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                      郭沫若『蔡文姫』と北京人民芸術劇院

                                                                          瀬戸宏

 二〇〇二年は北京人民芸術劇院(北京人芸)創立五十周年で、過去の名作劇が連続上演された。その中に郭沫若『蔡文姫』があった。私もこの公演を観ている。『蔡文姫』は郭沫若が一九五九年に発表した戯曲である。漢末の戦乱の中で匈奴・左賢王の后となった蔡文姫は、二人の子の母となり匈奴の地にもなじんだが、郷土への思慕の念は変わらない。やがてその才を惜しんだ曹操の計らいにより帰漢するが、彼女は子と別れねばならなかった。匈奴への使いとなった董祀は誤解により曹操に殺されそうになるが、蔡文姫は身を挺して曹操の誤解を解き、董祀を助ける。八年後、父の著作の編集を終えた蔡文姫のもとへ、二人の子が送り届けられ、蔡文姫は再会の喜びにひたる。

 一九四九年の中華人民共和国建国から一九六六年の文革開始までに発表された戯曲は、今日ほとんど上演されることがない。その中で、『蔡文姫』は老舎『茶館』、田漢『関漢卿』などと並んで、その数少ない例外に属する。郭・老・曹という言葉がある。北京人芸の上演風格を形成するのに重要な役割を果たした郭沫若・老舎・曹禺という三人の劇作家を指したものであるが、これからも郭沫若作品と北京人芸の密接な関係が理解できる。北京人芸は郭・老・曹を演じることによって、中国最高の劇団という栄誉を勝ち得ていったのである。
 二十一世紀の今日でもなお郭沫若劇の上演が続いていることは、郭沫若にとっても喜ばしいことであるに違いない。それには、もちろん戯曲の力もあるが、それだけではない。初演の演出にあたったのは北京人芸第一副院長・首席演出家(総導演)であった焦菊隠であるが、彼の演出が創意に満ち、北京人芸の風格形成に大きな役割を果たしたのみならず、その後の中国話劇の上演にも大きな影響を与えたからである。

 北京人芸の『蔡文姫』初演は、一九五九年五月のことであった。この『蔡文姫』上演は台本などがその後公表されたのでその詳細を知ることができるが、郭沫若の戯曲と比べると、第四幕第二場が削除されたほか、台詞の一部が簡略化・口語化されている。しかし、全体としては戯曲の内容はほぼ保持されているといってよい。
 その後『蔡文姫』は一九六一年まで、上海、蘇州、長春、瀋陽、ハルビンなどで二四〇ステージ以上上演され、北京人芸の代表的演目の一つとなった。文化大革命が終結し、文革期に北京話劇団となっていた北京人芸が一九七八年に北京人民芸術劇院の名称を復活させた後、文革前一七年の優秀演目復活上演に取り組んだ際、最初に選ばれたのもこの『蔡文姫』であった。当時は初演時の俳優が健在で、七八年再演は初演とほぼ同じキャストで行われている。それだけでなく、演出も一九七五年にすでに逝去していた焦菊隠の演出プランを忠実に再現する方法を用いている。

 この公演は成功し、『「蔡文姫」の舞台芸術』(上海文芸出版社 一九八一)という上演台本や演出ノート・俳優の演技談を治めた本が出版され、さらに映画化もされた。後にこの映画『蔡文姫』はVCD化され、今日では首都劇場付設の戯劇書店などで容易に入手することができる。この映画はスタジオ撮影で舞台の忠実な映像化ではないが、キャスティングは舞台と同様でシナリオも、今回『「蔡文姫」の舞台芸術』収録本と対照してみた限りでは、ほぼ舞台上演台本に忠実である。
 『蔡文姫』に限らず、郭沫若の歴史劇について、私は以前から必ずしも肯定的ではなかった。人物形象の掘り下げが弱いのである。郭沫若は序文で、「ボバリー夫人は私だ」とうフローベールの言葉を引いて、「蔡文姫は私だ」と述べている。三七年に子や妻を残して日本を去った自分の境遇を念頭に置いているのであろう。しかし、そうであるなら、蔡文姫の矛盾に満ちた心理をもっと掘り下げてもらわねば困る。董祀を陥れる周近の心理も、十分に描かれているとは言い難い。全体として、人物像が類型化の域を越えていないのである。
 しかし、VCDを観て、この北京人芸上演の舞台『蔡文姫』は傑作だとおもった。焦菊隠演出の『蔡文姫』が歴史に残っているのは、伝統演劇の技法を話劇に取り入れた「話劇の民族化」のためである。そして、適度に伝統劇の「型」の演技技術を取り入れ、しかし台詞劇の本質は保っている北京人芸の俳優たちの演技は、郭沫若戯曲の人物類型化にかえってマッチし、感傷的な独自の劇的雰囲気を形成することに成功している。特に、台詞術が素晴らしい。『蔡文姫』が中国話劇史上の名作とされる理由を、改めて確認した。

 残念ながら、北京人芸にあっても演技の継承は必ずしも成功していないようだ。二〇〇二年北京人芸上演の『蔡文姫』(蘇民演出)は、基本的には焦菊隠演出の復活を目指したもので、俳優も現時点での北京人芸最高キャストなのだが、梁冠華の曹操が独自の風格を作り出していたほかは、郭沫若作品の人物形象の弱さが浮き出て、ぜいたくな商業演劇を観ているような印象であった。二十一世紀の今日、郭沫若作品を成功裏に上演するためには、特に演出面で新たな創意を必要とするのではなかろうか。
(日本郭沫若研究会『郭沫若研究会会報』第四号 2004.5掲載)

 
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