序 文 神 兄 弟 の 動 向
兄弟の再会がいつだったのか。50年10月、「5枚目の女王」で、信楽老との対決をにおわせているから、その前後と思われる。信楽老に影武者がいて、何か事件が起きてもアリバイが用意されているから罪に問われることはない。 このころから恭一郎は信楽老打倒のため、策を考えていたのではないだろうか? 兄弟が入れ替わったのは「スケバン刑事」第一部終了直後である。この根拠については後述する。 岩田先生自身、よく作品中に顔を出し、事件解決にも一役買っている。ところが、「スケバン刑事」第二部では、ゴルド邸のパーティーに招かれたきりで、その後はマンガ家としての岩田さんは登場して来ない(スナックのマスターなどバイトはともかく)。これは信楽老との全面対決を控え、表立った行動はまずいと考えたからではないだろうか? 逆に恭一郎は、サキとのラブロマンスを中心に前面に出ている。これはもうひとりの恭一郎、信楽財団に潜入したムウ=ミサを隠すための岩田先生の演出ではなかったのか? 兄は拳銃の名手である。弟もまたアメリカでの危険な生活に銃は必需品であった。弟は帰国してその腕を発揮するために、日本での拳銃所持が許されている兄・恭一郎の名を騙っていた方がよかったし、恭一郎は信楽老のふところ深く入り、疑われずに内部調査するために弟を替え玉に立て、神恭一郎はしっかり探偵業をやってますよ、と世間一般に見せつける必要があったのである。 ここまでくれば、生い立ちの矛盾も十分説明がつく。 岩田先生は、ふたりの人物をさもひとりであるかのように見せかけ、世間と信楽老を欺いていたのである。 念のために付け加えておくと、『闇の虎』編で経歴の食い違いが露呈したとしても、そのころ(『花とゆめ』掲載時、昭和57年夏)には、すべて事件は終わっていたことを理解すべきである(和田作品年表参照)。 また、たとえ両親の復讐でも、私刑はどこの国の法律だろうと許されるはずもなく、“闇の虎”の恭一郎は犯罪者、殺人者になってしまう。だから、その行為を名探偵神恭一郎の隠された過去として発表することによって、完全無欠と思われていた恭一郎に人間性、感情を与え、弟二郎の行動も擁護しているのである。 「白書」で、恭一郎が、 「彼女は金をも手に入れようとした。復讐だけならば私には撃つ資格はなかったのだ…」 と言っている。裏返せば、復讐のためなら人を殺してもやむを得ないということをほのめかしているのだ。弟の立場を認めているセリフのひとつである。 次に判断に迷わされる神兄弟の知人・交友関係について。 恭一郎は英国留学でヨーロッパはよく知っている。二郎はアメリカに知人・敵が多い。 再会後の兄弟は、当然情報交換していたから、互いの友人・敵を熟知しており、入れ替わっても卒なく切り抜けている。 西園寺京吾は、兄恭一郎の親友である。最後に会ったのは49年春、密輸取り引きの偽装見合いで京吾が美尾の妨害を失敗させ、メンツを保ったころと思われる。レジャーランド開催の2か月ほど前だ。 美尾は、第二部での恭一郎の入れ替わりを知っていた。が、岩田先生の脚色によって、以前と同様変わらぬ態度に描写されているのである。 速水真澄も、恭一郎のオックスフォード大からの付き合いだ。 二郎の知り合いは、暗黒街のボスどもやニューヨーク市長、市警察など、各界の著名人である。血なまぐさい復讐劇とは対照的に、華やかな表舞台にたてたのも、暗黒街を知り尽くした二郎が、警察に情報を流して知己を得たからと思われる。 さて、いよいよ神恭一郎イコールムウ=ミサの証明をしていこう。 私が最初にその疑問を持ったのは、『卒業』のラストシーンからだった。 「あいつは最後まで学校ってやつに…かかわっていたかったんだ」 このセリフ、教師として長年の付き合いである沼先生より、第二部の途中から登場してきた、学校とは無関係なムウ=ミサが言ったことに不自然さを感じたのは私だけだったろうか? 振り返ると、第一部『エピローグ』のラストでは、恭一郎が、 「−−−さらば麻宮サキ、−−−さらばスケバン刑事…」 で締めくくっている。この符号…。 もし、ムウ=ミサが第一部「エピローグ」の恭一郎だったとしたなら、『卒業』は、ミサのアップからロングに変わるあおりショット、ラストを飾るにふさわしいセリフだったのだ。 こう考えると、恭一郎とムウ=ミサの共通点をいろいろ見い出すことができる。 一般に、恭一郎はフェミニストのように思われているが、実はサディストではないのか? それは「愛と死の砂時計」から表れている。 神恭一郎は、この時期から警察、法務省に一目置かれている存在だった。拳銃所持の許可を受け、この事件では冒頭、容疑者逮捕の手錠をかけているほどの人物だ。 その名だたる探偵の言うこと。死刑執行直前、法務省に電話して中止命令を出してもらうことなど朝飯前だったろう。 しかし、事は無実かもしれない人間の生死にかかわることなのだ。一刻を争う重大な時に、真犯人の行動を悠長に待つことはおよそ考えられない。執行当日の朝には、すでに中止されていたのではないのか? 「保本登、出なさい」 の次に続くセリフは、 「あなたは無実でした。釈放します」 だったかもしれない。 しかし、恭一郎は真犯人を泳がせている。杳子が追い詰められ、苦しみ、嘆くさまを見るために…。そして、土壇場で登場して真犯人の野望を打ち砕いたのである(竹やぶで杳子との待ち合わせに遅れたのだって、寝過ごしたかどうかわかるものか)。 この陰険な性格は、『誕生編』での母の面会に行くサキを追う恭一郎の笑いにもうかがわれる。 サキが形容しているように、「イヤな奴、イヤミな男」だったのだ。 これが第二部の恭一郎になると、サキに対する冗談は1、2度にすぎず、ひたすら優しい男になっている。 一方、ムウ=ミサは、サキをからかうことに生きがいを感じているような男だ。サキばかりでなく、多聞寺忍を苦しめたり、ミンキーキャッツを引き抜いて、浜田真理や中川美奈のプライドをつぶしたり…。女の子を見境なくいじめるところが、第一部までの恭一郎と似ているのである。 恭一郎とサキの、男女関係という観点からも、第一部では、サキは恭一郎を意識し始めてはいたものの、はっきり“愛”とわからず、恭一郎も、サキをひとりの女性とまでは見ていなかったようだ。 第二部になると、恭一郎はサキに対して大きな変化を見せるようになった。サキの消息不命中、思いを募らせたのだろうか? 欧州の“猫”を追う恭一郎とサキの文通で、はっきりお互いの愛を感じるようになり、死んだと思われていた恭一郎とのナイアガラでの再会は、ふたりの愛を熱く燃え上がらせた。 このころから恭一郎は、サキを避けるようになっている。“猫”に狙われ、サキを巻き込ませないためにか。だが、この恭一郎が弟だったとしたら? 兄の影武者であることの責任と、兄もサキを愛しているかもしれないということの板ばさみで、替え玉の二郎はサキから遠ざかるようになったのではないだろうか? 選ぶのはサキ自身である。サキは、魂の欠けている部分が似ているふたりでも、ムウ=ミサこと第一部の恭一郎より、第二部の恭一郎に魅かれた。発電所で、「頼む、神!」と手榴弾を渡されたときのムウ=ミサの心中は複雑なものがあったろう。 盲目の恭一郎とムウ=ミサは、警察側対信楽側という敵同士の形であると同時に、一人の女性をめぐる恋のライバルの対決にカムフラージュして、信楽老や碧子に疑念を持たせないようにしている。 『闇の虎』編で、信楽邸からの電話は盗聴されていたのだ。ミサは、あくまでも恋敵として恭一郎に接し、グランド=スラム作戦の情報を流すのも極力押さえたのである。 ムウ=ミサは、かつて美尾を秘書にした恭一郎本人である。駆けつけるのが遅く救うことができなかったが、ここで注目したいセリフがある。 . 「遺体をどこへ葬ればいい?」 もし、ミサが恭一郎でないとしたら、信楽老の部下として敵の秘書である美尾のことは身辺調査だけでしか知らなかったろう。だとすれば、この会話で美尾のことに触れるわけはなかったし、親切心で言うにしても、 . 「遺体をどこに葬ればいい?」 と、「どこの家の墓に」と問うはずである。それを「どこへ」と、あえて地理的な場所を聞いた。これは恋人の西園寺京吾が、遠い瀬戸内海に眠っていることを知ってのことであり、電話の向こうの恭一郎(弟・二郎)から「瀬戸内海のY島」という答えが帰ってくることを当然として聞いたのだ。 美尾のことを「知っている。よく知っている」証拠だ。 一人二役が成立する条件は、ひとりが表面に出ているとき、もう一方はいないということである。この場合、恭一郎は弟を影武者にしているのだから、ムウ=ミサと恭一郎がふたり同時に現われても不思議ではない。 ところで、ムウ=ミサに確実な過去があれば、恭一郎イコールムウ=ミサの仮説は成り立たない。 曰く、マンハッタンの下町で10年近く暮らした。曰く、バイトでホットドッグやロビーカードを売っていた。曰く、バイトでガイドをやっていた…。 これらはすべて、ミサがサキに冗談まじりにいったセリフでしかない。どこまでホントでどこまでウソなのか? 取りようによっては過去はなかったとも言えるのである。 はっきりしているのは、テレビ局の屋上でサキに正体を明かしたとき。もう生きて会えるかどうかわからないから、ここでウソをつく理由はない。 「3年間、これにかかりっきりだ」 3年前とは、サキがエノラゲイ号の爆発で消息不明になった52年秋、「スケバン刑事」第一部終了直後のことである。 海槌麗巳がサキに復讐するために、サキの妹に整形し、体型すら変えたように、恭一郎は信楽老を倒すため、過去を捨て、別人になりすました。 それほどまでに固い決意があったのも、この麗巳事件で、自分の非力さを痛感したからに他ならない。 「一介の私立探偵には、少しばかり荷が重すぎる」 …と。 だから内閣調査室の特務員、すなわち、国立探偵のムウ=ミサになったのだ。 以上、さまざまな角度から検証して、神恭一郎とムウ=ミサは同一人物であると断定する。 これは、言葉尻を取っただけ、詭弁を弄しただけの空論なのか? 否。岩田先生は、作品の一編一編に大道具、小道具、セリフの妙など、伏線を張ってラストのオチに結び付けている。「スケバン刑事」全編に隠された、この一大トリックも、今まで見てきたように数々の伏線や暗示があった。 そして、願わくば読者諸君よ、この謎を解いてみよ、という岩田先生からの挑戦が、『卒業』のラストシーンに託されていたのではないだろうか? あとがきにかえて “神恭一郎”という名の秘密 昭和24年、敗戦の混乱からようやく立ち直りかけた日本。その日本をはるか離れた英国で、船舶設計技師の卵、神夫妻に男児が誕生した。 推理小説ファンである神氏は、前年発表された高木彬光の「刺青殺人事件」に感銘し、自分の名字が“神”であることから、主人公神津恭介の一字を借り、長男に恭一郎と名付けた。 名探偵神津恭介のように聡明な人間に育つことを願って……。 神恭一郎のモデルとなったのが、神津恭介であることに疑う余地はありません。 その神津探偵が「成吉思汗の秘密」で、ジンギスカンと源義経は同一人物であるという一人二役の謎に挑んでいます。 奇しくも彼をモデルとした神恭一郎自身、実は一人二役をやっていたのではないかという仮説が推理できるのは、単なる偶然なのでしょうか? 和田慎二先生は、意識して恭一郎の生い立ちを変え、わざと矛盾した物語にしたのではと、うがった見方をしてしまいます。 これは買いかぶりでしょうか? 和田作品には、計算しつくされたストーリーとは裏腹に、ワトスンばりに単純な日付けの間違いや同名キャラの別人、キャラ名の取り違いがあります。そういった多くのミスも、考えようによっては何か隠された意味があるんじゃないかと勘ぐってしまいます。 キョーイチロッキアンもいよいよ重症だなと思う今日このごろなのです。 (1984/7) |
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