[児島宏子の奄美日記]

『外套』

後書きより

 身寄りもなく病に苦しむお年寄りに、行き場所もない状況が起こっている。″介護″ということがあちこちで言われるにもかかわらず、さまざまな事件をニュースで耳にすると、現状はちょっと違うという印象を抱く。今の日本では、利権がらみのお祭りにお金を使うより、まずは子どもたちを、人々の生命を護らなければならないだろう。

 新しい外套ができて、アカーキー・アカーキエヴィチにとっては、ささやかではあるが祝祭となった。それなのに息をひきとる結果になったのは、現時点で考えても、実に多くの象徴が含まれていると思えてならない。
 アカーキーはこの世に生を享けたが、現在の日本では産気づいた妊婦がたらいまわしにされて胎児とともに命を亡くしている。いや、命を奪われたのだ。アカーキーの時代から一六〇年以上も経た、いわば文明国で起こっているとは信じがたく、慙愧に耐えない……悲しくて涙があふれてくる状況があまりにも多すぎる……。話がわき道にそれてしまい、私が出張先だけでなく、わが家に戻る道すがらいつも思い浮かべる一節を引用するのを失念してしまった。
 《やがて、アカーキー・アカーキエヴィチは、際限なく拡がる広場に道が飲み込まれている場所に近づきました……》私たちは、明るく照らされるだけでなく、優しい音楽が鳴り響き、大人も子どもも行きかい、生命の息吹がいきいきと輝く″広場″にこそ近づきたい……

ユーリー・ノルシュテイン跋から引用(155ページ)

 『外套』は人類にとって恥の遺伝子を醸成する培養基とも言える。もし一時なりと、ある理想の人間社会を思い浮かべてみるなら、私たちは『外套』抜きで生きていけないだろう。そうでないなら、前に述べた事態を防ぐための内省の機会が、私たちから一瞬のうちに消え去ってしまうことになる。


[児島宏子の奄美日記]