1998/12/1
大切な物


 十和田湖の朝は早い。
 午前八時を過ぎた辺りから、続々と観光バスがやってくる。おばちゃんばかりかと思っていたら、若い人達の姿もちらほらと見える。九月初めとはいえ、朝晩は結構冷える。トレーナーを着込むが、それでも寒い。

 荷物をバイクに積んでから、土産物屋へ絵はがきを買いに行く。何種類かの絵はがきが並んでいたが、内容はどれも似たようなものだった。一番安い絵はがきを買って、その足で郵便局に行き、切手を何枚か購入した。家族と友人に宛てて、簡単な近況と現在の居場所をしたため、ポストに投函した。
 今日中に青森まで行き、明日の朝一番のフェリーで北海道へ渡ることにしていたので、時間にゆとりがある。もっとも急ぐ旅ではなかったので、時間にゆとりがあるのはいつものことなのだが。

 土産物屋が立ち並ぶ広場のほぼ中央にベンチがあり、そこに腰掛けて煙草を吸いながら、観光客を見るともなしに見ていてあることに気が付いた。誰も湖など見ていないのだ。見ていたとしても、土産物屋で費やす時間の一割にも満たないのではなかろうか。大きな口を開けて欠伸をしながら、退屈そうに湖を眺め、やがて土産物屋へと吸い込まれていく。カメラのレンズ越しに、バスの窓ガラス越しに景色を眺め、決して自らの目で、足で確かめようとはしない人達。薄汚れた格好のバイク乗りに突き刺さる好奇の視線。あきらかに、俺と彼等との間には越えようのない一線が引かれていた。むしろ、哀れむべきは彼等の方ではないかと思うのだが、決してそうは思っていないだろう。見下すような口調で、訳知り顔のおやじに声を掛けられる。

「バイクかい?」
「ええ、まあ」
「ふ〜ん、これ何てバイク?」
「ジェイド、です」
「……知らないなあ。俺も昔は乗ってたんだよ。ホンダのCBに」
「はあ、そうですか」
「いいバイクだったねえ、あれは」
「今は乗ってないんですか?」
「そんなもん、とっくに卒業したよ」
「……」
「じゃあな」

 そんなもん、と言われて腹が立たない訳がなかった。彼にとっては、美化された記憶の一部なのだろうが、俺にとっては現実なのだ。あのおやじは何を言いたかったのだろう。自分が俺よりも優れているのだということを、誇示したかったのだろうか。先輩面で若者に訓辞の一つもたれてやったことで、善い行いをしたとでも思っているのだろうか。ふざけるな。あんたのためにバイクに乗っている訳じゃない。
 そろそろ出発しようとエンジンを暖気しているときに、その事件は起こった。グローブを着けているところへ、二人組のおやじがビールを片手に近寄ってきた。

「お、千葉からか。随分遠かっただろう」
「はあ」
「こんな細いタイアでよくやるよな」

 そう言いながら、彼はタイアを足で蹴飛ばした。俺は反射的に彼の胸ぐらを掴み、横面をこぶしで殴った。自分でも何が起こったのかわからなかった。次の瞬間、彼は地面に横たわってうめき声を上げていた。もう一人が、「何をするんだ」と怯えた目で叫びながら、横たわるおやじに駆け寄った。殴られたおやじが立ち上がり、俺に向かって来ようとするのを、もう一人のおやじが引き留めていた。何度でも殴ってやるつもりだった。こぶしを握りしめながら、彼に言った。

「謝れよ」
「……な、なにおう」
「人のバイクを足蹴にしておいて、謝りもしないつもりか?」
「たかがバイクだろうがよ」
「たかが、だと」

 そのころになると、何事かと集まってくる人々で人だかりができていた。そんなことにはお構いなしに、再び彼に向かって足を踏み出した途端、その二人組は、駆け足で逃げ出してしまった。

 いたたまれなかった。ほんの些細なことで人を殴ってしまった。いや、社会的に、ごくごく一般的に言えば些細な事だったかもしれないが、俺にとってはもっとも屈辱的な出来事だったのだ。
 物事をよく考えずに、簡単に人の大事な物を足蹴にする人達。しかしそれは、俺も同じだったかもしれない。物事をよく考えずに、簡単に人を殴ってしまう自分。
 人だかりの輪が、少し後じさりし、その中から殊更静かにバイクを発進させた。無性に悔しかった。大きくアクセルを開ける度に、濡れた落ち葉でリアタイアがスリップし、コーナーでは何度もフロントからスリップダウンしそうになる。それでも、やり切れない気持ちを拭おうと、ひたすらアクセルを開け続けた。
 木漏れ日の美しい奥入瀬川沿いの国道を走りながら、吐息で曇るシールドを少し開けると、ヒンヤリとした湿った空気が入り込んできた。


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