ピン・ピン・ピン・ピン・ピン…… 微かな電子音が聞こえるくらいに、その部屋は静かだった。 第二新東京市にあるリハビリセンターの一室に、少女はいた。 時刻は午前十時を少し廻った頃。ドアをノックするいつもの音が、聞こえた。 「アスカ、入るよ」 答えはない。それでも少年は笑みを絶やさずに、静かにドアを開け、通い慣れた病室へ足を踏み入れた。 あの時、絶叫した少女は、急に意識を失った。慌てた少年は救急車を呼んだが、それよりも早く到着したのは、『政府の者』と名乗る、数人の男だった。 その時初めて、少年は知った。彼ら二人には始終、監視が付いていたことを。そしてわかった。二人は間違いなく、今なお『チルドレン』なのだと。 たとえ、エヴァンゲリオンが無くなった今でも。 皮肉なものだ。監視があるからこそ、彼らは自由に歩けたのだ。 少女はそれから、この一室へ運ばれた。 それきり、少女は目覚めない。 ものを言わない少女を前に、少年は今日も、語り掛ける。 「今日、トンボを見かけたよ」 「やっぱり、秋になるんだね」 「あれって、なんて言うトンボなんだろ」 「赤くなかったから、赤トンボじゃないよね」 「赤トンボってさ、ホントに赤いんだよね」 「シオカラトンボかなにかだったのかな」 他愛のない話を、今日も少年は話し掛ける。 時間は流れる。 今日という日が過ぎていく。 少年は、少女の右手を取って、話し始めた。 それは、自らに言い聞かせていたのかもしれない。 少年は、少し冷たい少女の右手を握りながら、話し始めた。 「僕はあの時、アスカの記憶が戻らなければいいって思ってたんだ」 「僕はやっぱり、ずるくて卑怯で臆病だったんだ」 「今がそうじゃないってわけじゃないけれど……」 「でも、今は思うんだ」 「記憶が戻って、良かったんじゃないかって」 「『ハルカ』と『シンイチ』から、『アスカ』と『シンジ』に戻って良かったって」 「だって、記憶がないってことは、みんながいないってことなんだ」 「ミサトさんも、トウジもケンスケも、洞木さんだって加持さんだっていないってことなんだ」 「綾波だって……」 「アスカがどう思うかわからないけれど……」 「でもやっぱり、アスカはアスカじゃなくっちゃね」 「もちろん、『ハルカ』だって『アスカ』の一部だけどさ」 「……なにを言ってんだか、わかんなくなっちゃった」 「バカだな……」 「……」 「アスカ……」 「僕はやっぱり、ずるくて、卑怯で、臆病で、弱虫なんだ」 「だから、絶対に、なんて言えないけれど……」 「でも、大丈夫だよ」 「きっと、大丈夫だよ」 「だって、僕はアスカを好きなんだから」 「この気持ちだけは、間違いなく本当のことなんだから」 「だから、僕はアスカのこと、ずっと見てるよ」 「好きな人のことを心配するのは、当たり前のことだよね」 「好きな人のことを看病したいと思うのは、普通のことだよね」 「アスカは僕のこと、嫌ってるだろうから、きっと迷惑に思うかもしれない」 「でも、僕はアスカのことが好きなんだ」 「アスカが迷惑に思ってもやめないよ」 「僕はアスカが好きなんだ」 少年は、握る手に力を込め、そして笑った。 「じゃ、また、明日」 * 足音が遠くに去っていく。 部屋の中は、再び静寂に包まれた。 そこに横たわる、一人の少女。 その名を、惣流アスカラングレーという。 赤みがかった金色の髪。 その髪は無造作に広がり。 澄んだ蒼い瞳。 その瞳は虚ろに天井を眺め。 誰もいない病室。 虚ろな少女の瞳。 そこに光るものはなに? 涙の筋が、ひとつ。 涙の筋が、もうひとつ。 同人誌収録作品 目次 Evangelion Fan Fictions INDEX HOME PAGE |