。だが、それを目の当たりにして驚かずにはいられない。
 だが、なんだろう?──綾香は重なり合う骸に、何とも言えない違和感を感
じていた。
 どうして男に比べて女の方は──。
「う....うそ....!?」
 違和感の正体が、不自然に乱れた女性の衣服だということに気付き、綾香は
愕然とした。
 上着の前部が引き裂かれ、むき出しになった胸。
 闇の中に浮き上がる、一糸まとわぬ下半身。
 推理が間違っていて欲しい。綾香はゆっくりと近づいてくる『それ』に視線
をやる。視線は自然に下へ──股間の辺りに注意は移った。
「う....あ....」
 そこには綾香の推理を照明するかのように勃起するオスの証があった。
 欲情している──この私に!?
 逃げなきゃ、逃げなきゃ、でないと──犯される。
 もはや冷静でいられるはずもなかった。
 綾香の顔には『恐怖』という表情がありありと浮かんだ。
 身体を起こそうと地面に手をつく。手のひらにヌルヌルとしたどす黒い液体
が触れたが、かまっている余裕はない。
 とにかく起きあがって、どうにかして逃げ──だが、そのしなやかな両足は
綾香の気持ちを大地に伝えることが出来なかった。たった一撃のダメージで、
その機動力は完全に奪われていたのだ。
 生まれて初めて、『絶望』という二文字が綾香の脳裏をよぎる。
 しりもちをつく綾香と『それ』の距離は確実に狭まっていく。
 急ぐでもなく、立ち止まるでもなく...ゆっくりと...ゆっくりと...。
 気丈にも最後の抵抗を試みる綾香だったが、もはや砂利石を投げつけること
ぐらいしか、その術はなかった。
「嫌....イ..ヤ.....」
 どうしようもない無力感に、次第に精神が押し潰されていく。
 あれほど優しかった木々のざわめきにすら恐怖を憶える。
 赤い瞳が邪悪に笑うのを綾香はただ呆然と見上げた。

                               (つづく)