たいていの場合 公共施設の件で「行政が直接住民の要望を聞く」とは昔ながらの町や村では「顔役へのご意見うかがい」か、新しい住宅地の場合でも「自治会の役員の確認をもらう」ことを意味していることが多いのではないかと思います。 直接公園を利用する人の意見を個別に聞くという事ではありません。伝統的で超現実的なこの方法は、公園に限って言えば無視できない問題を抱えている心配があります。
管理する立場からしたら公園をつくることは公民館をまちにつくることと同じようなことという気もするかも知れませんが使う立場から言えば似ていないような気がします。
公民館は個人と社会的な関わりの中で社会的な部分に立って使われることが基本だと思いますが、公園は同じように個人と社会との関わりの中でも個人の側に足をおいて使うものと思えるからです。
なにはともあれ日本の現実的な社会に立って利用される以上 それなりに有効に機能しうるのでしょうが 公園ではそうもいきません。
公園は日常の生活の中で普通のまったく日常的なこととして誰もが誰にも許可を得ることなしに、ほんの気のおもむくままにほとんど無目的と言っていい程度に極端にに言うと「個人が自分の信じる社会的なルールの中で、全く個人的に使えるところ」であって公園の夢もそこにあります。
もう一度言うと社会的な利用が主であればたとえば公民館の場合、個々の差異はあっても町の代表者が利用方法も決めて意見もまとめることができます。ところが公園では地域の代表者の意見を聞いても個人としての意見しかでてこないか(ほんとはそんな人はたいてい街の公園を利用していない)又はごく一般的な教科書的な答え=個々の公園をどうするかにはほとんど役に立たない意見しか帰ってきません。
更に聞くと運が悪ければただ金を出来るだけたくさんかけるようにという要望がでてくるだけになるかもしれません。
いずれにしても結果はあまり期待できませんね。
でも地域ごとの公園が利用者個別の要望を持って使い続けるってことは本当に現実的なのか?、
現実的な敷地の条件などにより個別の要求に対応などはできないだろうし、子どもなら数年もすれば利用の仕方は変わるだろう、そんな変化にはどうすればいいのだろうか。
でもそんな心配は横にいるものが心配することではないかもしれません。
利用者が心配し運用していくなかで工夫することでその意味では住宅と同じように考えるべきものかもしれません。
実際に公園を利用している人は公園の限界はいやでもわからされてしまいます。
利用の経験があると(敷地の大きさや配置が体験したことがあるようなものであると)びっくりするような特別な要求はむしろ少なく各機能の配分の差とかけられる労力の差に地域的な違いが表れるというようなことが現実だと思われます。ちょうど今の日本人だったらシャツはまず体に気持ちよくフィットするサイズと形が重要で帽子の機能もズボンのかわりにもなることを要求したりしないようなことと考えたらいいのではないかと思います。
江戸時代だったらいろんなシャツとズボンをだまって手渡されてあなたの好きなのはどれ?と問われたらとんでもない選択をしてしまったことでしょう。
むしろ始めから敷地の限界を気にしすぎてはがいいようなことの方が多いのでこのページの役割はもっと楽しい事例を紹介して限界なんか気にしない「公園の夢」を育てることだと思っています。
ま、公園がホントはどんなものか、そのためにどうしたらいいのかは寄せられた意見でぼちぼち考えていくことにしましょう。