2000/10/3
西暦二千年 八ヶ岳再び 一日目


 ツーリングに出かけるために、あれこれ思いを巡らせながら荷物を詰めている時ほど、幸せな時はない。コンプレッションパックによって、それとは判らない程に小さく圧縮されたレインウェアをタンクバックに詰めながら快晴を願い、救急セットを詰めては、出来ればその封を切る機会がないようにと祈る。最低限の着替えとタオルと石鹸とを無造作にバッグに放り込む時、頬をなでる冷気が心地よい露天の湯に浸かる自分がそこにいて、ヘルメットとそのシールドの汚れを丁寧に拭い、革ジャンとグローブとブーツにミンクオイルを擦り込んでやってから、確かめるようにそれらを身につけると、どこまでも続くワインディングロードがシールド越しに見えてくる。
 いつもそうだ。ドキドキしている。走り始める度に、そしてそれはバイクに乗り始めた頃から今も変わらない。シフトペダルを踏み込んで、クラッチを繋ぎ、そうしてむき出しの体に感じる最初の風はいつも新鮮で、俺をときめかせる。

 七時ちょうどに家を出発し、利根川沿いから農道に入り、柏から高速道路に乗り入れる。常磐道は順調だったが、外環道の川口から先が渋滞していて、予定していたより少し遅れて関越道に入る。夏の終わりをジーンズ越しの空気で感じながら、晴れ渡った空に誘われて繰り出したとおぼしき多くの車にペースを乱されつつ、北へ向かう。
 待ち合わせ場所の寄居PAに到着すると、すでにや〜ふる、トキさん、カトーくんが先に着いていて、にこにこしながら俺を迎えてくれた。ぶんちゃんはまだ着いていない。軽く挨拶を交わし、タバコをくわえながら缶コーヒーのプルタブを引き上げていると、カトーくんが言った。
「トキさんすでにやっちゃいました」
 トキさんとカトーくんは俺の職場の仲間で、彼らとは今回初めてツーリングに出かける。さらにトキさんは、先月バイクの免許を取得して、公道をまだ百キロに満たない距離しか走っていない初心者で、今回が自身にとっても初のツーリングであった。カトーくんが言うにはそのトキさんが「やっちゃった」のだそうで、バイク乗りの言う「やっちゃった」とは、バイクをコカす意味の言い回しでない筈がなく、つまりトキさんはバイクをコカしたのであった。
「えへへ、やっちゃいましたあ」と照れながら言うトキさんに体は大丈夫かと訊ねると、どうやらガソリンスタンドで給油した後にバイクに跨ろうとしてグローブを道に落とし、それを拾おうとしてバランスを崩して倒してしまったとのことで、怪我はなかったのだそうだ。バイクの様子を見てみると、ブレーキレバーの先端部がぽっきり折れてはいたが、操作には支障がないようだったので、まあ怪我がなくて良かったねと肩を叩くにとどめた。初心者にプレッシャーを与えることほど危険なことはない。笑って済ませられるならば笑って済ませた方が良い。誰もが経験することだし、バイク乗りであれば誰もそれを本気で笑ったりはしないものだ。
 が、トキさんは笑えなかったかも知れない。そのバイクは、彼の会社の上司からの借りものであったからだ。さらに話を聞くと、昨夜は緊張で一睡もできなかったらしく、眼を赤く腫らしている。今度は俺が笑えなくなった。どうなるトキさん。トキさんに明日はあるのか? ないと困るが。
 待ち合わせの時間ちょうどにぶんちゃんが現れ、好天に恵まれたという話題を挨拶代わりに、いよいよ走り出す。
 藤岡ジャンクションから上信越道へと入り、俺、や〜ふる、カトーくん、トキさん、ぶんちゃんの順に千鳥走行で、俺にしてはずいぶんゆっくりとバイクを走らせる。いつもより頻繁にバックミラーに目をやると、トキさんはなんとか遅れずについてきているようで、でも、遅い車を追い越すためにペースを上げると車線変更に手間取り、遅れはじめてしまう。なので、よほど遅い車に阻まれない限り、追い越し車線を使わずに走る。
 上信越道に入って最初のサービスエリアに立ち寄り、トキさんに状態を聞いてみる。本人曰く、緊張でガチガチなんだそうである。だが、それでもなんとかなりそうだと言うので少しだけ安心する。本人が駄目だと言うのを無視する訳にはいかないが、本人が大丈夫だと言うのを尊重できないほど狭量な人間でもない。空気が乾燥しているせいでやたらと渇く喉を缶コーヒーで潤し、ガソリンを給油して再び走り出す。
 佐久で高速道路を下り、女神湖を目指す。その途中で道を間違え、袋小路のようになった小さな村に入り込んでしまい、農協の駐車場で地図を確認しているところへ、地元のおばちゃんに声をかけられて、正しいルートを教わる。そしてこの後色々な場所で、そうした心優しきおばちゃん達と巡り会うことになるのである。
 なんとか正しいルートに乗り、それから暫く走ったところで、カトーくんが大声で叫ぶ。「トキさんのバイク、なんか変っす」と。
 彼が言うには、後ろを走るトキさんのバイクから、時折「キュキュッ」という音が聞こえてくるのだそうだ。本人もそれは自覚していて、どうやらシフトをチェンジする度に聞こえてくるという。原因を解明すべくあれやこれやと話をしていて、ふとぶんちゃんが言った。「トキさん、シフトダウンするとき、シフトペダルを踏み込んだ後、いきなりクラッチを離したりしてません?」すると、「ああ、そうですそうです」とサラっと言ってのけるトキさん。一同へなへなと力が抜けた。トキさん、そりゃ急激にクラッチを離せばタイアがロックしてそんな音もしますよ。まあ、笑える話でヨカッタ。
 やがて、緩いコーナーが連続する気持ちの良い道が始まる。バックミラーの中でバイクが右へ左へと踊り、誰もがそれを楽しんでいるように見えた。見えただけだった。トキさんひとりが、やはり緊張しっぱなしだったらしい。がんばれトキさん。もうすぐ昼飯だ。
 女神湖に到着し、お目当ての店にそそくさと入る。蓼科牛を食わせる、「山木綿(やまゆう)」という店だ。メニューを一瞥しただけで全員が蓼科牛のステーキセットを注文する。や〜ふるなどは、ほとんどこの肉を食うためだけに参加したようなものである。ぶんちゃんも幸せそうだ。カトーくんは、まあ彼は地元民のようなものだから、今更何の感慨もなかっただろう。トキさんは、やっと一息つけたのだろう。運ばれてきた料理を前にして、この旅で初めてほっとした表情を見せた。いやでもしかし、ビールが飲めないのは本当に恨めしい。
 満足げに腹をさすりながら店を出ると、あろうことか雨が落ちてきていた。ああ、ついに降ってきたか。天気予報では、六十パーセントの確率で降雨が予想されていたのだ。まあ、ここまで雨に降られずに来られたのを幸運だと思うことにしよう。
 レインウェアを身につけ、更なるスキルアップのためにトキさんが雨の中を走りだす。行け行けトキさん。がんばれがんばれトキさん。あ、トキさんが固まっている。お〜い。
 雨はますます勢いを増していき、さらに悪いことにこの旅のメインであったビーナスラインは深い霧に覆われていた。料金所のおやぢの冷笑を浴びながら、それでも俺達は走る。ゴーゴー。
 シールドが曇る。曇りをとるためにシールドを少しだけ開ける、シールドの内側を雨が伝い、さらに視界が悪くなる。結局シールドをひさし代わりにする。今度は眼鏡を雨が叩く。頬を濡らす。霧で、視界は五メートルほどだ。
 ふと、バックミラーからカトーくん以下のバイクのヘッドライトが見えなくなっているのに気がつく。や〜ふるとともに路肩にバイクを寄せて、追いつくのを待つ。待つ。さらに待つ。来ない。Uターンして少し戻るとミルクを溶かしたような霧の中から、三台のバイクが現れる。どうやら転んだ訳ではなかったようだ。再びUターンして先頭に立ち、そこから少し先の展望台の駐車場に乗り入れる。どうやら、カトーくんのバイクから離れてしまい、それまで彼のバイクのテールランプを頼りに走っていたトキさんが、危険を感じてバイクを止めたのだそうだ。臆病さは、バイク乗りの資質でもある。勇気と無謀とは明らかに別のものだ。彼となら、またツーリングに来ても良いな、と思う。
 それにしても寒い。革製のグローブしか持ってきていなかったので、雨に濡れるのを嫌って素手で走っているのだ。さらに、革ジャンの上からレインウェアが着られなかったので、トレーナーの上にレインウェアだけという出で立ちだったのだ。寒い。寒い。寒い。
 料金所のゲイトをくぐる度に、五台分の通行券を、レインカバーを被せたタンクバックから取り出す。ビーナスラインを全線走破するためには、その煩わしい手順を何度も踏まなければならない。面倒くさい。高速道路の料金所でもそうなのだが、通行券を受け取ったり、料金を受け取ったりするその動作に少しでも手間取ると、後続の車のあからさまないらだちを背中越しに感じることがある。だが、そうやってプレッシャーをかけられると、貨幣は落とすわ通行券は風に舞うわエンストするわますます焦って立ちゴケて転んだ拍子にガソリンがタンクから漏れだして火が着き炎上、という大惨事になりかねない。どうかひとつ、車を運転するみなさまにおかれましては、もしも料金所でバイクの後についてしまったら、タバコの一本にでも火を着けて心静かにお待ちいただけると幸いです。そこんとこよろしく。
 まったくもってそんなつもりはみじんもなかったのだが、今夜の宿へと至る道を通り過ぎ、着いたところが王ヶ頭。ああこりゃこりゃ。忘れようとしてよく覚えていないのだが、なんだか標高が二千メートルに限りなく近かった気がする。あたりにはむせぶような霧が立ちこめていて、なにもかもが白一色に塗りつぶされている。しかも、駆け込んだトイレは有料百円なり。高地であるが故、いたしかたないのだが、有料のトイレは新橋駅で見て以来である。なんだか特をした気分だ。あれ?

 とにもかくにも、今夜の宿である「漁樵カオス」に到着する。宿へ入る前に予定していた温泉と食材の買い出しは省略した。だが、冷えた体を暖める風呂は、借りたコテージ内に備え付けられているのでそれで事足りるとして、空腹だけは食材がなければ満たされない。荷物を降ろしてコテージに放り込み、管理人のおばちゃんに教わった近くの民宿に、ぶんちゃんと二人で食材を分けて貰うためにバイクで走り出す。雨はもう止んでいて、麓あたりでは晴れているようだった。
 たどり着いた民宿は雑貨店をも兼ねていて、その軒先では高原野菜の販売も行っていた。が、どうやら肉類は販売していないようだ。野菜、調味料、ビールは確保したが、やはり肉が欲しい。家に帰れば腹を空かせた狼が三匹、食料調達班の帰りをのんびり風呂に浸かりながら待っている。
 コテージの管理人に聞いたという旨を伝え、肉類を分けて貰えないかとおずおずと切り出すと、あっさりと、あまりにもあっさりと、豚肉で良いかと聞いてくる。いやいやもちろんぜんぜんおっけーですと喜びを隠しもせずにそう言うと、今度は魚、岩魚はどうだと聞いてくる。そりゃもう願ったり叶ったりでございます。しかし、五匹欲しいと伝えると、残念ながら四匹しかないのよねえ、あと一匹は山女になってしまうけど良い? と聞かれ、なにをおっしゃいますやらまったくもってノープロブレムでございます。という訳で、さらに朝食用のパンとぶどうジャムを手に入れて、意気揚々と帰途に就く二人であった。
 料理の下拵えをする間に、管理棟で手に入れた薪でたき火の準備を始める。たき火が出来るというだけで宿を決めたようなものだった。岩魚(一部山女)も手に入れた。これをたき火で焼かない訳にはいかない。いや、むしろそれは罪でさえある。ところが。
 雨で湿った薪になかなか火が着かない。たき火マイスターカトーくんが、女性を扱うように優しく息を吹きかけて燃え上がらせるんですよでぇへぇへぇなどと言いながら、顔を真っ赤にして奮闘するも、熾きになるばかりで一向に燃え上がらない。カトーくん、攻めが足りないんじゃないか? 攻めが。ま、若さ故の経験不足という奴だな。わはは。と、笑っている場合ではない。岩魚(一部山女)はどーすんだ岩魚(一部山女)は。
 結局火を熾すのを諦め、部屋に戻って肉野菜炒めを作り始める。持参した米をこれまた備え付けの電子炊飯器で炊き、ビールで乾杯し、おかずを奪い合う。満腹になった腹を重力のなすがままに横たえ、気怠く他愛ない話に花を咲かせる。テレビ(!)を眺めつつ。
 ところが、どうにも頭からあの岩魚(一部山女)のことが離れていかない。なんとかならないものか。このままこのコテージの冷蔵庫の肥やしとなってしまうのか。考えろ。考えるんだ。
 で、なんとかした。ここでは書けないが、とある方法で岩魚(一部山女)を焼くことに成功した。どうやら俺達は猿よりは少しは賢かったらしい。うまい。むちゃくちゃうまいのだこれが。なんだろうこのうまさは。今やツーリングでの常套句となったや〜ふるの「来て良かった」も飛び出し、一人また一人と、ロフトに敷かれた暖かい布団の中へと落ちていくのであった。屋根を叩く激しい雨音を子守歌の代わりにして。
 


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