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奄美日記


奄美日記(1)


 奄美大島を横目に通り過ぎるかに見せかけて機体は、すぐに引き戻って岸沿いに島に滑り込む。海と白砂とに交わるかのように。

 南海日日新聞社でソクーロフは記者会見に臨む。他の新聞社、テレビ局の記者たちが彼を取り囲む。

 「島尾ミホさんにお会いするために来ました… この島は休息するのではなく働く場所に見えます…」と彼は早くも鋭い観察を披露する。

 夕方、島尾家を訪れる。暮れなずむ中に薔薇色めくベージュ色の、やや西洋風の建物がゆるぎなく空間を埋めている。ソクーロフは嘆息とも溜息ともとれるような音を発する。その瞬間、建物は輪郭もおぼろに揺れる。撮影の大津幸四郎、録音とスチール撮影の、みやこうせい、撮影助手で大学院生の相馬徹、通訳の私、それにソクーロフも緊張している。案内してきた奄美の写真家の濱田康作も落ち着かないそぶりを見せる。コーディネーターの野本昭夫がインターフォンのボタンを押す。

 玄関の扉が開くと、みやびな黄揚葉蝶が舞い出る。「よくいらっしゃいました」声が響いて透きとおる。黒の衣装、黒い帽子、黒レースの手袋、肩に金色をあしらった黒いショール。あでやかでありながら、あどけない女王の笑顔がこぼれる。

「島尾ミホです。こちらはマヤ。どうぞよろしく」私たちは催眠術をかけられたように、島尾ミホにいざなわれて部屋に入り、各自の場所を占める。入り口のすぐ左側に祭壇が作られ、晩年の島尾敏雄が眼鏡の底からこちらを見ている。祭壇の聖母マリアは、日本画で、マリアも幼いイエスも奄美群島の人に見える。ふと、ナザレの聖母マリア教会の壁を埋めるマリアと幼いイエスの巨大なイコンが脳裡をよぎる。各国から寄進されたその中に日本からのもあり、それが祭壇の小さなイコンに重なる。十字架も目に入る。全体の流れに逆らって、祭壇に近づき手を合わせるべきなのかどうか決心がつかないままに、私はすぐに通訳の任につかなければならない。

 テーブルにはご馳走がところ狭しとばかり並べられ、館の女主人の勧めでグラスにビールが注がれる。まず、島尾敏雄に献杯する。マヤがビールを運んでくれる。「さあ、召し上がってください。どうぞ、どうぞ。よろしければコニャックもありますよ」とミホは五つ星のアルメニア・コニャックを指し示す。

「いえ、ビールでよろしいです」と誰かが言うのだが、やはりコニャックを開けることになるが、上手く開かない。ご馳走を食べて、飲んで、のんびりできないのだという思いを反映してか、撮影スタッフ側は落ち着かず、すべてぎこちない。やがて、ソクーロフが真剣な面持ちで切り出す。

「ミホさん、私はあなたと二人だけで話がしたいのです。スタッフには一足先に帰ってもらいますが、いいですか」ミホはすぐに同意する。だが、心もとないような表情が、年齢を全く予測させない顔に漂う。それは、先ほど、大どかに、ぐらと揺らめいて見えた館の面影に重なる。なぜか動悸がする。Amami Nikki

「あなたと作品を作るために1万キロの彼方から、ここにやって来ました。作品をつくるに当たって、私もあなたも未来の観客の前に正直で誠実でありたいのです。そうでないなら、観客は興味を持たないでしょうし、作品をつくる意味はないのです… 」

ミホは、瞳を大きく見開いて頷く。私には、彼女の瞳が長年生きてきた女人のそれに見えない。澄んでいるような、だが、すべてを見通しているような、少女でも、人生経験を積んだ女でもない何者かのまなざし。

「あなたには、女流作家であり著名な作家の妻である女性を演じていただきたい。あなたは、今、女優なのです」

「演じるって、台詞はどうするのですか?」ミホの黒みを帯びた瞳がゆらめく。

「実際には島尾ミホを演じるのですから、あなたの人生にあったこと、あることを語るのです。その際、自分に誠実でなければなりません。この作品は島尾ミホのドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーともフィクションとも名づけがたい作品にしたい。」ソクーロフはきっぱり断言する。ミホは、瞳を虚空に何がなし漂わせたまま、考えこんだり、ときには頷いたりして耳をかたむけている。

「ミホさん、あなたと一緒に映像小説を書こうと考えました。私の提案をお聞きください。撮影は1週間後に開始しますから、それまでに考えてください。あなたの方から何か別の提案がある場合はご連絡ください。この映像小説は3章から成ります。第1章は、たとえば“両親”と名づけられる。ここで、ヒロインは母のことや父のことを思い出し語ります。第2章は“自分とは何か?”と名づけられ、ヒロインは自分と向い合います。第3章は、“愛”。ここでは愛する夫のことや子供のことに触れます。“愛”にまつわることすべてが含まれます。最後にヒロインは、「いろいろなことがあったが、これを書きとめておかなければならない」と考えて机に向かい、原稿用紙にペンを走らせます。『海辺の生と死』、『祭り裏』の他にもう一つの映像小説が誕生するのです… あるいは、神に祈る姿でもいいですね。もし、そうなら、どんな言葉が神に向かって発せられるでしょうか? どう思われますか?」とソクーロフはミホを凝視する。

「さあ、どうでしょうか… 」 ミホの黒い衣装の輪郭が一瞬ゆらめく。

「たとえば、いろいろありましたね…」ソクーロフが口を添える。

「苦しいこともありました。でも生きてきてよかった。すべてあなた様のご意志… お裁きはあなた様の御心のままに…」

「ああ、いいことばです」ソクーロフの口元が初めてほころぶ。こうして、二人は5日後にもう一度撮影についての詰めをすることで合意した。

帰り道、私はソクーロフに尋ねた。「サーシャ(ソクーロフの名前アレクサンドルの愛称)、このような手法の効用は何ですか?」問いかけを待っていたかのように彼は微笑む。「奄美を背景に島尾ミホについての作品にすると、観客はミホのことしか考えない。私は観客に、自分のことを考えてもらいたい。自分に自分のことについて思いを巡らせるヒロインとはどんな人物なのか、と最後に島尾ミホ、ひいては島尾敏雄について考え、お二人が書いた作品のページをひもといてほしいと思う。だって、彼らは日本の宝なのだから… ロシアで2人のアンソロジーが出版できたらすばらしいのだが… 彼らは稀有な人々だ」と彼は口をつぐみ深い物思いに沈んでいった。朱鷺色になじんだ月だけが漆黒の空から身を引き離すようにヤポネシアの空に浮かんでいた。


児島宏子


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