記憶 投稿者: 意志は黒

 私は努めてつよく振っていた手を,そっと,下ろした。
そして,柔らかい春の夕暮れの陽射しの向こうを,じっと見つめた。

 浩之さんが光の結晶となって向こうに消える直前,
一度だけ浩之さんは私の方を振り返った。それは,逆光のせいか,
それとも私の眼にたまった水のせいか,とてもぼやけた黒い影だった。
 でもその顔が,私に向けられた最後の微笑みだった,という事だけは,何となくわかった。

 私は8日間のテスト期間を終えた。
研究室に帰ると,もうこの場所に立つ事はないだろう。
 何より,大好きな浩之さんとお会いできる事は,二度と,無い。

「私たち…ずっと」その先は言わなかった。

――少し経つとセリオさんが来た。
――2・3事会話をしたら,バスが来た。
――バスは,ただいつもの道だけをたどって走った。
――そして,研究所で停まった。

 私はバスを降りてからも,ただぼうっと道路を眺めていた。
 今さっき走ってきたのとは反対方向のバスを見て,一瞬からだがぴくっと動く。
でも,私はそんな自分を制した。
 少しして,またその方向のバスがやって来た。
またも反応してしまう。今度は一歩体を前に出していた。
停留所には誰もいない。降りる人もいなかったらしくて,
そのバスはゴオとうなりながら,すぐに見えなくなってしまった。
 視線が左から右にスライドし,そのまま灰色の地面へと落ちる。

 その時,クラクションを鳴らして,赤いスポーツカーが大急ぎで駆け抜けた。
 私はビクッとした。長い夢から覚めた時の気分だった。
 スポーツカーを境に車の流れは消え,辺りは一気に静かになった。
ふと見れば,すでに辺りの空気は暗さをたたえていた。今まで,少しも気付かなかった。

 私は,自分のしている事の無意味さを知ってながら,
決してそれが無意味では無いと,心のどこかで思っていた。…信じていた。

 ここに停まるバスは少なくて,次のバスが来るまでに40分くらいかかった。
そして,それは最後のバスだった。ついに,私は走り出した。
どうしても間に合いそうに無かったので,私は,
「すみませぇぇぇぇぇぇん! 待って下さい〜〜〜〜〜!」
と精一杯叫んだ。

 キィィィィィ…
 甲高い音を上げて,そのバスは停まった。停留所からは少し離れている。
私は駆け寄り,そのバスの入り口と運転手さんを見上げた。

 でも…乗らなかった。

 私は運転手さんに謝った。
運転手さんはにこっと微笑んだ。バスの扉がプシューと鳴り,バスは去っていった。

 バスはぽっかりと闇に浮かんだ光となって,遠くに消えていった
私はそれをきっかけに,何かを思い出そうとした。
でも,私は,今はその事を思い出さない事に決めた。
…確かにそれがとても良い思い出の一部だとは知っていたけど。

 私は遠くに消えてしまったバスに,小さく,小さく手を振った。

 研究室に戻った。
 長瀬さんは私の気持ちを察してくれたのかもしれない。
その日はすぐにデータ処理に入る事は無かった。

 その間は,私と「記憶」との戦いだった。
私が少し気を緩めれば,その途端「記憶」は私を揺り動かすだろう。
 だからと言って。私はその「記憶」を無くしたいとは,決して思わない。
それどころか,絶対に忘れたくない。絶対に忘れはしない。
 でも,どうしても思い出してしまうものが有った。それは…

 データ処理の時間になった。私はここで一度眠り,起きる。
そしてもう一度眠る時,私は「記憶」だけの存在になるんだ。

 色々なコードが取り付けられ,私は台の上に横になった。
 私は眠った。やはり,当然の事ながら,夢を見てしまった。
 最初はシークレットデータになっていたあの事も,
今では意識の半分を埋めている。いや,もっとかもしれない。
 私が見た夢は,やはり,当然の事ながら,あの事だった。

 眠ってしまったため,やはり起きてしまわなければいけない。
起き上がった私は,そのまま自分の部屋まで戻った。
 …もう一台バスが来ていたら,私は乗っていたかもしれない
 いすに座って,私はふとそんな事を思った。そう考えると,
さっきバスに乗らなかった事が,たまらなく悔やまれてくる。
 時計の針は時間を出し惜しみしつつ,正確にカチッ…カチッ…と鳴り,
静かなこの部屋の空気を一色に塗りつぶしている。
 その空気を突き破って,私は扉を開けた。

 私は長瀬さんに会って,話した。どうしても最後にしたい事が有る,と。
 そう言うと,長瀬さんは申しわけ無さそうな顔をした。
「…?」
「いや,実は…」
 長瀬さんは,コホンと咳払いし,急にまじめな顔つきになって言った。
「上の方針で,これ以上君とセリオ君を動作させていてはいけないらしい」
「…!」
 私は何か言いかけたけれど,声にはならなかった。
「…すまない」
 長瀬さんは,その先を言わなかった。

 私は,決して長瀬さんに迷惑をかけないようにした。
私は笑顔を作った。そして,何か言おうとした。
 でも,結局声にはならなかった。

 少しだけ時間が与えられた。私はとりあえず外に出た。
研究所の芝生に座り,夜空に浩之さんの顔を思い浮かべては消していた。

 体中が涙を流そうとして震えていた。
でも,なぜだか私の眼からは,一滴の涙も出なかった。
 これは私にとって,初めて体験する気持ちだった。

 …ザッ。
 後ろで物音がした。誰かが来たらしい。
 その人影は何も言わずにいた。私もまた何も言わず,
その人影の後ろについて歩いた。

 いつものその背中を見ているからか,不思議と私の気持ちは落ち着いていた。
私の周りで起こっている事,全てが静かだった。懐かしくも有った。
 夜空に浮かぶ無数の星も,闇に照らされた薄墨色の芝生も。
 狭い廊下も, 研究所の廊下の白い壁も。
 重い扉も,…今私に取り付けられているコードも。

 長瀬さんは私の顔を覗き込んだ。そして,言った。
「マルチ…今までありがとう」
「いえ。私こそ,素晴らしい思い出がたくさんできました。…ありがとうございます」

 私は,最後まで微笑んでいたかった。そして,当然のようにそうした。
 長瀬さんも,少し笑顔を見せた。…それで,私は幸せだった。

 それが,私のレンズに映った最後の映像だった。
 最後のデータが残され,私はいつ覚めるとも知れない眠りに入った。


 …と,本当なら,これで私の全ての話が終わるはずだった。
 事実,私は二度と今までの体に戻る事は無かった。でも…

 眠ってから,何日が経ったのか分らない。私は夢の中で,何かに出会った。
 その人は神々しい光に包まれていた。正面からは見る事が出来ないほどだった。
でも,それが,私に向かって力強く微笑んでいるという事だけは,何となく分った。

 その人は,特に何かを言うわけでは無かった。ただ微笑んでいるだけだった。
 「存在」になっている私は,表情を作ることは出来なかった。
でも,だからこそ私は,表情では表し切れないくらい,精一杯心で微笑んだ。

 その時,私はある映像を見た。
もう眼は無いのだから,感じた,と言った方が良いかもしれない。

 それは浩之さんの後ろ姿だった。
 これから,修学旅行に行くらしい。でも側には誰もいない。
 そのためか,どこか寂しげだった。

 私は浩之さんに笑顔でいてほしかった。
 もしも私にそれが出来るなら,今すぐにでも側に行きたかった。

 私は,前にいる人が何とかしてくれそうな事を,ずっと以前から知っていた。
 今まで忘れていただけだったんだ,と思う。

――あなたは,浩之の側に行きたいのですね。

 私はうなずいた。もちろん,体では表せないくらい強く。

――分りました…しかし,その時は,決して結ばれる運命には有りません。

 浩之さんの側にいられたら,それだけで良い。
 私は,嬉しさで涙を流した。その涙は,もちろん…


 私は生まれ変わった。
 浩之さんと同じ年に,小さい頃から浩之さんの側にいられる存在として。

 私は浩之さんとたくさん遊んだ。浩之さんは笑顔だった。私は幸せだった。

 学習型であった名残に,この体の運動能力の高さを加えて,
私は浩之さんに教わった事を素直に覚えていった。

 でも,ドジな点とかは,相変わらずだった。
ひな祭りの時,ひな壇を倒してしまった事とか…数え切れない。

 でも,物心がついた時,同時に以前の私の記憶は消えた。
残っていたことは,浩之さんのお側にいたいということ。それだけだった。

 私の今までの記憶が蘇えったのは,マルチ――以前の私――と別れてしばらくして,
修学旅行の日がやって来た時だった。

 私は浩之さんの後ろ姿を見た。たった一人で,どこか寂しげだった。
その映像は,紛れも無く以前私が見たものだった。
 そして,一瞬の内に,激流のように記憶が蘇った。

 私はこの為に生まれ変わったんだ。
 そうだ…あの時言おうとした独り言を,浩之さんに言わなければ…。

 結ばれる運命に無い。そんなことは,分りきっている。
それでも,私は浩之さんに笑顔を持ち続けてほしかった。

 私は浩之さんに話し掛けた。
 ただし,以前の私の様にではなく,いつもの呼び方で。

「浩之」
「おう」振り返って浩之さんは言った。「何だ雅史?」

 雅史…それが今の私の名前だ。私は…いや,僕は言った。

「僕たち…ずっと友達だよね?」


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 こんにちは。意志は黒です。
 …マルチファンの方,雅史ファンの方,ごめんなさい(汗)
寝る前にネタが出ちゃったものですから…おかげで夢にマルチが出てきました(笑)
 同ネタが昔有るようでしたら,お教え下さい。その人と連絡取りたいです(大笑)

 書いていて思った事…これ本当にマルチなんだろうか…
 しかも,ハッピーなんだか,永遠の別れなんだか,途中までわかりにくい…。
それも面白いかなぁ,と思ったんですが…ただのわやくちゃな文になっていない事を願う。

 はい!アナザーの最後は多分4月中です(笑)←1ヶ月も使うな!(でも結局駄文だし(笑))