法学セミナー(日本評論社)1990年12月号より
●特集=ディクリミナリゼイション「「現代における犯罪化と非犯罪化
薬物使用と非犯罪化
丸井英弘 弁護士
一 はじめに
 薬物使用と非犯罪化の問題を検討するためには、薬物使用によってどの様な害が生じるのか、また害が生じるとしても刑事罰をもって規制するのが適当であるか否かを明らかにしなければならない。
 市民生活において最も尊重されなければならない価値は、個人の生命、身体、財産、であり、また思想、表現、趣味、嗜好の自由である。これらは基本的人権として、近代憲法の中心的内容となっている。ところで刑事犯罪とは、その違反者に対して、身体的自由を制約し、経済的不利益、社会的地位の剥脱を科するものであるので、それを科される者にとっては人権侵害そのものである。したがって薬物使用によって、具体的な社会的被害が立証されている場合に限定されなければならない。そうでなければ、薬物使用という個人の趣味、嗜好に国家が介入することになり、個人の自由を否定する家父長的、権威主義的社会になり、管理社会化がより一層進行するであろう。特に、マリファナ使用の様に、具体的被害が立証されていないものについて、懲役刑でもって規制し、毎年一千人以上もの逮捕者を出している日本の現実は、国家権力が、個々人の趣味、嗜好に介入し、その行動を監視することを意味している。
 また、仮りにある種の薬物を使用して、人に危害を加えた行為、すなわち、傷害行為自体刑法でもって規制されているのであり、さらにたとえば酒気帯び運転や薬物の影響によって正常な運転ができないおそれのある運転は、道路交通法六五条、六六条等特別の罰則があるのであるから、具体的な被害が発生しない前段階でもって、薬物使用を規制することは、一種の予備罪もしくは予防保障を第一義とする社会にあっては極力さけなければならない。
 薬物の所持、使用に対する処罰は、カーター大統領が、連邦議会に対する薬物乱用に関する一九七七年の大統領教書でもいっている様に、その薬物使用による害よりも大きな害を与えてはならない。
 もとより筆者は、薬物使用を野放しにせよと主張しているのではない。むしろ現在の薬事行政はマリファナ等を厳しく処罰する一方で、キノホルム、クロロキン、チクロ等有害物質を引き起こしているのであり、薬物に対する正確な情報の提供と適切な規制は極めて遅れているといってよい。現在必要なことは、まず第一にいろいろな薬物に対する正確な調査と情報提供であり、その上での有害な薬物に対する適切、有効な規制である。
 本稿においては、薬物の定義とその特性を検討したうえで、薬物規制のうち特にマリファナ規制が被害者なき犯罪の典型であるとの観点からマリファナ規制を中心に薬物規制の問題点を論じたい。
二 薬物の定義
 マリファナなどの作用について論議する場合、薬物であるとか麻薬であるとかとう形で行われるが、これらは薬物や麻薬についての科学的定義に基づくものでは必ずしもない。
 マリファナと薬物乱用に関する全米委員会の第一次、および第二次報告でも指摘しているように、薬物の科学的定義は、「その化学的属性によって生物の構造あるいは機能に影響を及ぼす食物以外のすべての物質」といわれる。したがって、農薬や産業に使われる化学物質も含まれる。
 この定義は、積極的意味も消極的意味ももっていない。薬物と食物を含む一切の物質は人間に対し望ましい効果をもつ場合もあれば、望ましくない効果をもつ場合もある。たとえば飲食は人間の生存にとって必要であり、また楽しいことでもある。しかし過度に摂取したり、その人の体質に合わない場合には内蔵疾患や高血圧、糖尿病等を発生させる。
 しかし、薬物という言葉が、マスコミや捜査当局あるいは裁判所等で取り上げられている様な薬物乱用とか薬物問題といった文脈で使われている場合は、薬物の意味は科学的、客観的というよりは社会的、主観的に使われている。ある薬物を有益とか有害とか分類するのは、分類をする人が何を望ましいと考えるのかという価値判断に大きくかかってくる。特に薬物の中でもマリファナとかアルコール、タバコ、コーヒー、鎮痛剤などのような精神的に作用するいわゆる向精神薬(感覚・感情などの精神状態を変化させることによって行動に影響を及ぼす能力を有する物質)は、薬物の作用に対する有害か無害かの判断は、判断をする人の価値観に基本的にかかってくる。
 全米委員会の第二次報告一〇、一一頁でも次の様に述べている。
「薬物という言葉の不正確さは深刻な社会的影響を与えてきている。一般大衆は街中の薬物と医学的な薬物とは全く違った原理に従って作用すると信ずる様に条件づけられている。その結果、街にあるいわゆる薬物の危険性は過大視される一方、医療薬については、その危険性は見逃されている。このような混乱はなくさなければならない。アルコールは、疑いもなく薬物である。すべての薬物は、同一の一般的原理に基づいて作用する。そしてこれらの薬物の効果は、量によって変るのである。各々の薬物には望ましい効果の意味における効果力があり、また望ましくない効果すなわち中毒性があり、さらに致死量がある。大量の場合には、すべての薬物が危険である。薬物使用の個人的なもしくは社会的影響は、摂取の回数、期間によって増大する。したがって、薬物に対する政策は、右の様な同一の原理に基づいて、全ての薬物に適用するという基本に立って始めて、一貫性のあるものになる。」
三 麻薬の定義とマリファナ
 すでに述べたように薬物の定義は極めてあいまいであり、主観的な価値判断的要素が強いものであるが、麻薬という言葉も同様に極めてあいまいに使われている。特にマリファナに関しては、麻薬であるとの前提の上での議論や報道がみられる。
 一九七七年九月一〇日付の朝日新聞は、フォーク歌手の井上陽水氏の大麻取締法違反による逮捕を大きく報道しているが、その見出しは「麻薬にすがった虚像」「スター扱いに疲れ、甘え、おごりを許す芸能界」というものであった。
 そして、その翌日(一九七七年九月一一日)付の東京新聞も、「幻覚、陶酔感の魔力。陽水をとりこにした麻薬ミニ辞典」なる見出しの記事をのせている。この様なマスコミの態度は現在でも大して変らない。
 麻薬という言葉は、一九二四年(大正一四年)にジュネーブで開かれた第二回アヘン会議で作成された第二アヘン条約批准実施に伴い、国内法令としての内務省一七号「麻薬取締規制」が昭和五年に制定された際にできた言葉であって、当時業界紙で麻薬とは何だと大いに騒がれたそうである。当時、日本で問題になっていたのは、アヘン(その原料はケシ)、ヘロイン等りアヘン系薬物であり、「アヘン類似品」「麻薬薬」「危険薬品」という名称も使われていたのであって、「麻薬」という言葉は「麻薬薬」からでてきたものと思われる。つまり「麻薬」の「麻」は「麻酔薬」の「麻」であり、「大麻」の「麻」は「アサ」 のことであって、両者は何の関係もないのである。さらに「麻薬」の科学的定義からしても、マリファナは「麻薬」ではない。「麻薬」を具体的に定義すれば次の様にいいうるであろう。
 「強い精神的および肉体的依存と使用量を増加する耐性傾向があって、その使用を中止すると禁断症状が起り、精神および身体に障害を与え、さらには種々の犯罪を誘発する様な薬物」。
 しかしながら、マリファナは薬理的にも社会的にも右の様に言われる「麻薬」では決してない。
 マリファナが「麻薬」の一種であるとされた理由として、従来次の様な有害性があるといわれてきた。
 @身体的依存がある。 A強い精神的依存によって害悪が生じる。 B耐性が上昇する。 C人を攻撃的にして、暴力犯罪をひき起こす。 D催奇型性がある。 E踏み石理論(マリファナの害が、かりにそれほどではないとしても、マリファナを吸飲するとより強い刺激を求めて、ヘロイン等の使用に進んでいく)。
 しかし、以上の点については、客観性のない「神話」であって、通常のマリファナ使用は個人的にも社会的にも害がないということが次の権威ある資料によって明らかになっている。
 @一八九三年から一八九五年にかけてのイギリス政府調査団によるインドにおけるマリファナ使用についての調査報告。 A一九三一年から一九三二年にかけてのパナマ地域に駐留していたアメリカ軍人のマリファナ使用に関するアメリカ軍の調査報告 B一九四四年に発表されたカガーディア報告。 C一九七一年のWHO科学研究グループの「キャンナビスの使用」と題する報告。 Dマリファナおよび薬物乱用に関する全米委員会の「マリファナ「「誤解のきざし」と題する一九七二年に出された第一次報告。 E同委員会の一九七三年に出された第二次報告。 Fアメリカ教育・福祉省の連邦議会に対する報告。
四 向精神薬の分類と特性
 向精神薬の特性を分類すれば、表1の様になる。このうちモルヒネ、ヘロイン、コカイン、LSDは麻薬取締法で麻薬に指定されており、カンナビスのうち植物学的にカンナビス・サティバエルと分類される麻の一種が大麻草と定義されて大麻取締法で規制されている。いずれも懲役刑を中心に極めてきびしい罰則になっている。
(注1)「精神的依存性」について。
 マリファナ使用については身体的依存(禁断症状)はないけれども、WHOの「カンナビスの使用」という報告や全米委員会の第一次報告でも、重度もしくは大量の使用者には精神的依存性があるとされる。しかしながらこの精神的もしくは心理的依存性という表現は、習慣性とか薬物という言葉と同様に、価値評価的に解釈される傾向があり、薬物の作用を検討する場合には注意を要する。
 精神的依存性というのはあるものに対する心理的欲求にすぎない。この現象は元来価値評価を含まないものであるが、問題はそれを否定的に解釈することにある。
 あることが好きで何度も同じことをしている場合には、そのことに対し精神的依存があるといえる。したがって、誰かに対し恋愛感情が起こればその人に対し精神的依存性があるということになるし、マージャンが好きな人はマージャンに対し精神的依存をしているということになる。
 また、毎朝お茶やコーヒーを飲んだり、ネクタイをしめて会社に行かないと落ち着かない人は、お茶やコーヒーをしめるということに精神的に依存しているのであり、さらには、毎朝会社へ行くということそのものに精神的依存をしているといえるのである。
 したがって、薬物に対する精神的依存はそれ自体が悪いのではなく、精神的依存が強くなることによって、薬物入手を求めて人を傷つけたり、窃盗などのいわゆる破廉恥犯を犯すことが問題なのである。
(注2)全米委員会の第二次報告では、マリファナ使用と犯罪との関係について、「マリファナの使用は、暴力的であれ、非暴力的であれ、犯罪の源ともならないと、犯罪と関係することもない。」と結論している。
五 恣意的な薬物に対する規制
 向精神作用を有する薬物は無数にあるが、さの規制は、時の権力者によって極めて恣意的に行われてきた。
 たとえば、タバコは、一六〇〇年ごろ日本に伝来し、急速に大流行したが、徳川幕府は、一六〇九年(慶長一四年)にタバコの喫煙、売買、栽培を禁止する法令を出し、また諸藩においても同様の禁令を出した。特に薩摩藩では、タバコの喫煙者に対して死刑まで科した。この様な禁令をしいた理由は、喫煙が無益の出費であること、失火の原因になること、タバコの栽培は良田をつぶし田畑を荒すこと、とされていた。しかし、タバコの流行は到底これをおさえることができず、寛永時代(一六二三年)以降には、右の法令は有名無実となり、女性にまで大流行したのであった。そして一七一六年には八代将軍吉宗が、農民の収益増加のために、タバコ栽培を奨励する様になり、また死刑まで科した薩摩藩では、天下の名産となった薩摩タバコを栽培する様になった。さらに一七五〇年には九代将軍家重が徳川家歴代の家憲を破り喫煙したといわれている。
 ところで、何故タバコが急速に大流行したのかについて、その理由は、舶来品に対する好奇心とタバコが諸病にきくと信じられてきたことによるけれども、主たる原因は喫煙によって生ずる一種の麻酔的快感が喫煙者の本能的嗜慾を満足させるのに最も適合していたといわれている(穂積陳重『続法窓夜話』岩波文庫、一三一〜一三五頁参照)。この様な見解は、現在のマリファナ問題と共通しており大変興味深い。
 イギリスにおいても、一七世紀の初めにはタバコ嫌いのジェームス一世が禁煙令を出した。トルコにおいても一六三三年、皇帝ムトラ四世が、タバコの煙がサルタンの鼻に入ったということで残忍な禁煙令をひき、皇帝みずから変装して、タバコ喫煙者をみつけては斬りすてたり、喫煙者の鼻に穴をあけて、これにパイプを通し、首にはタバコの包みをつるしてタバコを吸えない様にしたといわれている。しかし、一六四六年に愛煙家のモハメド四世が即位すると禁煙令を撤回し、タバコ栽培を奨励し、有名なターキッシュ・タバコが生れた。
 アルコールについても、アメリカでは一九一〇年代に禁酒法を作った。
 コーヒーもスイスなどにおいては、禁止されていた時代があった。
 また、日本では、ペヨーテ・サボテン(日本ではうば玉といわれている)に含まれているLSDとにた向精神作用のあるメスカリンやある種のきのこ(日本の笑い茸とかシビレ茸と近縁のもの)に含まれているヒロシビンはまったく規制されていないし、その他向精神作用のある植物、たとえばチョウセンアサガオザクロの樹皮、ハシリドコロなどは、多数存在している。さらに、マリファナの向精神作用を有する主成分たるTHC(テロラ・ヒドロ・カンナビール)自体は、大麻取締法で規制されておらず、人工的にも合成することができるし、また動物性のTHCもがまがえるからも抽出することができ、現実に蟾酥Lラセンソリという名称で、呼吸困難、強壮強健、気付け薬として市販されている。
六 日本におけるマリファナ規制の歴史と問題点
 日本においてマリファナ規制が初めてなされたのは、一九三〇年(昭和五年)第二アヘン条約の批准に伴い、「麻薬取締規則」が制定された時に始まる。しかし、その規制内容は「印度大麻草、その樹旨、及びそれらを含有するもの」の輸出入が内務大臣の許可制とされていただけで、製造は届け出制、販売はまったく自由であった。繊維をとったり、油を得るためや、また戦争中にはパラシュートなどの軍事物資に用いるために栽培が奨励されていた国産麻が、規制される様になったのは第二次大戦後である。日本に進駐した占領米軍は、当時アメリカにおけるマリファナについての偏見をもとにして、マリファナ規制を日本政府に迫り、その結果、大麻取締法が一九四八年(昭和二三年)に制定された。占領米軍の立法意図は、黒人兵などのマリファナ吸引を防ぐということにあった様だが、最も大切なマリファナ吸引の有害性についての科学的検討はまったくなされなかった。そのため政府当局者も立法に疑問を抱いていたし、現実に麻の栽培をしていた農民は猛反対をした。さらに、この法律は、向精神作用をもつといわれるTHCそのものは規制しておらず、また、麻のうちカンナビス・サティバ・エルと呼ばれる種Lラしゅリのみ規制しているので、たとえば、従来規制していた「印度大麻草」は学名がカンナビス・インディカ・ラムと呼ばれるものであるからこの法律の規制外となることになり、立法目的、内容ともに極めて不明確かつ不備なものである。
 そしてこの法案を審議した国会審議でも「このような法律を作ると、国民が必要としている麻を栽培する農民がいなくなるのではないか」と反対の声もあがっていた。したがって、一九五一年九月八日にサンフランシスコ平和条約が成立した後、占領法制の再検討がなされた際に大麻取締法の廃止が政府当局者によって考えられたほどである。
 しかしながら、大麻取締法は廃止されるどころか、一九六三年になって、大麻吸引の有害性についての研究が不充分のままに、罰則が強化され、従来あった罰金刑の選択が認められなくなった結果、現行法のように懲役刑のみという極めて硬直した法律になった。罰金刑の選択廃止というのは極めて重要な問題であり、慎重にしなければならないのに、理由はまったく不明確なままであった。一九六三年当時は、ヘロインの乱用が社会的に問題になっており、その対策のために麻薬取締法の罰則強化がなされたのであるが、この措置に便乗して、何ら合理的理由も必要性もないままに大麻取締法の罰則も強化されてしまったのである。
 いずれにせよ、立法の目的および根拠が不明確で、しかも罰則のみが厳しいこのような法律は憲法一三条、一四条、三一条、三六条にてらし問題であるといわざるをえず、廃止されるべきであろう。
七 国家は何故大麻取締法使用者を処罰するのか
 この章では、大麻取締法上、大麻の定義は、カンナビス・サティテバ・エルのことであるから、マリファナという一般表現はしないで大麻という言い方をする。
 捜査当局の言い分や裁判所の判決では国民の保健、衛生上の観点から大麻使用を取締るというものであるが、酒、タバコに害があることは裁判所の判決でも認めているし、また、私が担当したある裁判における厚生省の当局者の証人調べでもはっきりと酒の方が害があることを証言しているのであって、大麻使用を取締る合理的理由は極めて不明確である。
 たとえば、大麻取締法違反事件について昭和五二年七月二八日に言渡された東京地方裁判所の判決によれば次の様に言っている。「また、弁護人らは、アルコール及び煙草との比較から憲法一四条違反をいうが、アルコール及び煙草についてもこれを多量に使用するときは有害であることは医学的常識であり、近時その弊害の重大さが認識されてきているが、これらの物はわが国の社会において嗜好品として長年月にわたって用いられ定着して来たものであって、それの持つ社会的効用をも考慮すると、国民健康上の見地のみから直ちにこれを禁止することができないことは明らかであって、そうだからといって大麻の使用を禁止することが不合理であるとはいえない」。
 さらにアメリカとの比較については、「我が国においては、追時大麻の使用が増加の傾向にあるとはいえ、その使用人口はごくわずかであると推定され、大麻に対する社会の態度もアメリカの場合と全くその事情を異にするのであるから、わが国において個人的使用目的のための大麻の所持が懲役刑を以って禁止されていることが不合理であるとはいえない」。
 もし大麻が本当に有害であるのならば、たとえばアメリカの場合、大麻使用者が増加すればする程、国民健康上の観点からしてより厳しく処罰しなければならないはずである。また、日本の場合、大麻使用人口が少なく、大麻に対する社会の態度がアメリカと異なり厳しいことをもって大麻所持に対し懲役刑を科することの合理的根拠と、他方において、酒、タバコが有害であるのにかかわらず、嗜好品として定着されていることをもって処罰をしないとするならば、大麻使用に対する処罰の根拠は、「国民健康上の見地」ではなく、結局「大麻使用人口が少ない」ことと「大麻に対する社会の態度が厳しい」ということになってしまう。
「大麻の使用人口が少ない」ことをもって処罰の根拠とするのはまったく理由にならない。大麻取締法の目的は、大麻の衛生を守るということにあるのだから、むしろ、大麻の使用人口が多ければ多い程厳しく取締るべきであり、逆に大麻の使用人口が少ないことは取締るべき理由にはならない。
 また、判決は「社会の態度」を問題にしているが、刑事罰の根拠として何ら内容のない「社会の態度」を用いること自体、大麻取締法が「社会の態度」による思想差別、つまり、大麻使用者の意図した法律であることを明らかにしたものである。
 しかし、近代市民社会において刑事罰の対象になるのは、たとえば人を傷つけるという様に具体的な行為であり、その刑事罰によって保護されるものつまり保護法益は、具体的には心身の安全ということである。抽象的なあるいはマスコミが作り上げた「社会の態度」というものは戦前における治安維持法における「国体」概念と同じく、そもそも近代市民社会における刑事罰の保護法益にはなりえないものである。
 したがって、大麻取締法は、治安維持法と同様に、「大麻使用」という人の思想ないしは、趣味、嗜好を処罰するという全体主義国家にむける法律であるといえる。
 ところで、前述の判決でいう「社会の態度」とは何か。その真の意味するところは「国体」概念と同様に国家の支配秩序の維持ということであろう。
 何故なら、厚生省や裁判所は大麻使用の幻覚性を非常に強調するからである。たとえば、東京地方裁判所八王子支部の昭和五二年二月一八日付判決は次の様に言っている。「そして大麻の場合は、麻薬や覚せい剤について見られる、いわゆる薬物依存性や、禁断症状はほとんど認められないとされているが、問題は前記のような大麻吸引が幻覚剤と同様な効果を引起すところにあり、一時的にせよ精神異常と考えられる状態を野放しにした場合においては、これに親しむ人を健康な勤労生活から逃避させ、怠惰な官能追及に落ち入らせるおそれがあり、さらには被暗示性の増大の面から、犯罪行為に走り、またはこれに巻きこまれるおそれも考えられる」。
 大麻使用によって多幸感が生じたり、触覚、視覚、味覚、音感が鋭敏になり、大量に使用した場合に(しかし、通常は満腹感が生じて、その摂取量をコントロールできるため、大量使用というのは通常ありえない)離人感や幻覚(つまり意識の変化)が生ずることは、前述の様にWHOのレポートなどで報告されているところであるが、しかし、判決でいう様に人を健全な勤労生活から逃避させたり、また怠惰な官能追及に落ち入らせたり、さらには犯罪行為に走らせたりするという事実は何ら証明されていないのである。それなのにあえて判決が大麻の幻覚作用を強調して「健全な勤労生活」「怠惰な官能追及」「犯罪行為に走る」ということを強調するのは何故であろうか。
 それは人民の幻覚つまり意識の変化に対する国家の潜在的恐怖にあるのではないだろうか。つまり、現在の日本という国家は、利潤追及を至上命題とする資本主義経済を政治的に支えるものであり、そこには、基本的に支配者たる資本家階級と被支配者たる労働者階級が存在している。そしてその支配、被支配の構造が一つの秩序となり、たとえば一夫多妻制や教育制度もその秩序に奉仕するものとして国家が成り立っている。法とその担い手たる裁判所は基本的には支配者の価値観を具現するものであって、右の様な支配、被支配の社会秩序に奉仕するものである。
 ところで、幻覚つまり意識の変化という作用は、現存の価値観、思考方法を否定もしくはそれにとらわれない作用、すなわち「意識の解放」につながる。この「意識の解放」こそ国家はその存立基盤たる支配秩序を否定するものとして最もおそれているのであって、大麻使用による「健全な勤労生活の逃避」、「怠惰な官能追及」「犯罪行為に走る」ことの具体的な内容、および大麻使用との関係を客観的に吟味することなく、それらのおそれがあるとして、大麻使用の有害性を認定しているのである。
八 意識の変化と解放
 結局のところ、マリファナの作用について議論する場合に、それが悪いとされる理由は意識を与えるからということにつきるのではないかと思われる。
 そこで、意識を変化させることの意味について、特に筆者の考えを述べたい。
 意識の変化ということは、何ら否定されるべきことではない。何故ならば、人間が人間であるという存在証明は、まさに人間が意識をもっているということにあり(意識のない人間は機械でしかない)、その意識を変化させることによって、あらゆる文化、芸術が創造されてきたからである。人を好きになったり、嫌いになったり、幸福とか不幸と感ずるのも意識の変化によるものであり、また国家とは法律も、人間の意識の産物でしかない。大麻取締法も、大麻が悪いものだという意識で作られたものにすぎない。
 結局、人間が生きるということは、意識を抜きには考えられず、意識の変化、拡大をどれだけできるのかということにかかっている。そして、人間が疎外されず、主体的に生きたいならば、その意識を主体的なもの、創造的なものへ変化、発展させていくしかない。
 マリファナは意識に影響を与えるものであるが、それは表面的意識をリラックスさせる効果をもつものである。気持が落着く、ゆったりとする。聴覚、触覚、視覚、味覚などが敏感になる、と表現される。この意味でマリファナは、抑圧の多い日常生活に、精神のくつろぎを与えるものであって、有害というよりは有益なものであろう。
 ところで、マリファナの作用は、表面的意識をリラックスさせるが、そのリラックスさせた状態をどの様に深めるかということは各人の個性、主体性の問題である。つまりマリファナは、表面的意識を解放し、自己と世界との関係を明せきにし、ありのままの自我、本性の発見の契機になりうるものではあるが、それはあくまでも契機であって、それ以上でもそれ以下でもない。人間行動を基本的に規定しているのは潜在意識であるが、マリファナとは関係がなく、各人の責任、主体性にかかっている。
 しかしながら、意識を拡大、深化させたいという欲求は、意識をもつ生物たる人間としての自然な本性であり、その存在証明でもある。そして、法的にいえば思想、良心の自由、表現の自由、幸福追及権の根底にあるものである。この意味でマリファナ使用を刑事罰でもって規制することは、人間としての基本的自由たる「意識−思想」の自由を抑圧するものといえるだろう。(まるい・ひでひろ)



「 薬物使用と非犯罪化」は、

法学セミナー(日本評論社)1980年12月号44〜49頁からの引用です。


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