8cmのピンヒール






 彼女が第3村を離れ、ヴンダーに戻るその日のこと。

 犬の吠える声が聞こえた。彼女――式波・アスカ・ラングレーが振り向くと、そこには彼――碇シンジの姿があった。
「で、なにしに来たの」
 そこにいたのは、目元を赤く腫らした少年の姿。彼は迷うことなく、アスカにそう告げた。
「アスカ、僕も行くよ」
 シンジのその姿はアスカに驚きを与えたが、彼女はそれを表に出さないように振る舞う。
 アスカはそのときまで、シンジをヴンダーに乗せるつもりはなかった。傍らのケンスケの言うとおり、シンジは第3村に残っても良かったのだ。
『あのガキは、ここに、第3村にいた方が幸せだ。わざわざ災厄の場に連れていく必要はない』
 〝初期ロット〟がいつまで無事でいられるかはアスカの知り得ないところではあったが、それでも彼女に彼を託すのが最善の策だと、アスカは想っていた。
 しかし、シンジは来た。眉をキュッと引き締め、内に秘めたものを感じさせるその眼。それは今までアスカが見たことのない表情だった。アスカはわかった。
『初期ロットが……』
 アスカはその最期を知った。そして、その最期がシンジに与えたものも。彼女は最期まで、その身を呈してシンジを救ったのだ。
 シンジをヴンダーに乗せてどうなるのかは、わからない。シンジがどうしたいのかも、わからない。それでもアスカは、そのシンジの姿に懸けてみたくなった。シンジの決意を信じてみたくなった。
「そう、じゃあこれ、規則だから」
 アスカは、ショックガンの引き金を引いた。



「葛城大佐、脱走していた監視対象BM‐03を連行したわ。尋問する?」
 その場で意識を失って倒れ込んだシンジを抱きかかえ、アスカは葛城ミサトに連絡を取る。
「アスカ、ご苦労様。監視対象はそのまま医務室に連れて行って。意識が戻り次第、耐爆隔離室にて保護する。そうして頂戴」
 ミサトの答えはアスカにとって、ふたつの意味で意外だった。
『ミサト……シンジを乗せるの? シンジに逢わないの?』
 シンジを第3村に留めておくことをミサトは選ぶと、アスカは思っていたのだ。あのとき、DSSチョーカーの起動ボタンを押せなかったミサトはきっとそうする。アスカはそう思っていた。
 もうひとつは、シンジに逢わなかったことだ。だがそれはきっと、彼女なりのケジメであり、強がりなのだろう。アスカはミサトのサングラス姿を思い浮かべた。

 アスカは、意識を失ったシンジを背負ってヴンダーに戻った。途中で投げ掛けられる数多くの眼。怒りの眼、憎しみの眼、嘲りの眼、戸惑いの眼。それらの多くの眼は、アスカにはまったく響かなかった。
 ヴンダーに戻ったシンジは、アスカの眼の前で拘束され、耐爆隔離室にその身を移された。シンジもそれを、当然のこととして受け入れた。アスカは鈴原サクラと共に、運命の荒波に自ら飛び込んだシンジのその姿を、複雑な想いとともに黙って見送った。なにも言葉は掛けなかった。掛けられなかった。

「DSSチョーカーは」
 アスカはサクラに、シンジの首元になかったそれを問う。
「未装着で問題ありません。全作戦の終了時まで、耐爆隔離室において、保護します」
 アスカはサクラのその言葉を聞き、ミサトの気持ちを推し量る。
『ミサト……中途半端に甘いのよ』
 アスカにはミサトの気持ちが痛いほどにわかった。たとえ耐爆隔離室に収容するとしても、シンジにDSSチョーカーを付けさせない理由にはならない。それはシンジのことを思えばこその処置だ。アスカは言い訳のようにサクラに「その方がより確実な処理方法と言うわけね」などと言ったが、それには説得力がないことは、アスカ自身が良くわかっていた。

 そして、目の前のサクラのことを想う。彼女がシンジに特別な想いを持っていることは明確だ。
『わたしはもう、シンジを見護る必要もない』
 アスカはその想いを、手渡したデータと写真とともに、サクラに託した。自分の役割は終わった。アスカはそう、自分に告げた。
『わたしにはもう、心残りはない。あとは、わたし自身への復讐を果たすだけ』


     ※


 アスカが、シンジと共に第3村からヴンダーに戻ってから、数日が経った。
 彼女はマリ――真希波・マリ・イラストリアスと共に、耐爆隔離室の中で、その時が来るのを待っていた。
 既に成すべきことはない。今はただ待つだけだ。
 待つことには慣れている。アスカはそう思っていた。

「ひめぇ~」
 いつもながら、戯れているのかそうじゃないのか、その心の向きが掴めない様子でマリがアスカに呼び掛けた。視線だけで応えたアスカに、マリは続ける。
「姫はさ、ハイヒールって履いたことある?」
 読んでいた文庫本から目を離して顔を上げ、マリはその問いをアスカに投げ掛けてきた。
「……わたしがあると思う?」
 憮然とした声でアスカは答えた。
「にゃはは、ごめんにゃ。この本に、初めてハイヒールを履いたときの話が出てくるんだけどね、私も履いたことがないからにゃ、聞いてみた」
 だが、アスカの答えは嘘だった。アスカはかつて一度だけ、試すように履いてみたことがあった。アスカは十四年前のあの頃のことに、想いを馳せる。



 それは彼女が、葛城ミサトの家に住み始めてから数週間が経った頃のこと。いつものように学校から帰宅したアスカは、履いていたスニーカーをシューズキャビネットに仕舞おうとし、ふとそれに気づいた。
 それは一足の白いハイヒールだった。ヒールの高さは八センチはあろうか。アスカは吸い寄せられるようにそれを手にし、しげしげと眺める。

「ミサトも、こんなの履くんだ……」
 この家に居る時のいつもの彼女からは想像できないその姿を、アスカは想う。
「ああ見えて、決めるところではちゃんと決めるんだよね」
 きっと綺麗に履きこなすのだろう。アスカはその姿を想像する。それは大人の女性の艶やかな姿。アスカは暫し、なにかに想いを巡らせるかのように、それを見つめていた。

 ふと我に返ったかのように、アスカは誰もいるはずはない周囲をキョロキョロと見渡す。そうしてアスカはハイヒールを玄関に置き、少しの躊躇の後、そおっとそれに足を通した。

 そのサイズはアスカには若干大きく、踵が少し余った。それを気にしながら、アスカは真っ直ぐ立とうとする。だがうまく立てない。フラフラと足元がおぼつかない。アスカは意識して膝を伸ばし、胸をピンと張る。フン、と鼻息を鳴らす。
 そうして玄関の中を、一歩二歩と歩いてみる。
「う~」
 どうにもうまく歩けない。踵が心許なく、膝に変な力が入ってしまう。二歩進んで二歩戻ると言った感じで、決して広くはない玄関の中をグルグルと回るアスカ。しかし、上手くは歩けなかった。外に出てみるか、と考えていたところで、不意にガチャガチャと玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま~」
 その声とともに、もう一人の同居人が帰宅した。玄関先で鉢合わせする二人。アスカはその姿を見て、ギクリとその身を固めてしまう。
「ご、ごめん」
 もう一人の同居人――碇シンジは鉢合わせしたアスカに驚き、条件反射的に謝ってしまった。しかしそこでシンジは、固まったアスカの姿をまじまじと見たところで、その足元に気づく。
「アスカ……なにやってるの?」
「うっさいわね! アンタには関係ないでしょ!」
 脈拍の高まりを抑えられないアスカは、急いで脱いだハイヒールを胸に抱え、玄関先に通学鞄を放置したままに、自分の部屋に駆け込んだ。その場に取り残されたシンジは、初めて見たアスカのその姿に茫然とするしかなかった。
 アスカのすらりと伸びた足の先に納まっていたのは、白いハイヒールだった。見たことがなかったその姿。恐らく興味半分でミサトのものを履いてみたのだろうと、シンジは思う。
『アスカも……女の子なんだな』
 脱兎の如く走り去っていったアスカの姿を思い出し、シンジは、微笑ましいような、くすぐったいような気持ちになった。シンジはまた、知らなかったアスカの一面を見たような気がした。そしてまたシンジは思い出す。アスカの目線はヒールの分だけ、自分よりずいぶん高くなっていたことを。
『僕も、もう少し伸びないかな……』
 自分の部屋に逃げ込んだアスカは、意図せず持ち込んでしまったハイヒールを床の上に置き、それをじっと眺める。
 玄関先で出くわしたシンジの姿を思い浮かべ、アスカは頭を抱えた。
「マズった……」
 アスカの顔の熱は、まだ下がっていなかった。アスカは制服のままでベッドに寝ころび、両手で顔を覆うしかない。
「ううぅ……」
 悶えるような恥ずかしさで一杯になるアスカ。アスカは枕に顔を埋め、右に左にゴロゴロと転がる。

 暫くそうして悶えていたアスカだったが、三十分ほど経って、ようやく顔の熱も引いてきた。ベッドの上で、アスカはまたひとつコロンと転がり、床に置いたハイヒールに目を遣った。
「わたし、なにやってんだろ」
 思わず足を通してしまったそれ。アスカはそんな自分に少し驚いていた。
「ヒールなんて、わたしには必要ないのに……」
 そう言いながらもアスカは、それから目を逸らすことができなかった。白いハイヒールはアスカを、まだ見ぬ未来へ誘っているように思えた。
「わたしも、ミサトくらいの歳になれば……履くようになるのかな」
 アスカはまた、ふと気づく。玄関先で出くわしてしまったシンジと、目線が違っていたことを。自分の方が相当に目線が高く、ややシンジを見下ろす形になっていた。
『……碇指令って、結構背が高かったわよね』
 そうしてまた、アスカは自嘲する。
「なに考えてんの、わたし」



『ホント、なに考えてたんだろ』
 二十八歳のアスカは十四歳の自分を想い出して、狭い耐爆隔離室の壁の向こうを眺める。狭い世界に閉じ込められている自分たち。自由に動き回る事さえできない、檻の中の猛獣だ。
『ヒールなんて、ね』
 思えばあの頃はまだ、その希望があった。自分たちの将来に想いを馳せることができた。自分の出生や縛られた未来はアスカに常に付きまとっていたが、それでも、その少年に逢い、アスカの行く先に新しい光が差したことは事実だった。
 だが残酷に、仕組まれた未来は予定通りに、アスカの元に訪れた。
 あのとき一緒にいた少年は、今もアスカの近くにいる。つい先日までなど、その気になれば触れ合えるほどの近さだった。
 しかしその心の距離は、今のアスカにとって、果てしなく遠いものだった。


「この前読んだ本なんだけどにゃ」
 マリが、アスカの思考を遮るように口を開いた。
「人類初めての木星調査船のクルーの話。デブリ回収船の搭乗員から成り上がった主人公が、結婚したばかりの元同僚の奥さんを地球に置いて、七年間の木星への旅に出るんだけどにゃ、木星に到着して全人類に向けてなにを言ったと思う?」
 マリの問いに、アスカは興味なさげに「さぁね」と一言。ピクリとも関心を示さないアスカにも構わず、マリは続けた。
「『愛し合うことだけは、どうしてもやめられないんだ』って言ったんだにゃ」
 マリは、アスカの横顔を優しく見遣り、更に続けた。
「リリンは古今東西、愛すること、愛されることをやめられないんだにゃ、って思ったよ」
 そこまで言い切って、マリは少し目を伏せた。そのまま暫し、なにかを想うマリ。マリは再び面を上げ、アスカに向けて言葉を紡ぐ。
「だからさ」
 アスカの顔をしっかり見て、マリは優しく言った。
「だから姫も、間違いなく人間って事じゃないの」

 マリのその言葉に、アスカは珍しく反応した。肩をピクリと震わせ、宛もない一点に視線を固定する。なにかを言おうとするアスカだが、上手く言葉に出来ない。口を開こうとするが、言葉が上滑りするように掻き消えていく。

「もう、遅いわよ」
 アスカはようやく、その一言を絞り出す。

 アスカは自分を笑った。
 アスカは想う。今の自分に残っているただひとつの感情は怒りだ。それは世の中に対する怒りであり、エヴァに対する怒りであり、自分に対する怒りだ。それ以外の感情は不要なものとして、アスカは全てを封印した。怒りだけをエネルギーとして、あの日以来アスカは生きてきた。
 しかしひとつだけ、抑えても抑えても湧き上がってくるものがあった。それはすべて、碇シンジに向けられていた。彼を見ていたい、護りたいと想ったあのときの気持ち。それはとても自然なものだったのだ。それは怒りだけを糧として生きてきたアスカに宿った、たったひとつの人間らしい気持ちだった。

『もう、アイツに逢うことも、二度とできない。あのバカは耐爆隔離室の中だ。わたしが接触できるはずもない。わたしは二度とアイツに逢わないままに、きっとこの世を去るのだろう』
 アスカは、拘束されて連れ去られる、少年の姿を脳裏に浮かべた。アスカはその姿を今生の別れとして、苦い想いと共に、今またその胸に刻む。

「もしさ」
 マリはまた、アスカの心を読むように言葉に出す。
「もし姫が逢いたい人がいるのなら、わたしゃ全力で協力するよ~!? 姫のためなら、たとえ火の中水の中。どんなところでもお茶の子さいさいよ?」
 マリは口角を上げ、不敵な笑みを浮かべる。
「たとえそこが爆薬に囲まれて厳重に隔離されているところだとしても、私にゃ姫のためならできないことはないからにゃ」
 いつものように、冗談めかしてマリは軽口を叩いた。
 マリのその言葉はなにを意味しているのか。アスカは数刻、耐爆隔離室の壁を見つめたまま、硬直したように瞬きひとつしなかった。

 アスカは、初めてマリと出逢った時のことを想い出す。それは今と同じく、この耐爆隔離室の中だった。長い眠りから醒めた、醒めさせられたアスカは、数日前のシンジと同じように拘束され、そしてDSSチョーカーを首に刻まれ、この耐爆隔離室に連れてこられたのだった。
『こんなにギチギチに拘束しなくたって、逃げたりしないっつーの。だいたい、逃げるところだってないのよ、このわたしにはね』
 そう世界をあざ笑っていたアスカを迎えたのが、そのマリだった。
「はじめまして、姫。私はマリ。真希波・マリ・イラストリアス。よろしくねん」
 今と変わらぬその軽い調子で自己紹介したマリを見て、アスカは嫌悪しか感じなかった。
 コイツはなんなんだ。姫ってなんだ。アスカは侮蔑の視線を投げ掛け、フン、と鼻を鳴らすだけだった。
 しかしその後、アスカは知ることになった。NERVに囚われ封印されていたアスカと2号機を奪取したのは、そのマリだったこと。そしてその時のマリの決死の行動を。マリがなにを考えているのかは今でも理解できないアスカだが、マリに対する嫌悪と疑念は消え、その代わりに信頼がそこに座ることになった。今のアスカは想う。マリができると言うならできるのだろう。たとえそれが、到底無理だと思えることでも。

 そうしてアスカは、僅かに口元を緩め、視線を少し下げて呟くように言った。
「そうね、その時は頼むわ」
「らじゃ! 心得た!」

 ニンマリと口元を緩めるマリ。
 マリの笑顔を見ながら、アスカはひとつ、胸のつかえがとれたような気持ちになった。あとは自分の決心だけだ。

『愛しあうことは、どうしてもやめられない、か』
 愛し合ってなどいない。アイツはわたしを見ていない。しかし自分が、どうしても忘れられなかったことだけは、確かだった。
 愛されることは望んでいなかった。ただ愛すること。それだけのこと。それは自分に許されるのだろうか。アスカは自らに問い掛ける。

 アスカは、初めてヒールに足を通したその頃のことに、想いを馳せた。その頃の自分。そして今の自分。自分の運命はあの日以来、初めて心から笑ったあの日以来、すっかり変わってしまった。
 ただ、どうしても、抑えても抑えても、顔を覗かせてしまうものが、今もアスカの心を叩く。アスカはその想いに葛藤する。
『呪われた身体で人を愛しても……いいのかな』

 アスカは、シンジと過ごした日々を回想する。初めて逢った時は、苛立ちしか感じなかった。〝ナナヒカリ〟でエヴァに乗るなど、アスカにとっては許されるものではなかった。
 だが、シンジと過ごす毎日は、アスカを少しずつ変えていった。シンジと過ごす毎日は、アスカが今まで知り得なかった人とのふれあいをアスカに教えた。アスカは初めて、他人といるのもいいなと思った。シンジと過ごした日々は、アスカにとって唯一、年相応の女の子らしい日々だった。エヴァに乗るためだけに生まれ、育てられ、自分には他になにもないと思っていたアスカには、それは希望の日々だった。いつしかその少年は、アスカにとって特別な存在となっていった。
 しかしその日々は、あの日を境にあっさりと終わりを迎えた。アスカが3号機に乗ったあの日を境に、アスカの人生はまた、アスカの宿命を彼女に強いた。

 アスカはまた、十四年ぶりにシンジに再会した日のことを想い出す。あのとき、シンジに向かって芽生えた感情は怒りだった。なぜ怒りを感じたのか。アスカは今更のように、それを確認する。
『あのときわたしは……シンジに腹を立てた。なぜ? シンジがガキだったから?』
 ガラスを殴りつけた自分に、アスカは想いを巡らせる。そのときのシンジの様子を想い出す。なにも知らなかったシンジの様子を呼び起こす。
『ううん、そうじゃない。ガキシンジの様子なんて想定内だった。それでもアイツを殴りたかったのは……』
 あのときの右手の痛みを、アスカは想い出した。
『3号機に乗ったわたしを、使徒になったわたしを、シンジは殺せなかった。わたしのためにシンジは、なにもしてくれなかった。だから腹を立てた』
 その右手の痛みは、アスカの心の奥のものを掘り当てた。
『そしてそれにも関わらず、シンジが戻ってきたことを喜んだ自分に、わたしは怒(いか)ったんだ』

『By the way, ワンコくんとの進捗、どうだったん?』
 マリのその冷やかしに答えた言葉を、アスカは振り返る。
『別に興味ない。ガキに必要なのは恋人じゃない。母親よ』

「母親、か」
 アスカはふと、声に出してしまう。
『わたしは、母親にはなれなかった。シンジにわたしは必要じゃなかった』

 アスカは、「僕も行くよ」と告げてきたときの、シンジの顔を想い出す。なにかを知った顔。なにかを決めた顔。そのように思えた。少なくともUS作戦後に再会したときの少年とは、別人のように思えた。
 今のアイツなら、少しはわかってくれるのかもしれない。それはアスカに僅かに残った、人としての希望。
 アスカには、自分の未来が見えなかった。だからこそ、その少年に望みを託したかった。自分の存在を、その少年に憶えていて欲しかった。
 アスカは、抑えても抑えても湧き上がってくるその感情を、初めて理解した。

 そのアスカに蘇ったのは、第3村でのあの場面。アスカの胸には今また、その想いがこみ上げてきた。シンジの答えを聞きたくなった。
『どうせ暇なら、あのときなんでわたしがアンタを殴りたかったのかぐらい、考えてみろ!』
 それしか言えなかった自分。あれしかできなかった自分。アスカの胸はキュゥっと締め付けられる。彼への想いと自分の宿命。果たして自分には、その資格があるのだろうか。

 アスカは、それほど器用に生きられはしなかった。運命の時は、すぐ目の前に迫っていた。

 残された時間は、恐らく数日。
 あのバカの気持ちはわからない。

 でも、あのバカの答えだけは、聞いておきたい。
 それはきっと、アスカの最期の、たったひとつの望みであり、未来だった。

 約束の日まで、あと数日。
 その日まで、アスカはなにを想うのか。
 その日まで、シンジはなにを考えるのか。

 もう二度と逢えない。
 まだなにも伝えていない。

 その想いは、未だ、秘められたままに。
 そのときは、ふたりに、訪れるのだろうか。



 耐爆隔離室の外では、最後の決戦に向けて、着々と準備が進んでいた。
 運命の時は、すぐ目の前に迫っていた。







 


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