『さおりん』って呼んで 投稿者: いち
 僕は困っている。

 この春、僕は沙織ちゃんと同じクラスになった。
 沙織ちゃんは...こう言うとちょっと照れくさいけど、僕の『彼女』だ。
 あの日がきっかけで急接近した沙織ちゃんと僕は、たったの三日で学校公認
の二人になってしまった。
 おしゃべり好きな沙織ちゃんとはいえ、さすがに三日は早過ぎると思う。
 お陰で僕は心構えする暇もなく、周りに冷やかされる羽目になってしまった。
 学年でも人気者の沙織ちゃんと、クラスでも目立たない僕の異色のカップル
は、色々と噂されたものだったけど、その噂がどれも好意的な内容だったのは、
やはり沙織ちゃんの人柄だろう。
 時が経つにつれて噂もしだいに収まり、最近では沙織ちゃんと僕は人目を気
にせず...もっとも、沙織ちゃんは始めから人目なんか気にしてなかったけ
ど...話を出来るようになった。
 そんな新学年になってしばらくした日のことだった。沙織ちゃんが、何度目
かの、とんでもないことを言い出したのは...。

「ねぇ、ねぇ、祐くん。明日からあたしの事、『さおりん』って呼んで!」

 練習が終わった後のバレー部部室で、沙織ちゃんと僕は備え付けの長椅子に
二人っきりで並んで座っていた。
「ええっ! さ...さおりん!?」
「そう、そう。『さおりん』」
 その目の輝きから、その言葉が冗談ではないことを一瞬で悟った僕は『ウソ
でしょ?』とは訊けなかった。
「あのね、あのね、やっぱり呼び名って二人の親密度のバロメータだと思うの。
 今年から同じクラスって...これはつまり校長先生も公認の二人ってコト
 よねッ!」
 いつもの派手な身振り手振りで、沙織ちゃんのおしゃべりが始まった。
「校長先生とは関係ないと思うけど...」
「でね、でね、『沙織ちゃん』も悪くはないと思うけど、公認の仲になった、
 あたし達には、もうひとひねり欲しいところよね〜。」
 ギュッと握りしめた手を突き上げる。
 当然、僕の言ってる事なんて聞こえちゃいない。
「呼び名にひねりは必要ないと思うけど...」
「それでね、それでね、一日ず〜っと考えてたんだけど、『さっちゃん』はな
 んだか幼いし、『サッチー』はどこかのオバサンを連想しちゃうからイヤだ
 し、『サリン』は論外だし...『沙織』って呼び捨てもなかなかアダルト
 チックでいいかな? な〜んて思ったけど、某ゲームみたいに伝説になる程
 アダルトってのも高校生のあたし達にはちょっと早すぎかも? でしょ!」
 真剣な顔、恥ずかしそうな顔、楽しそうな顔、クルクルとめまぐるしく表情
を変えながら、ますます話に熱がこもる沙織ちゃん。興奮して、頬がほんのり
と桜色に染まっている。本当に見ているだけでも飽きない女の子だ。
「朝から、ず〜っと難しい顔をしていると思ってたら、そんなことを考えてた
 んだ...」
「そしたらね、そしたらね、『さおりん』って言葉が浮かんだの。その瞬間、
 ピーンときたの。響きといい、言いやすさといい、親しみ深さといい、まさ
 にあだ名の中のあだ名、キング of ニックネームって感じよねッ!!」
 沙織ちゃんは大きな瞳をいっぱいに開き、両手は高々とバンザイ、さらに満
面に笑みを浮かべて言った。既に外は真っ暗、部屋を一歩出れば、ここが物音
一つしない静まり返った学校だということをすっかり忘れてしまいそうだ。
「祐くんもそう思うでしょ?」
 沙織ちゃんは一気に喋り終わった後、僕に同意を求めた。僕を見つめる瞳が、
心なしかキラキラと輝いている。
「う...それはそうかもしれないけど...ちょっと恥ずかしいよ。」
「あたしなら大丈夫! 全然恥ずかしくないよ。」
 親指を立てて、グッ! と突き出し、軽くウインクする沙織ちゃん。
「そうじゃなくて...僕が...。」
「えっ?...ひょっとして...祐くん、あたしみたいなガサツな女と付き
 合うのが...恥ずかしい...の?」
「そんなことないよッ!!」
 僕の返事を誤解して、急に弱々しく、伏し目がちに訊く沙織ちゃんの問いか
けを僕は慌てて否定した。
「沙織ちゃんは凄く綺麗だし、話も面白いし、一緒にいるとすごく楽しいし、
 ちょっと怖がりな所なんかも可愛いと思うし、僕なんかには勿体ないくらい
 の......ん?」
 しどろもどろになって言い訳しながら、ふと横をみると...そこには口に
手を当てて、例の『ウププ』笑いを浮かべている沙織ちゃんがいた。
 瞬間、真っ赤になる僕。
 沙織ちゃんがスリスリッと体を寄せてきた。
 長椅子に座る沙織ちゃんと僕の距離がゼロになる。
「勿体ないくらいの...ナニ〜?」
 沙織ちゃんは瞳に意地悪な光を灯して、僕の顔を下から覗き込む。
 シャワーを浴びて、少し湿り気をおびた艶やかな髪が僕の足をくすぐる。
 耳が熱くなっていくのが解る。
 まずい、すっかり沙織ちゃんのペースにはまってしまってる。
「と、とにかく『さおりん』は却下!」
 僕はちょっと強引に話をそらした。
「え〜、い〜じゃない、ゆ〜く〜ん。」
 沙織ちゃんは頬をぷぅっと膨らませて、ますます体を寄せてくる。
 右手に感じる沙織ちゃんの柔らかな胸の感触に、頭がクラクラする。
 ああ...なんて可愛いんだ。なんだか、もう、どうでも...って、ダメ
だ、ダメだ。しっかりするんだ、僕。
 僕は開きかけた『さおりん』というプレートの付いた至福という名の扉を、
際どいところで、なんとか閉めた。

 僕はあの日まで、沙織ちゃんの名前すら知らなかったけど、一部の男子の間
では『"静"の月島、"動"の新城』と呼ばれて、学年美少女ランキングの1,2
位を争う程の有名人だったそうだ。
 当然、想いを寄せる男子の数も相当なもので、
「やるじゃんか、長瀬!」
 そう言って何人の男子に "渾身" の力を込めて背中を叩かれたことか。
 学年が上の、見た憶えすらない先輩も何人か混じってたような気がする。
 最近ようやく静かになってきてるのに、みんなの前で『さおりん』なんて呼
んだ日には、また再開するに決まってる。
 まぁ、それ自体は男同士の『お約束』みたいなものだし、それほど気に
してないんだけど、お風呂が辛いんだよね。
 それと...なんといっても恥ずかしすぎる。
 クラスメートが大勢いるところで『さおりん』って呼ぶ自分を想像してみる。
 あ、なんかいいかも。
 相手が沙織ちゃんだと、そう思ってしまう自分がいたりもする。
 だけど、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。

「さぁ、そろそろ遅くなってきたから帰ろうか、沙織ちゃん。」
 これ以上は抵抗しきれないかもしれない。
 そう判断した僕は『話をうやむやにしよう作戦』を採用することにした。
「........。」
 あれ?
 どうしたんだろう。沙織ちゃんはうつむいたまま返事がない。
「沙織ちゃん?」
「........。」
「どうしたの? 沙織ちゃん?」
「........。」
「........さおりん(ボソ)」
「なに? なに? 祐クーーーーーーーーーンッ!!」
 いきなり瞳を輝かせて返事をする沙織ちゃん。
 どうやら、僕に対抗して『さおりんって呼ばないと話してやらないぞ作戦』
を採用したみたいだ。
 うう、それは辛すぎる。
 大体、それでもいいかもなんて一瞬脳裏をよぎったりする僕に、始めから勝
ち目なんてなかったんだ。
 チラ...隣を盗み見る。
 そこには、両手を胸の前で軽く握り、僕の次の言葉を待つ沙織ちゃんがいた。
 一目でワクワクしているのが判る。
 はぁ...仕方ない。これだけは使いたくなかったけど...ゴメンね、沙
織ちゃん。

 チリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリチリ

「え! いやっ、電波はイヤーーーーーーーーーーーッ!!」

 ・
 ・
 ・

「ん...あれ? 祐くん、ここは?」
「やだなぁ、沙織ちゃん。ここはバレー部の部室だよ。寝ちゃったから、起き
 るのを待ってたんだ。練習で疲れてるみたいだね。」
 少し卑怯ではあるけど、背に腹はかえられないよね...僕は自分で自分に
言い訳した。
「さ、随分遅くなっちゃったね。そろそろ帰ろう、沙織ちゃん。」
 スッと長椅子から腰を浮かせて、まだ座ったままの沙織ちゃんと向かい合う。
「なにか忘れてるような気がするんだけどな〜。」
「ははは、少し寝ぼけてる?」
 僕は腰をかがめ、手を沙織ちゃんの頬に当てると、上から不意打ち気味に、
触れるか触れないかの軽いキスをした。
「...どう、目は覚めた?」
 ほんの一瞬で唇を離し訊ねる僕。
 沙織ちゃんは一瞬ビックリしたかと思うと、ほんのりと頬を染め、そして上
目遣いに僕を見つめて、にま〜っと笑った。
 ちなみに、この間、たったの2秒ほど。
「コレって、お目覚めのキス? 祐くんもヤルもんだねぇ〜。」
 にやけ顔の沙織ちゃんが、指で自分の唇に触れながら、少しおどけたように
言った。
 本当は顔から火が出るほど照れくさい。
 いつもの僕は、こんなキザな事を出来る男じゃないけれど、沙織ちゃんへ僕
なりの精一杯のけじめだった。
「さ、立って。」
 放っておいたらいつまでも余韻に浸ってそうな沙織ちゃんを促す。
 すると...僕の首にスルスルっと手をまわし、
「ね、立たせて。」
 そう言って、沙織ちゃんは目を細めた。
 あの時には解らなかったけど、今なら解るよ。
 僕は両手を沙織ちゃんの脇から背中に通して、ゆっくりと持ち上げる。

『可愛すぎて困っちゃうよ、さおりん。』

 ふと、そんなことを想った。
 このキスはさっきとは比べものにならないほど長くなるだろうな。
 僕は目を閉じた沙織ちゃんに、そっと顔を寄せた。

                             (終)