まづアンケートをとろう!!
行動計画ーーアンケートをとる意義
「○○公園を私たちで改造してみよう!」
と言うときまづ始めに市民が..なんだかくすぐったくてほんとらしくない感じの言葉ですね。
公園の利用者で考えようというとき、当事者のことを何と呼んだらいいのでしょうか、なかなかぴったりする言葉が思いつかないのですね。
利用者という言葉でもいいのかもしれませんが 利用の程度に幅があり、どこまでが利用者かなどと気になってしまうとどうもいけません。
でも自治会とか子供会とか、老人会とか、始めから団体で考えることはないでしょうから実際後ろ盾がないとき、意見を言う人が自分たちの説明に困ることもあるようです。
役所によっては普通に人が何か意見を言うとまづその人の「身分」を聞くところもあるようです。
もっとも なんの団体にも属していない個人の意見が役所で「まじめに」応対されることが少ないのは世間をよく知っている人には常識のようですが。
ま、余談はさておき、他にいい言葉が思いつきませんのでとりあえづ ...市民とかっこよくいくことにしましょう。
この市民が自分たちが普段使っている公園について議論をして意見を交換しあい相互に理解を深めてその地域であるべき公園の姿を描くというのが手順であることは異論がないでしょう。
ところがこれが言うが優しく行うは難しいものなのですね。
議論にはお互いの意見に対する理解からはじまる分析整理が必要ですが
人はそれぞれ違う生活と立場があり体験があり そこから発生したそれぞれ独自の評価の尺度と固有の欲望、意見があります。
公園もそれが日常的で身近であるほど 当然それへの意見も固有の意見と感覚を持っているはづですよね。
これが公民館の利用の仕方の問題とか夏祭りの分担の問題とかであれば非日常的であるだけ逆に客観的な目で見ることは以外と容易なものです。
社会的な経験をつんで生活している人であれば何に気をつけてしゃべるかという社会的な知識や経験をもつことはそんなに難しいものではありません。
ところが公園などについてはそんな社会的な知識や経験はほとんどないのが普通でしょう。
そんな前提がわからない状態で、普通の人にとって慣れない会議で日常的であるだけ個人的な公園への意見を発言するのは緊張し疲れるものです。
自分の意見が人の意見とかけ離れすぎているのではないか、当たり前すぎて笑われるのではないか、
誰かほかの人の心証を損ねるようなことを言ってしまわないか、、と緊張の種はいくらでも
沸いてきますし、普段顔を合わせたこともない人と会議机で向かい合うとなかなか平常心でいられるものではありません。
日頃うまくいっていない近所の人が混じっていたりするとなおさらです。
つまり大変に疲れるものです。
ところが異なる意見と自分の意見を比較分析するのは自分自身を抑制する忍耐と客観視する努力が必要です。
おまけに会議に魅力がないとや外のいい天気が気になったり「今日で桜の見ごろの最後の日かもしれない」、または普段忘れていた家の用事のことを思い出したりします。
あれやこれやで始めから集中力がかけていたり 疲れていてはそんな忍耐と努力は難しくなります。
おまけに人前で意見を言うのに慣れていないと人の意見と違うことで感情的になりがちで更に
感情的になると相手に対し寛容で居れなくなり人の意見との差異に目が行きがちになるのです。
前にも言ったように人の意見の理解と分析には差異と共通部と両方の情報が必要ですがこのように感情的になると情報が新たに入るのが難しくなります。
いっそう考えの違う部分を人に伝える議論の基盤は危ういものになってしまいます。
結論は議論を効果的に進めるには何らかの手助け(方法論、技術又は幸運の女神)がいるということです。
この手助けには次のよう方法があると思います。
1、カリスマ的な人格をもった話し上手、口八丁、手八丁的な人に会議をリードしてもらう。
資料を研究なされた方は皆さんご存知と思われます。雑誌や研究誌などの特集号などを見るとそんな方のインタビュー記事が載っています。
諸先達の能力と熱意と奉仕精神で素晴らしいしごとが成果を挙げています。集団の場合どんな行動を起こすときも大なり小なり必要とされるものである意味では基本的な条件とも思えるものですが人並外れた行動力を含めた前述の能力は特別と思えるものです。
この方法に短所と言えるものがあるとすると以下のようなことでしょうか。
ー1、そんな人はなかなか身近には見つからないということ
ー2、その特定の人がいなくなると行動が消滅してしまう確率が高い
ー3、他の個人の意見が届きにくいときがある
2、共同作業等を通じ会議前又は会議の途中にに共通な体験を会議参加者に持ってもらう。
最近旬のワークショップといわれるものでU.S.Aからの舶来です。
公園の広さを感じるためにダンスを織り込んだ遊技をしたり、自然探検をしたりともっとも民主主義的な香りのする"新しい住民活動"といったイメージで雑誌などでも先の記事などとともに成功例が華々しくマスコミ受けします。
まあ考えてみると日本でも農村社会では共同労働や祭事とセットになった会議は当然のもので 決してものめづらしいものではなかったと思うのですが日本型の都市型社会が普通になってからは新鮮な響きと新たな価値があります。
少し横道にそれますが団地などののお祭りの重要性はいくら言っても足らないほどでしょうがその行動を最大限いかすための すこし面白くない部分(住民の議論による意思決定)を避けてしまうと商業的なイベントになってしまってワークショップとしての効果は挙げることが難しいのではないかと思います。
とにかく普段それぞれ別の個人の感性で生活している多様な考えをもつ市民が(ここでは市民という言葉も自然に書けるようです)共同作業による共有経験を共通項に生活基盤の最大公約数と個人の自由の最小公倍数による明確な目的と積極性で建設的な議論を積み重ねることができたら最高です。
この方法に短所と言えるものがあるとすると以下のようなことでしょうか。
ー1、ワークショップ自身が準備と場所と人材の必要な大掛かりなイベントで簡単にはできない。
ー2、参加すること自体に自由な時間と市民的な積極性が要求されるので地域の意識が対応していない、又はイベント性が重要視されすぎて範囲設定が適当でないとワークショップの参加者が地域を正確に代表することが難しく小公園のように特定の地域に重要な影響のある件に対してひとりよがりになる恐れがある。
3、情報を事前に伝え会議に集まる人の意見の概要をお互いに知っておく。
なんだかゲームの裏技のようで今までのに並べて言うのが恥ずかしいようで当たり前すぎるような項目ですが 以外と忘れられてなおざりにされることが多い様な気がします。
情報を伝えるためにはまづ情報を集めねばなりません。
情報を集めるためには公園のような場合はまづ関係ある地域から情報を得ることになります。
具体的にはアンケートや自治会などの集会での呼び掛けで情報を得るという方法です。
その過程自身が住民が公園を考える呼び掛けにもなるという省エネの方法です。
アンケートを実施した地域の人全員がその結果を知って御近所の様々な人の生活の多様さを知ることができるということです。
ここでうっかりして忘れてしまってはいけない重要な点は 結果をわかりやすく見やすく整理して アンケートを実施した当事者全員に知らせるということです。
どこぞでよくある…結果がどうなったのかさっぱりわからない…アンケートは実施者を調査管理するためのもので意見を聞くのとは まっっっったく正反対のものなのです!!!。
公園、公という字がついたスペースを考える「いの一番の始めの前提の」基礎が他人への知識と理解につきるとおもうのですがいかがでしょう。
ここでは興奮のため短所は省略です。