OLD STORY

子供のころ

私は、クリスチャンのお嬢さん学校の出身。いつもイエス様やマリア様の銅像の前でお祈りをしたり、遊んだりした思いでが、走馬灯のように私の脳裏から離れない。
中学の私は、いつも木や草花とお話しをしていた。ゆいつの友達だったからだ。それは、彼等の声や顔色が嗅ぎ分けられたからだった。小さいころ、イエス様の下部になるのが夢だった。シスターに「地の塩になりなさい。」と言われて、地の塩ってなに?これが子供のころ。

学校から飛び出す

高校は、頭のいいクラスに入れられ、秀才扱いされた。ことあるごとに先生たちから、えこひいきを受け、それがとても窮屈だった。3年の頃、英語の授業で、出来ない生徒が先生から集中攻撃を受け、延々立たされていた。私は、「何だ、この学校は、生徒をこんな形で集中攻撃をして、みんなのさらしものにして、この子が何をしたというのだ」そう思った途端、私は、学校の机を倒していた。そして先生は、その子への英語の追及をやめた。それで、学校がいやになった。矛盾している世界と体制がいやだった。正義を貫き通したかった。それから、大学病院の精神神経科に通った。ただ、先生と話すだけだった。卒業式には行かなかった。

悪友との発散

中学校の時から一人気の合う友達がいて、学校がいやになった頃からその子といつも遊んだ。BGMは、いつもRollingStones。私は、Keithのファンで、かれらのようにドラッグやスリルな世界にあこがれていた。小学性の野球チームに入れてもらってよく野球をした。Rockのコンサートに行った。外人ミュージシャンが泊っているホテルに行って、グルーピーたちからいろんな話を聞いた。私達は、グルーピーではなかったが、彼女達から聞く話は、スリルがあってとても興奮した。福岡だったから、夜中に繁華街から家まで3時間以上歩いて帰ることがとても楽しかった。メインストリートのならず者(Stones)を歌いながらよく帰った。

これが街売り生活の始まり

今までの遊びにも飽きて、悪友と紙ねんどで、へんな人形を作っていたある日、これを町に行って道端で売ろうということになった。町と対話する生活が始まった。
人形は、高さ10cmぐらいのおやじや女の子が鉛筆を鼻の穴に突っ込んでいるみょーなキャラクターだった。それは、人気を博した。道には、髪の長いおにーさん達が時折、アクセサリーを出していた。友達ができた。そんなおり、悪友が親の転勤で、東京へ行くことが決定した。私は、一人になっても露天商を続けてた。髪の長いおにーさん達は、とてもいい人達で、いつもにこやかに私の露店商を見守っていてくれた。

ヒッピーカルチャーとの出会い

ある日、髪の長いおにーさん達がライブをやるので、ついて行った。ライブハウスに行って見ると、今まで見たこともない大麻の絵が一面に描かれたの不思議な空間がそこにあった。そこで、友達がたくさんできた。男や女の分け隔てはなく、皆、兄弟で、私の空想の世界を理解できる人達がたくさんいた。私が草花といつも話をしていることを言うと、みんな理解してくれた。私は、とてもうれしかった。それから、私は、どくだみ荘と呼ばれる鰻の寝床のような木造アパートで、みんなと共同生活をした。みんなで、当局の体制の愚かさや人間が到達する精神世界の話をした。ここで、インドの精神世界やチベット死者の書に興味を持った。男の子が隣に寝ていても何も起こらないことが当たり前だった。インドに行くことがまるで流行っているようにみんなは、インドへ飛び立った。私もその後旅立った。ずっとみんな兄弟愛で平和な世界がいつまでも続いてくれたらいいなと思っていた。

ヒッピーカルチャーとの別れ

ヒッピーのコミューンは、みんなの信頼関係が一番だ。どろぼーがいたとしてもその人が告白すれば、みんなは、許していた。でも、私たちにも弱点があったのだった。それは、ドラッグの登場だった。気が付くと、みんなドラッグのために働いていた。そして信頼関係は、おのずと無くなるのだ。そして、みんなは、エスケープ逃亡。そして夢のコミューンは、解散した。みんなどうしているんだろう。死んだ友達もいたよね。

フランスへ脱出

私の起源は、フランスにあると、ずっと思っていたので、フランスに移住するための計画が始まった。昼は、デザイナー学園とフランス語の学校。夜は、スナックでのバイト。2年間働いて、フランス留学のお金を貯めた。日本を出るとき、もう2度と日本なんかには、帰らないと思った。日本なんか嫌い。どうしてって?それは、人をいつも枠に入れたかがるから。みんな同じ言動を求めるから、自由がないから。Fuck'in Japanese !

フランス生活

学費が安くて、日本人がいないところを探した。フランスのリヨン大学に入学した。とても毎日が楽しかった。フランス人は、自分の意見を持っていることが、当たり前で、他人は、自分の意見とは、違うと思っている。だから、自分の意見を言うかわりに他人の意見も聞きたがる。私にとって、語学力は、自分の意見がいかに言えるかということだった。

フランスのアトリエ

私は、街売り時代にアクセサリーも作っていたので、フランスへ来た大きな目的は、銀細工の職人になることだった。知り合いの紹介でAlex Bijouxというアトリエで修行させてもらった。毎日、汚いにーちゃん達の間で、銀の日時計を作らせてもらっていた。

ビザの更新ができない。

極貧生活を送っていたのだが、とうとう、ビザの更新を断られてしまった。気が付くと日本に帰るお金がなかったので、カメラや家財道具をすべて売って旅費を作った。帰るときは、だれにもお別れを言わずに帰った。だってすぐ戻ると思ったから。

そして、日本へ舞い戻る。

帰った当初は、住所不定だったため、フランス大使館に行って相談し、国内の就職先を紹介してもらった。フランスへ帰る努力を5年続けた。今は、たまたま日本にいるだけで、いつかまたフランスで暮らす日があると信じている。

会社にも入ったけど、フリーの生活は、精神的に良好だ。でも金欠病だ。