二十三.涙と明日


 ピン・ピン・ピン・ピン・ピン……

 微かな電子音が聞こえるくらいに、その部屋は静かだった。

 第二新東京市にあるリハビリセンターの一室に、少女はいた。
 時刻は午前十時を少し廻った頃。ドアをノックするいつもの音が、聞こえた。

「アスカ、入るよ」

 答えはない。それでも少年は笑みを絶やさずに、静かにドアを開け、通い慣れた病室へ足を踏み入れた。

 あの時、絶叫した少女は、急に意識を失った。慌てた少年は救急車を呼んだが、それよりも早く到着したのは、『政府の者』と名乗る、数人の男だった。
 その時初めて、少年は知った。彼ら二人には始終、監視が付いていたことを。そしてわかった。二人は間違いなく、今なお『チルドレン』なのだと。
 たとえ、エヴァンゲリオンが無くなった今でも。
 皮肉なものだ。監視があるからこそ、彼らは自由に歩けたのだ。

 少女はそれから、この一室へ運ばれた。
 それきり、少女は目覚めない。



 ものを言わない少女を前に、少年は今日も、語り掛ける。



「今日、トンボを見かけたよ」
「やっぱり、秋になるんだね」
「あれって、なんて言うトンボなんだろ」
「赤くなかったから、赤トンボじゃないよね」
「赤トンボってさ、ホントに赤いんだよね」
「シオカラトンボかなにかだったのかな」

 他愛のない話を、今日も少年は話し掛ける。

 時間は流れる。
 今日という日が過ぎていく。
 少年は、少女の右手を取って、話し始めた。
 それは、自らに言い聞かせていたのかもしれない。

 少年は、少し冷たい少女の右手を握りながら、話し始めた。

「僕はあの時、アスカの記憶が戻らなければいいって思ってたんだ」
「僕はやっぱり、ずるくて卑怯で臆病だったんだ」
「今がそうじゃないってわけじゃないけれど……」

「でも、今は思うんだ」
「記憶が戻って、良かったんじゃないかって」
「『ハルカ』と『シンイチ』から、『アスカ』と『シンジ』に戻って良かったって」

「だって、記憶がないってことは、みんながいないってことなんだ」
「ミサトさんも、トウジもケンスケも、洞木さんだって加持さんだっていないってことなんだ」
「綾波だって……」

「アスカがどう思うかわからないけれど……」
「でもやっぱり、アスカはアスカじゃなくっちゃね」
「もちろん、『ハルカ』だって『アスカ』の一部だけどさ」

「……なにを言ってんだか、わかんなくなっちゃった」
「バカだな……」

「……」

「アスカ……」
「僕はやっぱり、ずるくて、卑怯で、臆病で、弱虫なんだ」

「だから、絶対に、なんて言えないけれど……」

「でも、大丈夫だよ」
「きっと、大丈夫だよ」

「だって、僕はアスカを好きなんだから」
「この気持ちだけは、間違いなく本当のことなんだから」

「だから、僕はアスカのこと、ずっと見てるよ」

「好きな人のことを心配するのは、当たり前のことだよね」
「好きな人のことを看病したいと思うのは、普通のことだよね」

「アスカは僕のこと、嫌ってるだろうから、きっと迷惑に思うかもしれない」

「でも、僕はアスカのことが好きなんだ」

「アスカが迷惑に思ってもやめないよ」

「僕はアスカが好きなんだ」


 少年は、握る手に力を込め、そして笑った。


「じゃ、また、明日」



             *



 足音が遠くに去っていく。
 部屋の中は、再び静寂に包まれた。
 そこに横たわる、一人の少女。
 その名を、惣流アスカラングレーという。


 赤みがかった金色の髪。
 その髪は無造作に広がり。

 澄んだ蒼い瞳。
 その瞳は虚ろに天井を眺め。


 誰もいない病室。
 虚ろな少女の瞳。



 そこに光るものはなに?



 涙の筋が、ひとつ。

 涙の筋が、もうひとつ。






二十四.蝉

 

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