僕たちは始まってもいない
第二章 きみとぼく
2.Next Stage with You
心ここにあらずと言った様子のシンジ。別クラスを走るアスカが練習走行に出て行ったタイミングを見て、エイジはシンジに漏らした。
「わりいな、碇。惣流から口止めされててさ。レースまでは黙っててくれって。知り合いなんだって? 惣流と」
マシンのカウリングを磨きながら、エイジは続けた。
「アイツ、面白いんだぜ? この前のレースの翌日だったかなぁ。いきなり店に来たらしいんだよ。そんで『レースをやりたいんですけど、どうしたらいいんですか』ってウチの親父に聞いたんだって」
エイジは苦笑いを浮かべて続けた。
「聞いたらレースどころかバイクに触ったことさえなかったらしいんだけど、どうしてもレースをやりたいんだって。ウチの親父も困ったらしくてさ、とりあえずはXR100って、ほら、碇が初めて乗ったアレ。アレに乗せてみせたらしい。アクセルもブレーキもクラッチもギアも知らなかったんだけど、結構いい感じに乗れたらしい」
シンジは、自分のオートバイ初体験を思い出す。そうか、アスカは無難に乗れたのか。その時の様子が、シンジの目に浮かんだ。
「オヤジもこれなら大丈夫かと思ってサーキットに連れて行ったんだけどさ、最初はまあまあいいんじゃない? くらいだったんだけど、あいつ、凄い根性なんだよ。馬鹿みたいに走り込んでさ、もうほぼ毎日走ってた。ウチのメカニックもその熱意に負けて毎回付き合ってたけどさ、でも走った分だけ速くなって、今じゃ碇のデビュー戦と同じくらいのタイムだぜ」
そこまで興奮気味に一気に語ると、エイジはコースを走るアスカの姿を追った。シンジもエイジの視線の先を見る。真っ白な無地のフルフェイスのヘルメットに見慣れた白基調のレーシングスーツ。だがそれはシンジにとって、疑問の塊でしかなかった。『なんでアスカが?』と口を突いて出そうになる。
シンジの目にも、アスカは速かった。無理なくスムーズに走らせるその走りは、度々転倒するシンジとは全く違う走らせ方だった。
「速いだろ? しかもスムーズ。でも、最初は全然違って力任せって感じだった。よく転んでたよ。でもそのうち転ばなくなって、そうしたらタイムも出るようになってきた。頭がいいんだな、惣流は」
エイジは感心するように言いながら、シンジの方に向き直る。
「まぁ、碇は今でも変わらないけどな。あれだけ転んで怪我しないってのも、逆に凄いけど」
ごめん、と謝るシンジに、エイジは返した。
「何言ってんだよ、メカはマシンを完璧な状態でライダーに渡すのが仕事。ライダーは速く走るのが仕事。碇は速く走ることだけ考えていればいいんだ」
そう言ってカウリングを磨く手を止め、前後タイヤに巻いたタイヤウォーマーの温度を手で触って確かめるエイジ。
「そろそろ着替えて準備した方がいいぞ」
その日のレース。フレッシュマンクラスに出場したアスカは、危なげなくポールトゥウィンを飾った。だが少女はその勝利にも表情を崩すことなく、メカニックらに頭を下げて感謝の意を伝えるだけだった。
片や、今回のシンジはやや苦戦した。予選は走りに精彩を欠き、スリップダウンの転倒も喫してしまう。結果、二番手。決勝もやはり良い所はなく、トップ争いに絡むものの、結局三位に終わった。
その晩。浴槽で湯に沈みながら、シンジは今日のレースを振り返っていた。自分でも集中力が欠けていたことを自覚していた。同じことを監督にも言われた。原因はハッキリしている。アスカだ。少女の登場は、シンジの心を乱した。数ヶ月ぶりか、それ以上か。交わした短い言葉。初めて会った他人のような挨拶。その言葉がシンジの鼓膜を震わせ、脳裏にこびりつく。
「アスカ……何を考えているんだよ」
同じころアスカも、浴槽で手足を伸ばしていた。久し振りに感じる充足感。顔を見合わせた時のシンジの驚く顔が忘れられない。伸びをしていた両手の指を解き、右の拳を握りしめて、アスカは呟く。
「見てなさいよ、バカシンジ」
※
アスカの初レースから二週間後。二人は練習走行に来ていた。メカニックの北原エイジも同行している。アスカの姿が無いことを確認し、エイジはシンジに小声で問いかける。
「碇と惣流って、どういう関係なん?」
準備の終わったマシンに視線を落としながら、エイジは続けた。
「惣流の碇に対する態度って、訳アリとしか思えないんだよね」
シンジは暫しの逡巡の後に、視線を逸らして一言。
「色々あったんだ……昔」
戸惑いながら、その一言を紡ぎ出したシンジ。その様子に、エイジはそれ以上問うことをやめた。
走行開始の時間となり、二台は連なってコースインしていく。先を行くのはシンジ。その後をピタリと付けるのはアスカ。同じカラーリングの二台は、付かず離れずの間隔で周回を重ねる。
コーナーが迫る。カウリングに潜り込ませた体を一気に起こすとともに、外足でステップを踏みつけ、右手でブレーキレバーを握り込む。フロントサスペンションが一気に沈み、フロントタイヤが路面を掴む。左手でクラッチを握り左足でギアを落とす。フリーになっていた内側の足がステップに戻ると同時に体全体を大きく内側に入れ、マシンを一気に倒し込む。レーシングスーツの膝に備えられた樹脂製のパッドが特殊アスファルトの路面と擦れ、ゴーッと唸り声をあげる。肘のパッドが路面にチリチリと接触する。コーナーの出口を睨み、マシンへの前後左右の荷重を意識しながら、右手を大きく捻る。路面を蹴るリアタイヤは駆動力と横Gに耐え切れず、小さくスライドを起こす。ボディアクションでそれを往(い)なし、スロットルを全開にする。快音と共にメインストレートに戻ってくる二台。
「碇もそうだけど、惣流もすげぇな」
半ば呆れるように呟きながら、エイジはストップウォッチを押す。
「マジでライダー廃業して良かったよ。勝てる気がしねー」
そうしてラップチャートにタイムを記録するエイジ。シンジの練習走行の常として、ラップタイムはなかなか安定しなかった。そしてしばしば転倒する。
ガシャー! プラスチックがアスファルトと擦れる大きな音がした。シンジの走行から一瞬目を離し、ラップチャートを見ていたエイジは、反射的に音の方を確認する。案の定、転倒したシンジの姿がそこにあった。すぐに自分でマシンを起こしていた所を見ると、怪我はしていないようだ。ほどなくピットに帰ってくるシンジ。
戻ってきたマシンをエイジがチェックする。カウリングに傷が増えたこと以外は特に損傷はない。「問題なし、行けるぞ」というエイジの声に頷いて、シンジは再びマシンに跨った。
シンジはコースを確認し、ピットから出るタイミングを見計らう。少年の目は一台のマシンを捉えていた。そのマシンを追走できるタイミングでコースに入るシンジ。そして、そのマシン――アスカの背後に着く。当然ながら、アスカの走りを間近で見るのは初めてだ。まずはじっくりとその走りを確認するつもりだった。
最初の印象通り、アスカの走りはスムーズだった。無駄のない洗練された走り。ピンと張られた一本の糸をトレースするような、緊張感のある走りだった。
不意に、使徒殲滅のためのアスカとの特訓が脳裏をよぎる。
『六十二秒……か』
脳裏に浮かんだそれは、既に霞がかった映像でしかない。
背後にシンジが付いたことに、アスカは気づいた。走行の残り時間は少ない。あと三周できるかどうかといったところだろう。アスカはホームストレート走行時にピットを横目で確認すると、最後にレースモードの走りに切り替えた。細かいことは忘れ、目の前のコーナーを速く抜ける事だけに集中する。
アスカを追走し、第一コーナーにアプローチするシンジは、アスカの雰囲気が変わったことに気づいた。更に増した走りの鋭さと共に、背中からは倍増した緊張感が伝わってくる。引き寄せられるようにペースを上げるシンジ。一纏めにしたアスカの金髪が、白いヘルメットから覗いていた。
迫るコーナー。激しいブレーキングから鋭い倒し込み。膝のみならず肘までをアスファルトに擦りつけるかのように深くマシンを寝かし込み、リアタイヤを震わせてコーナーを立ち上がっていく二台。完全にレースモードの二人は、まるで見えない糸で繋がっているかのように見事にシンクロした走りを見せる。踊るかのような二人の走りは、三周後のチェッカーフラッグまで続いた。
エイジはピットに戻ってきたシンジを迎えると、マシンにスタンドを掛け、前後タイヤをチェックする。
「惣流はどうだった。最後は碇もマジで走ってただろ」
エイジはヘルメットを脱いだシンジに問い掛けた。
「うん……惣流、速いね」
シンジは伏し目がちに呟く。その声を漏れ聞いたアスカは、フンと鼻を鳴らして立ち去って行った。
今日のアスカは、前回のレースを上回る自己ベストタイムを記録していた。理由はハッキリしていた。シンジだ。シンジを追走したことは、アスカの経験値を大きく引き上げた。だがアスカにとって、それは屈辱ではなかった。アスカの目標はさらに先にあった。今はまだその時ではない。アスカはそう考えていた。それでも最後の三周には、アスカも充実感を覚えていた。背後から聞こえるエンジン音。その存在を背中に感じながら、無心に全力で走った三周。今の自分を見せつけるように走ったその三周。久しぶりの達成感を、アスカは味わっていた。
「次を見てなさいよ」
ベッドの上でアスカは呟く。久し振りに少女は、深い眠りに落ちていった。
※
アスカの初レースから一か月後。次のレースがやってきた。
ピットに並ぶ二台のマシン。出走の準備は完了している。エイジはマシンのセッティングに使用する工具類を準備していた。
次はアスカがエントリーする「SPシニア」クラス。前戦のフレッシュマンクラスで優勝したアスカは、クラスを一つ上げてエントリーしていた。アスカの予選は見事に一位。自己ベストも更新し、益々好調を維持していた。
レーシングスーツを着たアスカはヘルメットを被り、顎紐を締める。最後に両手にグローブを嵌め、両の拳を握りしめて独り言ちる。
「いくわよ、アスカ」
「惣流のヤツ、気合入ってんなぁ」
ピットアウトするアスカを見送り、エイジは感心した様子で誰ともなしに言う。シンジはそんなアスカの様子を、見つめるでもなく、目を逸らすわけでもなく、心ここにあらずといった様子で眺めていた。
スターティンググリッドに並ぶマシン群。ポールポジションに位置するのはアスカの白いマシン。
「さあ、シニアクラスのマシンが出揃いました!」
MCが軽快に告げる。
「ポールポジションは、注目のEプロ二台目! 隠し玉! 前戦で鮮烈なデビューを飾った、惣流・アスカ・ラングレー選手! 今回はシニアクラスにステップアップでいきなりのポールです!」
「惣流選手、レースに向けての意気込みを一言!」
向けられたマイクに向かい、ヘルメット越しにアスカは宣言する。
「このレースに勝って、次はエキスパートに出ます」
ヒューっと大げさに口笛を吹くMC。
「出ました! 勝利宣言! 惣流選手に期待しましょう!」
「二番グリッドは……」
「ははは、惣流のヤツ、流石だな」
エイジとアスカの担当メカニックの榊は苦笑交じりに顔を見合わせる。
「でも、そのくらいじゃなくっちゃな」
「な、碇!」
エイジの言葉に、シンジは曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
果たしてアスカは見事に独走優勝を飾り、次戦のエキスパートクラスへの参加資格を得た。対してシンジは、前戦に引き続いて今ひとつ調子が出ない。予選は二番手。決勝では予選一位の選手とトップ争いを繰り広げ、最終的には相手の転倒にてシンジの優勝となった。結果としてシンジらのチームEプロは、二クラスを制することとなった。
レースが終わり、帰路のこと。チームカラーのバンを運転するのはチーム監督。助手席にエイジ。後部座席にはシンジとアスカが座っていた。
「ところで碇や惣流は250には興味はないか」
暫く途切れていた会話から、突然に、チーム監督が口を開いた。
「にひゃくごじゅう?」
疑問形で返すシンジと、視線だけで反応するアスカ。
「そう、250。今乗っているミニバイクじゃなくて、フルサイズのマシンだな」
疑問を顔に浮かべるシンジに、エイジは振り返って問う。
「碇、もしかして知らないのか?」
黙って頷くシンジ。
「ありゃー、そうかぁ」
エイジは苦笑いをしながら、頭を振る。
「そりゃそうだよなぁ。ちょっと前までバイクなんか知らなかったもんなぁ」
シンジはあの河原での出来事を思い出す。それは随分昔のことに思えたが、それから、わずか半年ほどしか経っていなかった。
「碇たちがいま乗っているのは、100ccのミニバイク。250ってのは250ccのマシンで、もっと大きなサーキットでレースをやるんだ。250はMoto3ってクラスで、世界に通じるクラスなんだぜ!」
熱く語るエイジだったが、シンジにとって、世界と言われても全くピンと来なかった。アスカは表情を変えぬまま、それでもエイジの言葉を聞いているようだ。
「碇や惣流なら、250でもイケると思うんだ」
そう言いながら、エイジは拳を握りしめる。
「マシンもちょうど二台あるから、今度乗ってみないか」
助手席から身を乗り出すようにして、エイジは二人に訴えた。
「ま、エイジの言う通りだ。せっかくレースを始めたんだ。先を見るのも悪くない」
エイジの父でもあるチーム監督もそう続けた。
「250ですか……」
困惑している様子のシンジを横目に、突然アスカが口を開いた。
「それって、私も碇君と同じクラスを走れるんですか?」
「ああ、もちろん!」
エイジは更に身を乗り出し、アスカに向かって言った。
「Moto3は地方選手権っていう別のレースだから、碇も惣流も条件は同じだ」
コクリと頷くアスカ。アスカのその様子に、エイジも大きく頷く。
「オートバイは二台あるんですか?」
黙り込んでいたシンジが、思い立ったようにエイジに問う。
「うん、ま、いろいろあってね。使われてないまま、二台あるんだ」
エイジは少し言い辛そうに、言葉を濁す。暫くの沈黙の後、エイジの父が口を開いた。
「一台はエイジのマシン。もう一台は、エイジの姉のマシン、だった」
『お姉さん?』シンジとアスカは疑問符を浮かべたが、それを口に出すことは、親子の雰囲気から憚られた。
「別に隠すことじゃない。エイジには双子の姉がいたんだ。ついこの前までな」
意識してか、淡々と話すエイジの父。
「エイジと一緒にレースをやっていた。それが、例の災害でな」
「運が悪かったんだ」
黙っていたエイジが、ボソリと口を開いた。
「たまたまあの時、姉貴は第3新東京市にいたんだ。そしてニアサーに巻き込まれた」
エイジは前を向いたままに、平静を装うように言う。
「ま、よくある話だよ」
すでに過去のことのように言ったエイジだが、それがそのとおりではないことは、言葉の端々から痛いほどに感じ取れた。
「姉貴と俺が乗るはずのマシンだったけど、結局誰も乗らずに置いてあるんだ。せっかくあるのに、勿体ないだろ?」
硬い笑顔を浮かべて、エイジは二人を振り返った。
すぅっとシンジの血の気が引いていく。すべての色彩が消え、灰色になり、そして暗転していく。重すぎる罪。背負った業。それは少年がトリガーとなった、ニア・サードインパクト(ニアサー)。
シンジの呼吸は荒くなり、瞳孔が開く。顔を伏せ、押し黙るシンジ。その様子に気づいたアスカは、口元を歪める。
「ま、ちょっと考えておいてくれよ。さっきも言ったけど、乗り手がいないマシンも可哀想だからさ」
別れ際にエイジが二人にそう告げた。無言で頷くアスカと、うな垂れたままのシンジ。シンジの様子をやや怪訝に思うも、「惣流、碇をよろしくな」と言い残し、親子は去って行った。
顔を伏せたままのシンジは、そこから動こうとしなかった。苛立ちを覚えたアスカは、彼を置き去りにして階段を登る。
アスカの足が止まる。
「チッ……」
舌打ちをして振り返ると、シンジはそのまま立ち尽くしていた。その背中には生気が感じられない。
「……ったく」
苛立ちを足音にして途中まで登った階段を降り、アスカはシンジの背後まで歩んだ。
そのまま暫し、アスカはシンジの背中を睨みつける。
ドン。
アスカは無言で、背後からシンジの肩を突く。シンジはよろけて一歩を前に踏み出し、辛うじて転倒を免れた。
「アンタのことなんてどうでもいいけど、このままじゃ寝覚めが悪い」
そう吐き捨てたアスカは、シンジの手を取り、強引に引きずるようにして歩き出す。力任せに手を引いて階段を登り、無言で少年の部屋の前まで連れていった。
「これ以上は知らないからね」
アスカはそう言い残し、隣の自分の部屋へと消えていく。
「はぁ……」
玄関扉を背にし、重い溜息を吐いた少女。少女と少年の記憶が脳裏を駆け巡る。
突然、雷のような大きな音がした。外の階段の方だ。
反射的に飛び出したアスカが見たものは、階段の下でうつ伏せに倒れている、碇シンジの姿だった。
3.ねぇ
「シンジ!」
階段を駆け下りたアスカは、頭から倒れ込んでいるシンジの顔を覗き込む。意識は無い。しかし呼吸は有るようだ。大声で名前を呼びながら肩を軽く叩くが、反応は無い。アスカの脳裏に緊急マニュアルが浮かんだ。まずは携帯電話で救急車を呼んだ。次に首に手を当てて脈拍があることを確認。呼吸を確保するために、うつ伏せに倒れ込んでいたシンジを慎重に仰向けに寝かし直し、首の下に自らの上着を詰めて気道を確保した。続いて首に手を当て、脈拍数をカウントする。アスカができるのはここまでだった。救急車が来るまでの間、少女は声を掛けながらシンジの様子を注視し続けた。
ほどなくして救急車が到着する。救急隊員がストレッチャーにシンジを乗せ、アスカを車内に促す。救急隊員により状態のヒアリングを受けたアスカは、発見状況、意識や呼吸の有無、脈拍などを隊員に告げる。隊員はその情報を電話で連絡し、本部の指示を受けて、アスカを乗せたまま、出発した。
病院での診察結果は悪くなかった。多少の外傷以外には骨折もなく、脳波もCTの結果も異常は無かった。しかし、シンジの意識は戻らない。医師の説明では、精密検査でも異常はないので、今は安静にして見守るしかないとのことであった。
一晩を病院で過ごしたアスカは、看護師に促されて帰宅した。アスカは一晩中、自責の念に駆られていた。あの状態のシンジをなぜ自分は放置してしまったのか。なぜもっと注意を払わなかったのか。あんなヤツがどうなろうが知ったことではないとも呟くが、複雑に絡み合う少女の想いは、簡単には割り切れなかった。
「一応、連絡しておかなくちゃ」
アスカは気乗りがしない様子で、携帯電話を取り出す。
「アスカ、どうしたの」
声の主は、伊吹マヤだった。顛末を簡潔に話すアスカ。レースについては触れなかった。必要が無いと思ったからでもあり、既に知られているだろうと思ったからでもあり。
「ありがとう、アスカ。病院に連絡してみるから」
用件のみを伝え、通話を終える。そうしてベッドに倒れ込むアスカ。枕に顔を埋めて深く溜息を吐く。
「参った……」
それから三日間、アスカは連日病院に出向いた。シンジの様子は変わらず、意識は戻らない。あの時、黒い影の使徒に取り込まれた初号機と碇シンジのことを、アスカは思い出さずにいられなかった。そして、紅い瞳の少女の事も。
四日目に出向いた時、シンジはそこにいなかった。転院した、と告げられるアスカ。転院先を問うも、個人情報という事で教えては貰えなかった。そこで改めてアスカは気づく。自分とシンジは全くの他人なのだという事を。
そうは言っても、アスカにはシンジの転院先は想像がついていた。間違いなくWILLEだ。伊吹マヤの差配に違いない。心配は無いと思いつつも、心残りを覚えずにいられなかった。これで余計な心配をせずに済む。アスカはそう思い込もうとする。
「ま、そのうち帰ってくるでしょ」
隣のシンジの部屋が、今のままである限りは。アスカは自分に、そう言い聞かせるしかなかった。
しかし翌週になっても、その次の週になっても、シンジは帰ってこなかった。日課の早朝ランニングを終えたアスカは、今日もシンジの部屋を横目に自室に戻る。シャワーを浴びたアスカは、ベッドの上に放り出されている携帯電話に目を遣った。この二週間、何度となく電話を手にしたが、発信はできていない。
翌週には次のレースが迫っていた。
※
翌週。シンジは帰ってこなかった。Eプロではアスカとシンジの二人でエキスパートクラスにエントリーする予定であったが、アスカはひとりで参戦することとなった。シンジ不在の間もトレーニングや練習は欠かさなかったアスカだが、タイムは伸びず、初挑戦のエキスパートクラスでは四位に終わり、表彰台を逃した。
終始、重いムードのEプロチーム。アスカが自宅へ送り届けて貰っている間も、車内にはラジオの音が流れるだけだった。
その夜。アスカの携帯電話が鳴った。放置されていたそれをひったくるように手にすると、発信者は案の定、伊吹マヤであった。
「良く聞いて、アスカ。明日、WILLEに来てちょうだい。シンジ君の件で頼みがあるの」
やはり、と思ったアスカ。様々な疑問が頭に浮かぶが、今それを聞いても仕方がない、明日は問い詰めてやろう。そう決めたアスカは、マヤの要請に応じることにした。
「なによこれ……どうなってんのよ!」
WILLEに到着したアスカを待っていたのは、あのころの赤木リツコのように白衣を羽織った伊吹マヤ。そしてプラグスーツを身に纏い、巨大な試験管のようなLCLが満たされたガラスの筒の中に漂う、碇シンジの姿であった。
「アスカ、落ち着いて聞いて。シンジ君がWILLEに来てから、私たちも最善を尽くしたの。あなたも知ってのとおり、シンジ君には特に異常は無かった。本来なら目覚める筈なの。でも目覚めない。WILLEでもこの三週間、できる限りの事はしたの」
「その結果……」
マヤは一呼吸おいて、続ける。
「シンジ君は、自分で意識を閉じているとしか思えない」
その言葉に、アスカは軽く眩暈を覚えた。あの一件だ。それしか考えられない。
「ここからが本題」
「アスカに、シンジ君を連れ帰ってもらいたいの」
ガラス管の中に浮かぶシンジに視線をやり、マヤは続けた。
「アスカにしか、できない事なの」
『なんでわたしが』と憎まれ口を叩きそうになったアスカだが、マヤの視線の先にあるガラス管の中のシンジの姿を目にし、その言葉を飲み込む。
「わかった。どうすればいいの」
代わりに口から出たその言葉は、少女の責任感からくるものなのだろうか。
「まさかまた、これを着ることになるとはね」
赤いプラグスーツを片手に持ち上げ、アスカは思わず呟いた。着衣を脱ぎ、それに身を通す。手首のスイッチを触ると、スーツが体を締め付けた。懐かしい感触に包まれつつ、マヤの説明を思い返す。
脳波レベルでシンジの脳に外部から干渉、具体的には電気信号を与えること。
エヴァのシンクロ技術の応用だということ。
よってエヴァにシンクロできたアスカにしかできないこと。
最後に、赤いヘッドセットを頭に付けた。
更衣室を出、再びマヤの元に向かう。そうして、ガラス管の中のシンジを見る。無表情にLCLの中を漂う少年。
「それでは、始めるわよ、アスカ」
マヤに促され、シンジの隣のガラス管の背後に回るアスカ。ガラス管の円周の三分の一程が扉状に開かれ、アスカを待っていた。潜るようにしてその中に身を沈めるアスカ。
「閉めるわよ」
アスカが頷くのを見て、マヤは扉を閉め、気密チェックを行う。
「LCL注入、いいわね」
今度もアスカは無言で頷く。
「LCL注入、開始」
マヤのその声とともに、足元から琥珀色の液体が注がれ、足首からふくらはぎ、太もも、腰、胸、首、そして顔と、アスカの体をLCLが満たしていく。
「またLCLか」
あまり気持ちの良いものではないが、琥珀色のその液体には、懐かしささえ感じていた。
「いい、アスカ。復唱するわよ」
マヤの声が響く。
「プラグに映る映像はイメージです。あなたは気にせず、シンジ君に呼びかける事だけを考えて」
「いいわね、アスカ」
軽い既視感を覚えながら、アスカは再び無言で頷いた。
「シンクロ、スタート」
アスカの眼前には、プラグスーツを着た碇シンジが映し出された。これがイメージなんだろうか。アスカは目を閉じ、碇シンジの名前を呼ぶ。
「バカシンジ、どこにいるの」
「アスカ、ここまでにしましょう」
目を閉じて少年の名前を呼び続けたアスカは、マヤのその声に目を開く。
「まだやれるわ」
「いえ、アスカの脳波が乱れてきたの。疲れが見えるわね。これ以上やっても効果は望めないから、また明日にしましょう」
『まだやれるのに』
チッと小さく舌打ちをするアスカ。そうは言っても、空を掴むような今日の加療に、限界を感じていたことも事実だった。
『また明日か』
明日までに何ができるか? アスカは自らに問う。
翌日も、思わしい結果にはならなかった。初日より長時間に渡って加療を行ったが、碇シンジからの反応は無かった。流石に疲労感を感じるアスカ。何をどうすればよいのか、それが掴めない。ひたすらに碇シンジの名前を呼び続けるだけであり、さしものアスカの集中力にも限界が訪れる。
三日目。同じように赤いプラグスーツを身に付け、LCLに沈むアスカ。
アスカは、昨晩考え抜いたアイディアを試みる。それは、少女と碇シンジの物語を、最初からトレースすることだった。
最初の出会いは空母の上だった。
自分の才能を見せつけたくて、一緒に弐号機に乗せた。
使徒殲滅のために、六十二秒のユニゾンの特訓をした。
修学旅行に行けず、プールで泳いだ。
火口で死を意識したとき、決死のシンジに助けられた。
電源を落とされたジオフロント内を、ネルフ本部までシンジとファーストと共に向かった。
ミサトやファースト、そしてシンジと一緒にラーメンを食べた。
初めてのキス。当て付けのキス。後悔だけのキス。
シンジにシンクロ率で抜かれた日。
黒い闇に取り込まれたシンジ。
そこから還ってきたシンジ。
顔を見るとイライラするしかなかったあのころ。
追い詰められていった自分。このころから記憶が途切れがちになり、次に目覚めた時は、すべてが終わったベッドの上だった。
そして再会。アイツは誤魔化すような笑顔を見せた。それが癇に障り、それから空気として扱おうと決めた。しかしそれはできなかった。アイツのレースでの活躍を知って、苛立った。自分の知らない世界で活躍するアイツを知って、足元がグラつく気がした。許せなかった。だから、わたしもレースを始めた。同じステージでアイツを負かしたかった。
それは易しいことではなかった。アイツの出したタイムとわたしのタイムを比べて、最初は愕然とした。思えばアイツはいつもそうだ。大した努力もせずに、易々とわたしを超えていく。わたしはそれが許せなかった。だから努力した。こんなことは言いたくないけれど。
そしてようやく同じステージで戦える筈だったのに。その筈だったのに。
「何やってんのよ、バカシンジ!」
突然、アスカの視界がブラックアウトした。次には目の前に、うずくまる碇シンジの姿が浮かび上がる。
「パルスシンクロ。二人の脳波が同調していきます」
端末のモニターを凝視していたオペレーターが声のトーンを上げる。マヤは小さく頷いた。
アスカの眼前の学生服を着たシンジは、顔を伏せ、膝を抱えて座り込んでいる。アスカの姿には気づいていないようだ。舌打ちをするアスカ。プラグスーツの足音を立て、一歩、二歩とシンジのもとに歩み寄る。
シンジを見下ろすアスカ。うわ言のような声がする。それを耳にしたアスカの苛立ちはさらに高まり、『フン』と右足の裏でシンジの右肩を踏みつけるように蹴り倒す。崩れ落ち、力なく横たわるシンジ。それでもうわ言は止まらない。
「……して。……ろして。……ころして。……殺して」
アスカの碧眼に、暗い影が宿る。
「そんなに言うなら、お望みどおりにしてあげる」
右手を高く上げるアスカ。そこに現れたのは、柄は螺旋を描き、先端が二股に分かれた、一本の槍。
「神殺しの槍よ。アンタにはもったいないくらいね」
アスカは右手で槍を握り、左手でそれを支えた。半身に構え、二股の先端は、シンジの額と喉を狙う。
「馴染みの慈悲よ。有り難く思いなさい」
シンジの反応は無い。横向きに倒れたままに、同じ言葉を繰り返すだけだ。
アスカは右手の槍を握りしめる。槍は身を捩るようにその姿を変え、二股の先端はひとつに纏まった。アスカは、槍を大きく振り上げた。槍の重さを感じる。右腕に力が籠る。
数刻。
その槍が振り下ろされることは、ついになかった。
「アンタなんか、殺してあげない」
霧のように消える槍。
「アンタはいつも勝手よ」
「自分ひとりですべてを背負い込んだ顔をしてる」
「何様だと思ってんのよ」
「気に入らない」
「だから、わたしはアンタに勝つ」
「アンタに勝たないと、わたしは始まらない」
「だから、今のアンタが赦せない」
「逃げるアンタが、赦せない」
「アンタなんか、殺してあげない」
「アンタは、どうしたいの」
シンジの姿に変化はない。しかし、繰り言が止まったように見えた。
アスカは踵を返し、シンジの元から立ち去る。
横たわる学生服の碇シンジの姿は消えた。アスカの視界は再びブラックアウトし、現に戻ってきた。ガラス管の内面に映し出される、プラグスーツを着た碇シンジの姿を確認するアスカ。
「加療終了、アスカ、ここまでにしましょう」
マヤの声が聞こえた。体中の力が抜け、思わず口から吐いて出た。
「バカシンジに、逢ってきた」
その瞬間。
「サードチルドレンの脳波に変化あり!活性化します!」
アスカの眼前に映し出された碇シンジの顔が、一瞬こわばり、そして次第に瞳の光が戻ってくる。
「シンジ君!? わかる? シンジ君!」
呼びかけるマヤの声に、ゆっくりと答えるシンジ。
「はい……ここはどこですか」
碇シンジは、夢を見ていた。
少女と初めて会ったときのこと。あれは空母の上だった。
少女と一緒に弐号機に乗ったこと。あのときは無我夢中だった。
少女とユニゾンの特訓をしたこと。大変だったけど少女のことが少しわかった気がした。
少女の水着姿。あれは、眩しすぎた。
少女を助けに火口に飛び込んだこと。あのときは何も考えずに体が動いた。
少女に借りを返して貰ったこと。あのときは、協力出来て嬉しかった。
少女と一緒にラーメンを食べたこと。あのとき初めて、自分の心を少女に明かした。
少女とキスをしたときのこと。ただ、気まずさと罪悪感だけが残った。
少女をシンクロ率で抜いたときのこと。少女の気持ちも考えずに浮かれて、バカをやった。
黒い闇から還ってきたときのこと。病室の前で待っていた少女が嬉しかった。
少女との関係が悪化していったころ。どうしたらよいかわからず、ビクビクしていた。
第十四使徒との戦い。心を汚されて膝を抱える少女を前にして、たった一歩が踏み出せなかった。
少女が消えてしまったとき。探そうとさえ、しなかった。
少女が一人で戦っていたとき。ただ、うずくまっていただけだった。
喰い散らかされた弐号機を見たとき。ただ叫ぶことしかできなかった。
少女と再会したとき。どんな顔をすればよいのかわからなかった。
少女に無視され続けて、腹を立てる事すらしなかった。
サーキットで少女と再会したとき。驚き、戸惑うしかなかった。
少女と一緒に走ったとき。得も言われぬ充実感を感じた。
少女の声が聞こえた気がした。惣流・アスカ・ラングレーの声が。
『アンタは、どうしたいの』
もう一度、顔を見てみたいと思った。
『シンジ君!?』
懐かしい声が聞こえた。懐かしい匂いがした。少年は、プラグスーツを着て、LCLの中で漂う自分を見つけた。
『わかる? シンジ君!』
問い掛ける声に応える。
「はい……ここはどこですか」
4.If you wanna
WILLEにおける二週間のリハビリの後、シンジは退院した。
「おー、碇! 大丈夫か!」
一月半ぶりに顔を合わせたエイジは、大きな口を開けて笑いながら、シンジの肩を大げさに叩いた。
「い、痛いよ」
苦笑いしながら、思わず口に出すシンジ。
「あ、ごめんごめん。病み上がりだったよな。で、もういいのか?」
うん、とシンジは頷く。
「よし、じゃ、今日はリハビリ走行だ。タイムは気にせず、楽しんでこいよ」
久し振りのレーシングスーツ。久し振りのヘルメット。久し振りのオートバイ。コースインしたシンジは、その音と、振動と、スピードと、自由を味わっていた。
ブレーキングからターンイン。膝を路面に擦る感触。『還ってきた』シンジはそう感じていた。
背後から気配を感じた。コーナー入り口で、シンジのマシンの内側へ鋭く切り込む一台の白いマシン。ライダーのヘルメットからは金髪が覗く。シンジは反射的にスロットルを開け、ペースを上げた。目の前の白い――アスカのマシンを追走する。しかしその差は詰まらない。それどころか徐々に間隔が開く。そして数周の後には、完全に引き離されてしまった。シンジのマシンのラップタイマーは、ベストタイムのおよそコンマ五秒落ちを示していた。決して悪いわけではない。しかしアスカは、それ以上のペースで走る。
走行を終え、二台のマシンがほぼ同時にピットに戻ってきた。マシンを降り、グローブを外し、ヘルメットを脱ぐ二人。二人は各々のメカニックと走行後のディスカッションを始める。
「久し振りにしては上等だよ、碇。気になる所はないか?」
ラップチャートを片手にシンジに応対するエイジ。シンジは汗を拭いながら、ふと隣を見遣る。同じようにメカニックと打ち合わせをしているアスカの姿が目に入った。汗をタオルで拭いながら、ペットボトルを口にしようとしていた。
シンジの視線に気づいたのだろうか。シンジの方を横目で見たアスカの視線は、一瞬、シンジと交わった。その目元が、不敵に笑ったように見えた。
「ありがとうございました」
「お疲れ様でした」
いつものように、アパートまで送り届けて貰った二人。
「碇! 階段には気を付けろよ!」
「うん、気を付ける」
お道化た調子で笑うエイジに、シンジは神妙な面持ちで答える。それがまた、エイジの笑いを誘う。
「じゃ、またな」
いつものようにエイジと彼の父親が乗るバンを見送った二人。アスカはその視線を、去りゆくバンから一歩前にいるシンジに移す。振り返るシンジ。シンジとアスカの視線が、長い時を経て、正面から初めて交錯した。
アスカはシンジの顔をまっすぐに見た。シンジの目を見据え、アスカは不敵な表情で宣言する。
「もう、わたしの方が速いから」
目を合わせてそう言い切るアスカ。シンジの瞳に苛立ちの色が僅かに浮かんだ。それを見逃さず、アスカは畳みかける。
「アンタが余計なことを考えて、余計なことをしている間に、わたしはアンタより速くなった。アンタを叩きのめして、レースなんか辞めてやる」
いつになく上気するアスカ。
「もっと上のステージで勝負しようと思ったけど、その必要もないわね。次のレースでアンタに勝って、わたしはレースを辞めてやるわ」
一気に言い放つと、少女は少年の目を睨みつける。
「……相変わらず、アスカは勝手だね」
シンジはアスカから視線を外し、独り言のように言葉にする。
「アスカはいつもそうだ。ひとりで騒いで、ひとりで怒って」
顔を伏せたシンジの表情は、アスカには窺い知れなかった。しかし見えない彼の表情に憤怒の念が浮かんでいることは、その声と態度からも、容易に推測出来た。
「本当に勝手だよ」
しかし、次の一言は少女の想定外であった。
「それに、ホントに自分が僕より速いと思っているの?」
一瞬、アスカは目を丸くした。そして、ハハンと鼻に掛けた笑い声を立てる。
「面白いこと言うわね。なら勝負しましょうか」
「勝負?」
シンジは顔を上げ、眉間にしわを寄せてアスカを見る。
「そ、勝負。今度のレースでもし、アンタがわたしに勝ったら、この先何十年でもアンタのいうことを聞いてあげるわ」
アスカはキッとシンジを睨みつける。
「その代わりわたしが勝ったら、アンタのその顔を二度とわたしの前に見せないで!」
息せき切って、アスカはシンジに積もった想いを吐き出した。
シンジは顔を上げ、アスカの目を正視する。
「わかった。そうしよう」
アスカは口元を歪めて笑った。
「これで清々するわ」
※
『アンタは、どうしたいの』
エイジの姉の話を聞いて自責の念に苛まれ、再び自らの殻に閉じこもったシンジが、その声に導かれ、呪縛の闇から還ってきたとき。真っ暗だった眼の前に少しずつ色が戻ってきたとき。脳裏に蘇ったのはやはり、車内での北原親子の会話だった。ニア・サードインパクト。それによりエイジの姉が亡くなったという事実だった。
シンジのニア・サードインパクトの記憶は、すべてが溶け合ったLCLの海と、紅い海の白い砂浜で傍らにいた、紅いプラグスーツの一人の少女だった。両の手に残る少女の首筋の感触と、左頬を滑った少女の右手。シンジは、少女――惣流・アスカ・ラングレーの上に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。そこで、シンジの記憶は途切れている。今のシンジが知っているのは、爆心地にエヴァンゲリオン初号機がいたことと、そこから生還したのは碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの二人だけであること、それだけだ。だが、自分の業を覚えるには、それで十分だった。
『運が悪かったんだ』
その言葉が甦り、そしてシンジを闇が再び覆おうとする。目の前がグラグラと回り始める。目の焦点が外れる。
『アンタは、どうしたいの』
その声が聞こえた気がした。色彩を失いかけていた瞳に光が戻る。視界が蘇る。
『アンタは、どうしたいの』
その声に、少年は何を想ったのか。
レースで勝利した時のチームメイトの喜ぶ顔が、シンジの脳裏をかすめた。喜ぶ顔、驚く顔、心配する顔。喜怒哀楽がそこにあった。
シンジが強く思い浮かべたのは、皆の笑顔。
『そうか……』
一月半ぶりにエイジらと再会したときの、強張ったシンジの笑顔。それは、彼らとの他愛のない会話の中で、少しずつ解れていった。心の闇が消えたわけではないが、彼らの笑顔はそれを救った。
だから、アスカの言葉が許せなかった。『レースなんか』と吐き捨てたアスカの言葉が。
「僕は、負けない」
次のレースは、二週間後。
※
その空は、澄み渡る青だった。午前八時時点で既に、気温は三十度を超えていた。風は凪ぎ、気温は益々上がりそうだ。
「こりゃ、タイヤも考えないとなぁ」
エイジは空を眺め、アスファルトの熱を手で確かめながら呟いた。
Eプロのピットは、得も言われぬ緊張感に包まれていた。二人のライダーの間には、目に見えない分厚い壁が立ちはだかっているようだ。決して視線を合わせない二人。練習走行の時も、互いに走りを見せることは無かった。
「意識してんなぁ」
二人の走りをサインエリアから見ていたエイジは、苦笑交じりに呟く。
「ま、碇にとっては悪いことじゃないな」
今までのシンジには見られなかったその態度に、エイジは頼もしささえ感じていた。ピリピリするような闘争心。それは今までの少年には無かったものだ。二人の心境とは裏腹に、周囲は二人を頼もしく見ていた。
午前十時。十五分間のタイムアタック形式の予選が始まる。いの一番にコースに飛び出していくのは、ゼッケン23を付けた惣流・アスカ・ラングレー。対してゼッケン4の碇シンジは、集団を避けるようにやや遅れてコースインする。
前方に誰もいないコースを、切れ味鋭い走りで疾走するアスカ。その走りはあたかも、剃刀の上を歩くかのような緊張感に満ちていた。寸分の狂いも無く同じラインをトレースし、着実にペースを上げていく。六周後に自らのベストタイムをコンマ3秒短縮し、アスカはピットに戻ってくる。
「よし、惣流、いい感じだぞ!」アスカのメカニックがラップチャートを見せながらアスカに問う。
「これで切り上げて決勝にタイヤを温存するか?」
アスカはコースを睨み、落ち着いた声で告げた。
「いえ、走る準備はしておいてください。碇君のタイムを教えて下さい」
いつでも走り出せる状態のマシンに跨ったまま、アスカはシンジの走りを凝視する。
アスカとは対照的に、シンジの走りは荒々しかった。乱暴と言ってもいい。走行ラインも毎周微妙に異なり、ブレーキングも激しく、タイヤを滑らせるロスも大きい。だが、マシンは暴れているように見えても、不思議なほどにライダーの動きは落ち着いている。身体の下で暴れるマシンを楽しんでいるようだ。シンジは前方のマシンを一台、また一台と交わしながら、タイムを更新していく。
予選残り時間、三分。シンジがアスカのタイムを上回った。その差、百分の四秒。
「惣流!」とメカニックの榊は叫ぶや否や、前後タイヤに巻かれたタイヤウォーマーを勢いよく外した。待ってましたとばかりに、アスカはコースに飛び出していく。残り時間は二分と少し。先程と異なり、コース上には遅いマシンが点在していた。右へ左へと交わしながら、アスカはタイムアタックを開始する。
『まったく、生意気な口を叩くだけのことはあるわね』
アスカは相対したあのときのシンジの顔を思い出し、薄笑いを口角に浮かべる。
『喧嘩上等!』
アスカは渾身のラストアタックを敢行する。
時計が十五分を刻んだ。最終コーナーを立ち上がるアスカは、限界まで身を縮めてカウリングに潜り込み、スロットルを振り絞ってチェッカーを受けた。
果たしてアスカは、自らのタイムを百分の六秒更新した。つまりシンジのタイムを百分の二秒上回り、見事ポールポジションを獲得した。
「お疲れ! やったな惣流!」
親ほどの年齢の榊が、顔をメチャクチャに崩してアスカを出迎えた。その様に逆に戸惑いを覚えつつも、榊と握手を交わし、モニターに映る自らのタイムを確認する。間違いなくトップタイムだ。ヘルメットの中で大汗を流しながら、アスカは、よし、と右手を握りしめた。
アスカより先にチェッカーを受けてピットに戻っていたシンジは、ヘルメットも取らず、流れる汗もそのままに、モニターの数字とアスカのその様を、じっと見つめていた。
「惜しかったな、碇。惣流の根性が一歩上だったかもな」
エイジはシンジの肩を叩きながら続ける。
「決勝は頼むぜ」
ジリジリと日差しが降り注ぎ、気温は四十度に近づいていた。アスファルトは太陽光を吸収し、その温度は五十度を超えている。一欠片の雲が空に浮かぶも、それは気休めにもならなかった。午後二時半の決勝スタートまで、あと四十分。
アスカはピットの隅に腰を下ろしていた。目を閉じ、一見居眠りでもしているかのようだ。だがよく見ると、手や足が小さく不規則に動いている。時折肩も左右に揺れる。アスカは、頭の中でサーキットを走り続けていた。碇シンジに勝つイメージを描き続ける。レース直前まで。
「碇、ちょっといいか」
シンジのマシンを整備していたエイジが、シンジを呼び寄せた。アスカのマシンに背を向けて、額を寄せて小声でエイジは言う。
「うん、わかった。任せるよ」
シンジは表情を引き締め、エイジに頷く。エイジはマシンに取り付き、前後のホイールを外し始めた。
午後二時。レーシングスーツを纏った二人のライダーは、ピットの奥でキャンピングチェアに身を預け、静かに出走の時を待っていた。アスカは目を閉じて、イメージトレーニングを続けているようだ。対してシンジは、イヤホンから流れる音楽に身を委ねている。
ピットの奥から、両手に前後のホイールを抱えたエイジが姿を現した。ホイールが外された状態で待機していたシンジのマシンに、エイジはそれを組み付ける。
午後二時二十五分。スタート進行が始まる。二人のメカニックがそれぞれのマシンを手にし、二人のライダーを待つ。二人のライダーはそれぞれのマシンに跨り、エンジンを始動し、コースインしていった。
灼熱のアスファルトの上、ユラユラと蜃気楼が踊る中、二十四台のマシンが揃った。ポールポジションはゼッケン23のアスカ。二番手はゼッケン4のシンジ。この二台のタイムは抜きん出ており、順当に行けばこの二台の争いになることは、誰の目にも明らかであった。
スタート一分前。エンジンを始動し、メカニック達は退場する。グリッドには、二十四台のマシンと、二十四人のライダーが残された。
ウォーミングアップラップ開始。コースコンディションの確認と、マシンとタイヤのウォーミングアップのため、全車コースを一周し、また自らのグリッドに戻ってきた。グリーンフラッグを持ったオフィシャルが退場する。
前方の信号機に赤ランプが灯り、数秒後、消えた。
全車スタート!
アスカは絶妙なスタートを見せ、ホールショットを奪う。続いてシンジ。二台は連なったまま、付かず離れずの周回を重ね、二十周先のチェッカーフラッグを真っ先に受けるべく走る。
シンジはアスカの背後にピタリと付け、その走りを窺う。鋭さを増したアスカの走りは、予選に匹敵するタイムを重ねる。そのまま四周が経過した。
規則により予選と決勝では同じタイヤを使わなくてはいけないため、レース終盤の勝負に向けて、タイヤを温存する必要があった。加えて空からは容赦のない日差しが降り注ぎ、路面温度は六十度を超えていた。限界を超えたマシンとライダーが、一台、また一台と戦線を去っていく。それはアスカやシンジも同じだった。レース序盤のハイペースからややタイムを落とし、それでも後続を引き離すハイペースで二台は周回を重ねる。
十一周目、シンジが動いた。ハイスピードの右コーナー入り口で、アスカのインを刺す。トップが入れ替わった。揺さぶりをかけるように、シンジはペースを上げる。
アスカは冷静にシンジを追走し始めた。ややペースを上げたシンジの走りにも遅れることはない。逆に体重の差分だけ、加速やトップスピードにはアスカに若干の優位性がある。そのことを確認するアスカ。レース終盤に向けて、展開を組み立てる。
十四周目の最終コーナー。アスカは限界までマシンを寝かしながら、シンジの後輪に当たらんばかりに接近し、コーナーを立ち上がっていく。メインストレートをシンジのマシンに潜り込むように張り付き、第一コーナー直前でシンジのインに躍り出る。見事な追い抜きを見せ、アスカはトップを奪還した。そのまま逃げに入る。
アスカの追い抜きを、シンジは予期していた。インを押さえようとシンジは動いたが、アスカのパッシングは見事だった。残り五周。明らかにアスカは逃げに入った。逃がすまじとシンジは追う。レーススタートから続く二台の走りは、終盤に来て更に激しさを増していた。シンジは、アスカは、接触するかと見間違うほどに連なりながら走った。この二人ならではの走りだった。
十六周目のハイスピード右コーナー。先程と同じコーナーでシンジはアスカのインを突く。それを読んでいたアスカは、シンジの狙ったラインに自分のマシンを被せ、トップを死守する。
『タイヤのグリップが落ちてきた』
前後とも踏ん張りが効かなくなり、無理ができない状態になりつつあることを、アスカは把握していた。しかしそれはシンジとて同じはず。このまま死守すれば勝てる。アスカは全力で逃げる。
その先の最終コーナーもアスカは先頭で侵入していく。最終コーナーからメインストレートは、体重差も有り、アスカにアドバンテージが有る。そのことを理解しているアスカは、それを活かすレースの組み立てをしていた。
十八周目の第一コーナー。アスカのイン側に、シンジのマシンが現れた。全く予測していなかったわけではないが、確度は低いと踏んでいたアスカ。それでも限界のブレーキングでシンジを押さえようとする。しかしシンジは、その更に内側を攻める。ガシャン、と音を立ててカウリング同士が軽く接触した。
強引にアスカのインを突くシンジ。アスカには、シンジのフロントタイヤが限界を超えたように見えた。しかしシンジは見事に立て直し、アスカを抜いてトップに立つ。
チッと舌打ちをするアスカ。しかしアスカは冷静だった。コース後半からチェッカーラインまでは、自分にアドバンテージが有る。その前のどこかで、多少無理してでも抜いてしまえばいい。今のシンジのように。さて、どこでいこうか? タイヤのグリップは相当に落ちており、無理はできない。それを労りながらペースを死守しようとするアスカだが、逆に、シンジとの差は広がり始める。
どうして!? と焦りを感じるアスカ。アイツのタイヤはグリップしているのか、わたしのタイヤは限界なのに。
最終ラップ。シンジとアスカの差はコンマ五秒ほどに開いていた。ジワジワと開いた差。最終ラップ。それらはアスカの焦りを呼び、アスカのヘアピンコーナー立ち上がりでのスロットルを開けるタイミングを、僅かに早めた。アスカのマシンのリアタイヤは、耐えきれずに大きくスライドを起こす。
『ヤバッ!』
コンマ一秒にも満たない僅かな時間のミス。それによりアスカのマシンは大きく振られる。アスカの体は一瞬、宙に浮いた。暴れるマシンを両手で抑え込み、浮き上がった身体をマシンに引き寄せて、アスカは何とか転倒を免れた。だが、シンジとの差は大きく開く。MCが絶叫でシンジを迎える。
「最終コーナーをトップで立ち上がったのは! ゼッケン4! 碇選手!」
「碇選手! 優勝です!」
ピットに二台のマシンが戻ってきた。まずはゼッケン4。続いてゼッケン23。見事なワンツーフィニッシュ。ピットは祝福の拍手で満たされた。
「やったな! 碇!」
エイジに乱暴に祝福されるシンジ。
「北原くんのお陰だよ」
ヘルメットを取る間も惜しむように、シンジはエイジに感謝を伝える。
「タイヤのお陰だよ、本当に」
その言葉を聞いたアスカは、シンジのマシンのタイヤを思わず注視。そしてそこに違和感を見つける。
「パターンが逆……」
アスカの呟きを耳にしたエイジは、胸を張った。
「いやぁ、この暑さだろ? タイヤが絶対にキツくなると思って、逆履きにしたんだ」
「ぎゃくばき?」
聞き慣れない言葉を、アスカは問う。
「そう。ここって右回りだろ? だからタイヤの右側が摩耗しやすいんだけど、左側はそうでもない。だから決勝前にタイヤを逆に履かせて左右を入れ替えたんだ」
「当然、ちょっとフィーリングが変わって乗りにくくなるし、タイヤウォーマーを掛ける時間も減るんだけど、碇ならグリップさえあれば大丈夫かなって」
「な、碇!」
エイジはシンジと肩を組んでガッツポーズを見せる。
『そうか、だからシンジのタイヤは……』
アスカの脳裏には、じわじわとアスカを引き離していく、シンジのマシンが映し出された。
『負けた』
改めてアスカは実感する。自分は負けたのだ。シンジと、エイジに。笑い合う二人の様子を眺めながら、アスカは敗北を噛みしめる。
帰路のバンの中で、エイジは未だ興奮冷めやらぬ雰囲気だった。アスカを気遣いながらも、いかにレースが盛り上がったかを熱く語っていた。
「ところで250はどうする」
エイジの父親でありチーム監督の北原が、運転席からエイジを制するようにして口に出した。
「乗ってみるか」
その問いに、シンジは小さく頷く。
「僕でよければ、乗ってみます」
シンジの隣でいつもの座席に座っていたアスカは、ピクリと眉尻を上げる。
「そうか! 乗るか! いやー俺も楽しみだ!」
エイジは興奮気味に身を乗り出して振り向き、後部座席の二人を見た。
「惣流も乗るんだろ!?」
アスカはエイジの目を見て、しっかりと頷いた。
「よーし、チームEプロでMoto3に殴り込みだ!」エイジは拳を握り締めてガッツポーズを見せる。
エイジの興奮を後ろから見ていたシンジ。不安と希望がない交ぜになるような、心がざわつく感覚を覚えていた。シンジは、誰に強いられたわけでもない、自らの決断を改めて確認する。
バンは街中に入った。太陽はとうに落ちていたが、街中は明かりに照らされ、街行く人の表情までよく見えた。
『えっ!?』
突然、シンジは一人の人物に目を奪われた。シンジと同じ年頃に見えたその少女。フードを目深に被り、俯き加減に歩いていた少女。その背格好。
『綾波!?』
だがその姿は、あっという間に過ぎ去った。声することもできず、少女の消えた先を見つめる少年。
「碇、どうした?」
気づくと、振り返ったエイジが不思議そうな表情でシンジを見ている。アスカは前を見たまま、それでも横目でチラリとシンジを確認する。
「あ、なんでもないよ。知り合いがいた気がして」
シンジは慌てて否定する。
納得したようなしていないような様子で、ふーんと曖昧に返すエイジ。アスカは再び、横目でシンジを見遣った。
ほどなくして、バンは二人のアパートに到着した。改めて礼を言う少年と少女。バンを見送った後、アスカはシンジに向き直る。
「アンタの勝ちね」
悔しさを隠さず、シンジの顔を正面から睨みつけるようにして、アスカは続けた。
「約束。アンタの望みはなに」
シンジは眉を寄せ、伏目がちに口籠る。
「でも、僕だけの力で勝ったわけじゃないし……」
「それ! それよ!」
急にアスカは、シンジを睨んでいたその目を見開いて叫んだ。
「アンタのそれが気に入らない! アンタは勝った! 北原の力も含めて! それにわたしは負けた!」
肩で息をするようにして、アスカは腹の中のものを吐き出す。
「アンタがそれだと、わたしが惨めになる……」
顔を伏せて、声を絞り出す少女。俯く少女が小さく見えた。少年は、自分の言葉が、態度が、少女に与えていたものを知った。
少年は、少女に掛ける言葉を持たなかった。なにを言っても違う気がした。困惑する少年。だが少年にはひとつだけ、ずっと心に秘めていた望みがあった。二度と叶うことが無いと思っていたその望み。決して言葉にするまいと決めていたその望み。目の前の少女の様子に戸惑う少年だが、その少女の姿は、少年の望みをするりと彼の心から引き出させた。
「僕は、アスカともう一度、家族をやり直したい。一ヶ月でいいから」
シンジの望みは、アスカの理解を超えていた。まさかそのような言葉が出てくるとは。コイツはなにを考えているのか。アスカは一瞬、二の句が継げなくなる。
「アンタ……なに考えてんのよ」
呆れるとも怒るとも取れる表情のアスカ。
「ずっと、後悔していたんだ。ミサトさんと、アスカとの生活が、あんな形で……終わっちゃったこと」
シンジはポツリポツリと、顔を伏せながら、それでも心の内にあったものをアスカに告げる。
「ミサトさんはもういないけど……できるなら、もう一度、やり直したい」
アスカは目眩に襲われた。反吐が出るような思いだった。心の底から見下してやりたかった。
『そんなことして、なんになるのよ』
口からその台詞が出掛かったアスカだが、寸でのところでプライドがそれを押し止める。そう、自分はシンジに負けたのだ。
モヤモヤした気分を落ち着けるように、はぁ、と溜息を吐くアスカ。
「わかった。今日はもう疲れたから、明日からでいい?」
小さく頷くシンジ。
「言っておくけど、変なことしようとしたら殺すからね」
第三章 この愛は始まってもいない