僕たちは始まってもいない・スピンオフ





ここだけの話


 

 スペインに来て、驚いたことが三つある。
 一つは、モータースポーツのライダーがとてもリスペクトされていること。
 日本においてモータースポーツの地位が低いことは、お世話になったバイクショップでよく聞いていたので、そういうものなのかと頭には入れていた。「昔はそうでもなかったんだけどなぁ」と、どこか寂し気に語っていたのはメカニックの榊さんで、わたしがスペインに渡ると聞くなり、「日本人ライダーとして一発カマしてやれ!」なんて真剣に発破をかけられた。いざスペインに渡ると決まり、知識の浅い私は雑誌やウェブで情報を漁っていたのだが、これは現地の空気を吸わないとどうにもならないぞ、とちょっとした不安を抱えたものだ。そこで助けになったのが、アジアタレントカップに挑もうとするシンジの一言だった。同程度の知識レベルなくせに、「どうにかなるよ」と笑って言い切る。それでようやく肩の力が抜けて、榊さんの期待に応えたいと思うようになった。繊細なくせに、どこか図太い。もしかしてこいつ、大物なんじゃなかろうか。わたしは、シンジに対しての認識を大幅に書き換えることとなった。
 そうして現地に入った私を待っていたのは、幼少期からバイクに慣れ親しみ、才能も豊かなライダーたちだった。自分こそがトップライダーであり、MotoGPへ駆け上がるのは夢というより未来のあるべき姿。強者たちが牙を研ぎ合う環境で揉まれるのは、大学在籍時以来だった。あの頃は息苦しさを覚えていたけれど、彼らの貪欲さは私の中に眠る闘争心を駆り立てた。14の頃に手痛い挫折を味わったからこそ、二度目のチャンスがわたしにとって輝いて見える。楽しそうにしているシンジが許せなくて、あいつを引きずり落としてやりたい。そういう卑しい気持ちからモータースポーツの世界に入ったわたしだが、今ではすっかりバイクレースに魅了されていた。バイクコントロールが巧みで、多くの場数を踏んできた原石たちに太刀打ちする武器を、わたしはひとつだけ持っている。どれだけアドレナリンが溢れ出ようとも、それに振り回されることなく冷静にレースを組み立て、仕掛けどころを間違えない。邪魔をされればされるほど、頭はますます冴えていく。メンタルが物を言うレースでは、この手の駆け引きができない若手が多いと聞き、一筋の光がわたしの道に差し込むのを感じた。箱庭サイズだった私の世界が、途方もなく広がっていく。この感覚は、今までの生において決して得られなかったものであり、心臓が新しく作られたのではないかと思うほどに、鼓動が力強く脈打っている。
 わたしを焚きつけるのは、ライダーの存在だけではない。スペイン選手権に参加するライダーでさえ期待の新星として注目を浴び、とりわけ15歳で日独ハーフの少女という存在は、人々の目にはセンセーショナルに映るらしい。人によってはプレッシャーに圧し潰されることだろうが、わたしには追い風だ。レースに勝つことは、心の虚を埋めるための自己承認欲求とは決して繋がらない。以前の私なら、自身の価値とレースの勝利とを結びつけて、ひとり勝手に追い込まれた気分になったことだろう。己のすべてを持ってして、誰よりも早く走る。私の中には純粋な目的があり、小賢しい計算のできる気質が今こそ生きてくる。好奇な視線など、蹴散らすどころか味方にしてしまえばいいのだ。それに、日本では煙たがられる自己主張も、外に出てしまえば強みになる。バイクの経験値が低かろうが、わたしは選手権の参加資格を持つライダーだ。それを忘れずに、物怖じせず、堂々と歩けばいい。鼻息の荒い小娘をいっちょ揉んでやろう。そういう考えが丸わかりの荒っぽいライディングに出くわすたびに、わたしは笑ってしまう。格下だと思わせておきながら、いざ本番で一番時計をもぎ取った時の彼らの表情ときたら。この一瞬のためだけに海をはるばる越えてきたのだと思うほど、最高に気持ちがいい。わたしの性格の悪さも相まって、日本では得られない充実感を日々味わっている次第である。
 さて、一つ目が少々長くなってしまった。そろそろ二つ目に移ろう。
 次に私を驚かせたのは、ロードバイクを走らせていると、スペイン語をろくすっぽ喋れないのにやたらと話しかけられることだ。相手は主に、サイクルジャージを着た中年の男性。仕事が暇なのか、昼間からロードバイクを走らせている。単語の聞き取りができるようになると、どうも店を持っているらしいのだが、「店?そんなものは大丈夫だ!」の一点張りで、山やら峠やらにわたしを案内しようとする。なにが大丈夫なのか、サッパリわからない。ただ、言葉を覚える練習にはなるので、人々の視線がきちんと行き届いた街中を走りながら雑談を交わし、彼らの誘いを丁重に断って帰るのがほぼ日課となった。この会話にしてもちょっとしたコツがあって、話題がフットボールに移ると、言葉がわからない振りをするのが正解だ。地雷となるクラブ名を上げでもしたら、次の日から街を歩けない。自治州の独立運動が盛んな土地なので、敵対するクラブには歴史的な憎しみさえ存在するのが厄介だ。ドイツだって、ここまで徹底していない。ほとんど戦争の領域なので、各々が主張するクラブに合わせて「わたしのルーツはドイツと日本だが、あなたの好きなクラブは素晴らしいと思う」と告げれば満面の笑みで迎えられる。双方にとって、これほど穏やかな着地点はない。日本人によくありがちな、相手の好きなクラブに便乗する、というのは最大の悪手だ。すぐさま携帯を取り出し、「我らがクラブの記念すべき試合」を延々と流される。彼らの豊富なアーカイブは尽きることがなく、帰る時間を見失うのがオチだ。なぜ、わたしがそんなことを知っているか。そんなのは、他ならぬわたしの体験談だからに決まっている。捲し立てる相手に訳もわからず「Sí.」と頷いてやり過ごそうとしたのに、そのタイミングを間違った。記憶はおぼろげだが、「俺たちのクラブの試合を見るか」と彼は聞いてきたのだ。彼がとっておきの映像を流しはじめると、周囲にはみるみる人が集まり、見事なゴールが決まると「Golazo!」の大合唱。わたしは、皆が歌をうたう中、こっそりと人垣から離れ、スプリンターもかくやという全力の駆け出しを見せて帰宅の途に着いた。あれが私の最速記録で、更新されることはまずなかろう。ちょっと値の張るサイクルメーターを取り付けていて、本当によかった。
 ふむ。二つ目もなんだかんだと長くなってしまった。三つ目は、短いので安心してほしい。
 スペインには、いまだシエスタの文化が根強く生きており、夕飯の時間が非常に遅い。つまり、体重の管理が一大事になるというわけだ。自身を軽量化するのがライダーの仕事であり、年頃の女子としても上手く付き合っていきたい。文化への不理解は、コミュニケーションの敵である。そこを何とか擦り合わせて、ストレスを感じることなく生活していくのが肝要だ。



「……とまあ、そんな感じかしらね」
 場所は、鈴鹿の有名チェーン店。
 白飯に餃子という鉄板の組み合わせに舌鼓を打ちつつ、近況報告を済ませたところだ。最近は餃子も進歩していて、ニンニク抜きでも変わらぬ美味しさを味わえるのだから、大変ありがたい。中国発祥の料理なので馴染みはまったくないのだが、時折無性に食べたくなる。今日だって、適当なファミレスに入ろうかと思っていたのに、換気口から流れてくる香ばしい匂いに誘われて、この店で夕飯を取ることになった。
「……あのさぁ、アスカ」
「なによ。やっぱり餃子食べたくなった?追加で注文しようか?」
 わたしの話に横槍を入れることなく静かに話を聞いていたシンジが、ようやく声を出した。野菜が食べたいと言って五目そばを頼んだのだが、お皿に盛られた餃子が恋しくなったのか。真向かいに座るシンジにちらりと視線を移すと、首をやや傾げて要領を得ない顔をしている。例えるなら、師匠が投げた禅問答を前に、眉をしかめたお弟子さんといったところか。
 鈴鹿八耐に参加するため急遽来日したわけであるが、同じビジネスホテルに泊まるシンジから、「どうせなら一緒に食べない?」と夕飯に誘われて、わざわざ連れ立って外まで出かけたというのに。賑やかな食事を期待していたわけではないのだが、一方的に喋らせておきながら相槌ひとつ打たないのはどうかと思う。それでも文句を言わずきちんと受け答えをするのだから、わたしという人間も成長しているらしい。
「いや、違くて……僕さあ、『そっちの暮らしはどう?』って聞いたよね?」
「うん。だから話したじゃない。向こうに移って驚いたこと」
 色々と端折った部分もあるが、不便もなく暮らしていることは伝わったはず。わたしとしては、答えられる範囲の話はした。シンジが知りたいことは何なのか、わたしにはわからない。尋ねるという選択肢をシンジが取れないのなら、話はそこまでだ。まあ、夜はどんな格好で寝てるのかなんて聞かれたら、無言で平手打ちですけどね。そんで、お金払わずにそのまま帰ります。
「僕らはさ、レースをしに行ったんだよね?」
「聞くまでもないでしょ、そんなの。で、餃子は?いるの?いらないの?」
「うーん……あとで頼む。とりあえず、餃子の話、やめない?話が脱線しちゃうから。えーと……何を話してたんだっけ……」
「レースをしに行ったとか、なんとか」
「そうそう!だったらさ、チームの環境とか、走ってるサーキットの話になると思うんだけど……」
「なによ、わたしがどういう生活してるのか、気にならないわけ?」
「そりゃ、気になるよ」
 あらあら、即答しちゃいますか。しかも、当たり前じゃないと言わんばかりの顔で。
 なんだか妙な空気になりそうだなと思ったので、わたしは餃子を箸でつかみ、もぐもぐと味わう。同居していた頃、シンジが作ってくれた餃子もなかなかのものだったが、さすがは専門店とあって味に深みがあった。ご飯をおいしく頂き、スープで口直しをすると、大変真面目な話をしているのだ、という体でシンジと向かい合う。
「さっき話したとおりよ。気候は温暖で、湿度も低くて過ごしやすい」
 だからこそ、7月末の日本は身に堪えるのだ。身体に絡みつくようなぬるい風と、アスファルトの熱気。離れて半年ほどなのだが、よくもまあこの環境で暮らしていたな、と呆れてしまう。レーシングスーツにヘルメットという重装備を纏うことすら馬鹿げているというのに、バイクで耐久レースをするなど誰が考えたのだろう。参加するわたしも大概だが、世界耐久選手権の舞台となれば話は別で、各地を転戦しているライダーたちの本気を間近で見てみたいという欲求が勝った。
「どんなコースを走ってるの?」
「あんた、それ聞いてどうすんの」
「今後の参考にしたい。ヨーロッパに代役参戦するかもしれないだろ?」
 階段をひとつのぼって、世界のすそ野が見えたのか、シンジはヨーロッパのレース環境が気になるらしい。それ自体は決して悪くないのだが、視線が散漫になると、ひとつの物事に集中できなくなる。ここは、理詰めで説き伏せるとしよう。
「英語は?勉強してる?スタッフと雑談のひとつくらいできるようになった?」
「それは……」
「あんた、語学ナメすぎ。英語喋れるアジア人なんて、わんさといるのよ?だいたい、アジア圏でレースに資金を使える家庭は限られるだろうし、その辺の教育は行き届いてるでしょうね。まずは、セッティングだのフィーリングだのを正しく伝えられるライダーと同じ土俵に立つのが大事だと思うんだけど。エンジニアだって、必死に勉強してるライダーと仕事がしたいと思うだろうし」
 シンジは、正論をぶつけるたびに、塩をかけられたナメクジみたいに小さくなっていく。正論とは、とても残酷なものだ。それと同時に攻撃的でもある。わたしだって、仕事仲間となるシンジの気力を削ぐのは不本意だ。それでも、わたしにはこういう言い方しかできない。シンジとは、どれほど痛くても真剣にぶつかり合える信頼を築きたい。何事もなあなあで済ませる関係から、さっさと卒業したかった。それはわたしだけの我儘だろうか。
「ねえ、シンジ。あんたが勝負してるのは、アジアでしょ。よそ見してると、足元掬われるわよ?」
 最後にひとこと、柔らかな物言いを心がけてシンジに告げる。するとシンジは、ひとつ頷いて、五目そばをたぐる。皿の中身はみるみる減っていき、シンジのお腹へ入っていった。その食べっぷりは見事なもので、わたしの言葉を文字通り咀嚼しているように見えた。
 やがてシンジは箸を置き、水をごくごくと飲む。
「うん。言われてみれば、そのとおりだ。アスカが出てるレースに目移りしてると、他のライダーに先を越されちゃうよね」
「それにね、あんたが代役を任されるくらいのライダーになったら、わたしが黙っちゃいないわよ。ビデオチャットで、いくらでも情報流してあげるから」
「そ、それ、本当!?」
 椅子をガタンと鳴らして、シンジが食い入るようにわたしを見る。こういう素直さが、シンジの強みだ。負けず嫌いでとても頑固なくせに、他人の言葉を素直に受け取る。シンジが短期間で速くなった理由のひとつでもあった。
「嘘言ってどうすんのよ」
「ビデオチャットって、携帯でもできるのかな……」
「携帯でも、タブレット端末でも、方法はいくらでもあるでしょ」
 心配性のシンジには、少し荷が重かったか。シンジがアジアを出るのは先の話だろうし、その間に環境を整えればいい。そう告げようとしたところ、シンジがやや顔を赤らめて話を切り出した。
「だったら、さ、」
「ん?」
「英語の練習、付き合ってほしい」
「わたしが?ビデオチャットで?」
「緊張しないで話せるのって、アスカぐらいだから。忙しいなら、断ってくれて、いで!」
 額を指でピンと弾いて、シンジの弱気を吹き飛ばす。
 そこまで言っておきながら逃げ道を用意するのは、わたしに対する優しさではなく、自身への保険だ。本気で英語を学びたいのなら、意地でも食いつくぐらいの度胸が欲しい。
「あんた、英語が喋れるようになりたいの?それとも、わたしと話したいだけ?」
「え?両方だけど……」
 わたしは、深く深く息を吐いて、組んだ両腕の上に顔を置いた。とてもじゃないが、今は顔を上げられない。どうしてこいつは、何食わぬ顔でわたしを照れさせるのだ。いちいち心を揺さぶられるわたしが馬鹿みたいに思えてくる。緊張しないで話せるのがわたしぐらいというのも、なんだか特別感があっていいなあ、などと考える始末だ。
「……時差、どうすんの」
「僕がアスカの生活サイクルに合わせる」
「夜中になるかもよ?」
「頑張って起きる」
「とりあえず……こっちにいる間にスケジュール組んでみる……」
「じゃあ、教えてくれるの?」
 顔を隠したまま頷くと、やったあ、という小さな声が聞こえてきた。続いて、餃子一皿お願いします、という注文。店内に流れるのは流行歌で、夜の時間からか飲んでいる客の喋り声が大きい。シンジの声は、それらをかき分けるようにわたしの耳に届く。この声が定期的に聞けるようになるのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。
 わたしはのろのろと顔を上げて、お皿にひとつだけ残っていた餃子を食べようとする。その残りひとつを、シンジが箸でサッと摘んでしまった。呆気に取られていると、シンジがにこりと笑う。
「僕が喋ってたから、冷たくなっちゃったよね。一皿頼んだから、焼き立てを食べようよ」
 しつこいようだが、餃子のチェーン店である。
 サビがどこなのかわからない流行歌と酒飲みの喋り声がBGMだというのに、このわたしがシンジの気配りに動揺するなど、あってはならない。よく気の利く奴だ、程度で終わるべきなのだ。
「ああ、そうだ。すごく気になってたんだけど、知らないおじさんとサイクリングは止めた方がいいよ。誘拐されちゃうよ?」
「……あんた、いつからわたしの保護者になったのよ」
「そんなんじゃない。アスカが心配なんだ。だって、可愛いからさ」
 口に含んだ水を噴き出しそうになり、慌てて喉の奥に押し込んだ。見事に咳き込み、3分ほどまともに喋れなくなったのは、そのせいだと思いたい。思わせてくださいお願いします。餃子のチェーン店で自覚したくないことが、女にはあるんです。
「あ、餃子来たよ。熱いうちに食べよう」
 シンジは、わたしの前に餃子の皿を置いた。混じりっ気なし、100%の厚意だ。邪な考えなど、そこにはない。美味しいものを分け合いたいという、ただそれだけの気持ち。
「あのさ」
「ん?なに?」
「英語教えるから、餃子作って」
「そりゃいいけど……どこで」
「お互い、日本に帰ることもあるでしょ。あのアパートがいい」
「そっか。うん、いいよ。そういう約束って、なんかいいね」
 そう。これは約束だ。というより、予告といった方がいいかもしれない。
 わたしがこの場所で気づかない振りをしたあれやこれやを、その日、嫌というほど自覚するだろう。ふたりきりになれたのなら、わたしも腹を括れる。
 タイムリミットは、1年か、それ以上か。
 わたしにとって一世一代のレースは、すでに火蓋を切っている。

 



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