インド 1ヵ月半インドを旅した時の話 ボンベイ air-indiaに乗ってボンベイに着いた時は、夜中の2時頃だった。外は、真っ暗で、飛行場の出口には、ホテルの客引きが一杯、出るに出れない状態だった。待合室で朝になるまで待とうと椅子に座っていたら、睡魔が襲って来た。このまま寝たら、荷物が危ないと思い、また、荷物を持って出口に向かう。そしたら、高級ホテルから出迎えのバスが来ていたので、それにとりあえず飛び乗った。
ホテルの名は、ボンベイホテル。ホテルに着いたらラウンジがとても広くて、お客が埋もれる位のソファーがいっぱいだった。私は、ボーイに気付かれないようにそのソファーに埋もれて寝た。朝になったけど、まだ、疲れていて、町に出る気がしない。今日は、このホテルに泊まって明日、町にでることにしようと決めた。きょうは、一世一代の贅沢な日だ。チェックインをした部屋は、真っ白で窓が外庭と中庭に面した部屋だった。中庭には、楕円形で出来たプールで美しい女の人が泳いでいた。私は、日本から持ってきたパンやお菓子で食事をとり、次の朝を迎えた。朝は、ホテルのラウンジでラッシーを飲んだ。日本円で800円位だったろうか、インド人一ヵ月の給料に値する位の値段だった。今だかつてこのようなおいしいラッシーを飲んだことがない。ほんとにおいしかった。
タクシーで町に出る。取り敢えず、町の真ん中は、インド門があるところなので、そこまで、行ってもらう。行く途中、インドのスラム街を通り抜ける時、たくさんのインドの女性と目があった。車から見る路上生活は、色とりどりの洗濯物や子供に囲まれてごちゃごちゃしていた。それから一気に海沿いのリゾートホテルが立ち並ぶ大きな通りに出た。インド門の前で車を降り、道なりに歩いた。モクモクと排気ガスや砂が立ちこめた繁華街。
商店街は、人が一杯で、ガイドブックを見ながらホテル探しをする。歩きながらいろんな人が声を掛けてくる。「no, thank you」と言ってもずっと付いてくる。無視してテクテク1時間位歩いても、ずっとインド人の客引きは、付いてくる。安くて、奇麗なホテルを探すが、なかなか見つからず、結局、健全なYWCAを見つけた。安くて奇麗は、良かったのだが、健全なホテルは、私の目的には、適していなかった。YWCAは、キリスト教のホテルで、ほかのホテルと比べて結構いろいろと決まりがある。例えば、部屋の中でうるさくしないこと(うるさい人は、即刻退去)食事の時間、夜の門限などがある。
私は、毎日、外をほっつき回った。路上には、ジュース屋やお菓子屋が所どころに立ち並び、色とりどりの店は、見ていて飽きない。路上には、乞食もたくさんいる。ボンベイで見た乞食は、痩せたおばさんで、木の台車に乗っていて足がない。それを引いているのは、その息子たち。彼等は、商店街でショッピングをしているお金持ちを見つけ、こんな体なんだからと慈悲を乞い、お金をもらう。その後、足や手のない人が物乞いをする姿を私は、何度も見た。私は、彼等を凝視することがとても怖く、なるべく見ないようにしていた。なぜインドの政府は、このような人たちを放っておくのだろうと思った。マザーテレサが堪忍袋の尾が切れて、自らこのような不幸な人たちを収容するようになった気持ちがわかったような気がした。
インドでおいしい食堂は、たくさん人が入っている。私は、ベジタリアンなので、メニューが豊富でうれしかった。てくてく歩いているといつのまにかインド人が着いてくる。「どこから来たのか?」とか聞いてくる。そして、「腹へってないか?」と聞いてくる。「腹がへってる」と言うと、「おいしい飯屋があるよ」と言って、ほんとにおいしい飯屋に連れて行ってくれる。おししい飯屋につれて行ってもらったかわりに彼の飯代は、払わされる。でも地元の人しか行かない、安くておいしい所ばかりなので、払っても60円位だ。何度か、いろんな人に連れて行ってもらった。
ある日、若い青年が私に着いて来た。またあれかなっと思って、「どこかおいしい所は、無いか?」とこちらから聞いた。彼は、「うん、あるよ。」と言って、連れて行ってもらった。そこで、私が注文して「彼に何がいい?」と聞くと、彼は、「いらない」と言った。「じゃあ、チャイは、どう?」と聞いても、彼は、頭をかきながら「いらない」と言ってただ微笑んでいる。なんだこいつは...。と思っていると、彼は、専門学校の学生で、日本にいつか行きたいと思っていたことがわかった。彼は、純粋に日本にあこがれて、出会った日本人に会いたかっただけだった。彼は、私と住所交換をしてとてもうれしそうだった。純粋なインドの若者との出会いは、張り詰めた心にほっと休息を与えてくれた。
毎日、毎日、リキシャとの料金のトラブル、彼等の商売のやり方は、最初言った金額と降りる時の金額が違う。降りるときは、いつも大声でけんかである。日本円に直すと安いのだけれど、そんな甘い顔はしないと言うのが、人間の道徳では、ないだろうか?
それから、私は、子供の乞食によく追いかけられた。走っても走っても着いてくるのだ。「バクシーシー、バクシーシー」と言って、多くて7、8人の小学校に言っていない子供に追いかけられた。子供にお金を揚げたら、そこら中にいる何十人もの人たちにたかられるし、毎日あげなくては、ならなくなる。そこでも戦いの渦の中にいるようなものだ。ホテルの近くに幼い女の子が物乞いをする路上生活の母子がいた。ずっと何もあげなかったけど、出る時にお菓子をたくさん買って、一番下の小さい女の子にあげた。
ゴアへは、バスで行くことにした。 ゴア あこがれの地、ゴアへは、長距離バスで10時間位。夜出発して、夜中いろんなチャイ屋で休憩しながら、早朝、ゴアに到着。ここは、ヒッピーの聖地として有名で、ヒッピーストリートという道もあるのだ。イージーライダーに出てくるような、ワイルドな外人がいっぱいいた。ふーんここがゴアかと思って最初とても興奮した。でも行ったのが雨期だったせいか、パーティーがあるわけでもなく、のほほーんと波音を聞いて、あっという間に1週間が過ぎた。今は、テクノが流行っているそうだが、どうなったのかもう一度確かめに行きたい。
マイソール ここへ行こうと思ったのは、右にまっすぐ伸びた線路があったからだった。別にどこでもよかった。行き当たりばったりの旅って好きだ。私のホテル探しは、1時間ほどうろうろ歩き回る。表通りより、裏の通りの方が比較的安い所が見つけられる。ホテルの表書きの料金表を見て、建物の雰囲気が良ければ、部屋を見せてもらい、料金を交渉して、泊まることを決める。マイソールには、奇麗なお城があった。そこを見学してから、いろいろ歩くが、ふつうの住宅地だった。ちょっとおしゃれなレストランがあったので、そこで食事をすることにした。お店の人は、とても親切で、メニューの内容をひとつひとつ説明をしてくれた。香がすばらしかった。そこで、びっくりしたメニューは、日本とそっくりなやきそばがあったことだった。
バンガロール は、東京で言えば、原宿のようなところだった。流行りの洋服を売るブティックや、ライブハウスが表参道のような雰囲気で立ち並ぶ。両脇には、外車がずらっと並んでいる。とてもおしゃれな町だった。一瞬インドじゃないような気がした。