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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 松浦亜弥論 −戦後民主主義教育の誤謬− 歌は世に連れ、世は歌に連れ――。 100円ショップの商品のごとく次々と世に送り出され、無情に消費されていくアイドルもまた然りである。 アイドルは死んだ――。 ニーチェがこの時代に生きていたなら、必ずやそう吐いたに違いない。21世紀の日本はアイドル不毛の時代である。 最後のアイドルが誰であったのか、特別アイドルに入れあげたことのない論者には確と判断はできないが、80年代前半までは確かにアイドルは存在した。 たとえば太田裕美、あるいは南沙織、能瀬慶子、「21世紀まで愛して」水谷麻里。かの岡田有希子もアイドルゆえに自殺したというべきであろう。モー娘。のメンバーは自殺しない。 あるいはアイドルの存否は「おニャン子」をその紀元とすべきかもしれない。 さて、論者がアイドルの死を確信をもって識認したのは、遅ればせながら深キョンこと深田恭子の出現時であった。 世も末。それが深キョン初見の感想である。 普通。あまりにも「フツー」。絵に描いたようなオンナノコ。それもラファエロやアングル描くところの女性などではもちろんなく、まるでリア厨のアニヲタが描いたような女の子ではないか――それが正直な第一印象であった。 なぜこんな普通の少女がアイドルたりえるのか。それほどまでに世間の少年たちはフツーの女の子に餓えていたのかと、愕然というよりも慄然たる思いで深キョンという「アイドル」の成立に衝撃された。 さて、あややこと松浦亜弥である。 松浦亜弥とはいかなる「アイドル」であるか。 16,7の小娘に断罪を下すようなことを言うのは心苦しいが「過大申告アイドル」と命名したい。 額面にゼロを二つも三つも付け足して、かわいさを大幅に過大申告しているアイドル。 過大申告アイドルの系譜は鈴木あみをもって嚆矢とすべきであるが、アミーゴ株はすでに大暴落して額面割れもいいところである。池に落ちた犬を叩いてはいけない。俎上に載せるのはいまだ不可解なほど高値で買われている松浦亜弥としよう。 しかし考えてみれば、あややよりもアミーゴよりも以前に、過大申告アイドルの始祖ともいうべきアイドルがいた。大アイドルが。 松田聖子である。 だが松田聖子が、あやややアミーゴやミキティ(なんだそれ)と決定的に違うのは、苛烈な批判を浴びたという点である。 アイドルとしての絶頂期にも松田聖子は常に「ブリッコ」とバッシングされ続けた。 ブリッコとは直截にいえば「ブスのくせに」ということだ。 松田聖子のカワイ子ブリッコは、みずほFGの自己資本比率かNTT株の初値かというくらい、目に余るほどの過大申告、オーバーパーぶりであった。 そういう臆面もないアピールを日本人の良識は良しとしなかった。 そういうハレンチな自得は、たとえオンナ・コドモといえど容赦せず断罪する清潔な精神性が80年代初頭まで日本人の心根には残っていた。人々は容赦なく松田聖子をブスと断罪した。それがジャパニーズ・スタンダードであった。 しかし松田聖子はそんな批判の嵐に晒され続けたからこそ、真のアイドルに脱皮しえたのである。さらに遡れば、美空ひばりなどは新聞紙上で高名な評論家からゲテモノ呼ばわりまでされているのである。 翻ってあやややモー娘。を見れば、マス媒体上で正面切ってその器量を云々する声は決して大きくはならない(日刊ゲンダイのようなクダ巻きメディアを除けば)。 いや、彼女たちを腐すのは本論の趣旨ではない。これは我々自身の問題なのである。 我々はなぜ、たかが16,7の木っ端芸人にブスの一言もいえなくなってしまったのか。 それは恐怖のせいである。 その恐怖は、池田小児童殺傷事件の宅間守や、西鉄バスジャック事件のネオ麦茶を駆り立てた恐怖とまったく同質、同根の恐怖である。 この恐怖の蔓延こそは、戦後民主主義教育の誤謬が生んだ、かつての元寇や先の大戦での敗戦にも匹敵する日本の一大危局である。しかしこれはまた項を改めて論述しなければならない。 松浦亜弥は老練なアイドルである。 老練とはおよそアイドルとは無縁の性質である。しかるに松浦亜弥はまさに老練としかいいようのないアイドルといえる。 若者が老練なアイドルにしか入れ込めないこの時代、少子化も当然なのである。 ていうかやっぱ、松浦亜弥をフジの女子アナに置換。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 命からがら ちょっとだけ余裕が出来たので――というか出来たことにして、半年ぶりに山に行ったら、ヒザを痛めて歩けなくなって、ゴアのアウター上下を山頂に置き忘れて、車が動かなくなった。 まあ、なんというか、天罰かも知らん。 モノより思い出、と言ってモノを売りつけようとしたコマーシャルがあったが(しかも車ときたもんだ。一番高ぇ耐久消費財ぢゃねえか)、この広告の本心が言うように、たしかにモノがなけりゃ始まらねえ。思い出なんぞクソの役にも立ちゃしねえ。なにがプライスレスだ。 さすがにこの歳ンなって、イギリス人のバックパッカーぢゃあるめえし、テントも雨具も無しに山に行く気にゃあなれんわな。 ま命があっただけで良しとしましょ。 あの月をとつてくれろと泣子哉 一茶 あの山を登って下りれば素寒貧 おれ |