「碇くん」
声の向こうにいたのは、本間ユキであった。
「碇くん、ここにいたんだ。ちょっと探しちゃったよ」
屈託のない笑みを零すユキ。
ピット上の観客席に、一人佇んでいたシンジ。レース開催日には多くの観客で賑わう場所であるが、今日は彼らの貸切りであった。
「本間さん……」
半身振り向いたシンジは、やや驚いた表情を見せる。
「今日はお疲れさま」
彼女はシンジの隣まで歩み寄る。
柵を背にしてもたれ掛かり、シンジに対するユキ。
「慣れない撮影で疲れたでしょ」
にこやかに、彼女はシンジに笑い掛ける。
「大丈夫だよ、大したこと、してないし」
「んーん、そんなことない!」
シンジの言葉を遮るように、ユキは声を高めた。
「碇くん、凄かった。あたし、あんなに凄いなんて、思ってなかった」
「なんて言っていいのか分からないけど、碇くんが走っているのを見ると、こう、胸が熱くなるみたいな感じがして、なんだか震えてきちゃって……」
真剣な眼差しで、ユキは一気に言い、そのまま暫く黙す。
そして、ハタと気付いたように。
「ご、ごめんね。なんだか興奮しちゃって」
照れ笑いを見せるユキ。
「でも、ホントに凄かった。なんであんな風に走れるんだろう、って思ったよ」
そしてユキは、シンジに微笑みかける。
「――うん」
表情を変えぬまま、シンジは小さく答える。
そのまま二人は暫く、黙ったままにパドックの様子を眺めていた。
「ね、聞いてもいい?」
沈黙を破り、ユキはシンジに問う。
「碇くんって、走ってるとき、何を考えてるの?」
ユキは変わらず笑みを湛えていたが、その瞳は真っ直ぐにシンジを見詰めていた。
ユキの瞳に、シンジは答える言葉を持たない。
その視線に耐えきれず、シンジは視線を逸らし、面を伏せた。
しかしユキは、黙ったままにシンジを見詰め続ける。
何も言わず、ただ、待ち続けるユキ。
カラスの鳴き声が、何回か聞こえた。
「――なにも」
かすれるような声で、ようやく、シンジが口を開く。
「なにも、考えてないよ」
「考える事なんて、何もないよ」
「そうなの?」
「ただ、走ってるだけだよ」
「そう……そうなんだ」
されど、ユキの瞳はシンジから離れなかった。その眼光には、切迫した雰囲気すらあった。
再び、沈黙に包まれる二人。
「ほんとうに」
ゆっくりと、シンジが口を開いた。
「本当に、何も考えてないんだよ。ただ走っているだけなんだ」
「僕には、それしか出来ないんだ」
ポツリポツリと言葉を紡ぐシンジ。
「ごめん、つまらなくて」
「ううん、そんなことない」
ゆっくりと、大きく首を振るユキ。
「話してくれて、ありがとう」
ユキは、穏やかな笑みを見せる。
しかしシンジの頬が緩む事は、無かった。
僕らは始まってもいない
第拾壱話
Stranger
「こんにちは」
彼のその声に、アスカはゆっくりと振り向いた。
「隣、いいかな」
アスカの答えを待つ前に、彼――関口ヒデキはアスカの隣に腰を下ろした。
彼女はヒデキに一瞥を与えると、まるで見知らぬ他人が隣に来たかのように視線を逸らし、足を組み直して頬杖を突く。
ヒデキは苦笑いを浮かべ、ひとつ、大きく息を吸った。
「もしかして僕、嫌われてる?」
「いいえ、そんなことないです」
アスカは表情を変えることなく、答えた。
「それにしては、つれないよねぇ」
「だって、あなたの事は全然知りませんから、他人みたいなもんでしょ」
アスカは極めて素っ気ない。
「やれやれ、これでも僕は、結構人気があるんだけどな」
「私には関係ないですから」
「ふぅ、手強いね、惣流さんは。碇くんと一緒だ」
その言葉に、アスカはチラリとヒデキを見る。
ヒデキの視線がアスカの瞳を捉えた。
「……」
アスカは暫し、そのままにヒデキの表情を伺う。彼はにこやかな、しかし何処か底が知れない笑顔を湛えたまま、アスカを真っ直ぐに見る。
灰色の瞳が彼女を映し出す。
その瞳から逃げるように、面を伏せるアスカ。
「今日も碇くんのお供?惣流さんも付き合いがいいねぇ」
「別に、付き合いで来ている訳じゃありません。好きで勝手に来ているだけです」
その言葉に、アスカは怒気を強めて答えた。
そうして、顔を背けるアスカ。
「ゴメンゴメン、気を悪くしたかな。そんなつもりじゃないんだ」
「ちょっとしたジェラシーだよ」
右手を胸元で小さく振り、ヒデキは屈託のない笑みを浮かべたまま、弁解するように続けた。
その言葉にも、アスカは動く事はなかった。ただ、組んだ足を小さくブラブラと揺らすだけだった。
アスカの様に、ヒデキは苦笑いを見せるしかなかった。
「ずっとここで見てたの?」
「……ええ」
ヒデキの質問の意図を図りかねるように、一瞬の間を置いてアスカは答えた。
「そっか。碇君の走りを外から見るのも、偶には気分が変わっていいでしょ」
「まぁ、そうですね」
アスカは平淡な調子で答える。それにも意に介さぬ様子で、ヒデキは続けた。
「でも、碇君も凄いね。僕にあそこまで付いて来れたヤツは、今まで居なかったよ」
「それって自慢ですか」
「おっと、初めてちゃんと答えてくれたね。嬉しいなぁ」
心底嬉しそうな様子で、彼は表情を崩す。
「でも、事実だからね」
胸を張るわけでもなく、調子に乗る様子でもなく、ニュースを読み上げるアナウンサーのような調子で、ヒデキは続けた。
「僕にはわかるんだ」
「碇君は、まだ、全力を出していない」
その言葉に、アスカは思わず面を上げる。ヒデキはアスカから視線を外し、眼前に広がるメインストレートを見詰めていた。
そこにあった灰色の瞳に、笑みは浮かんでいなかった。
「僕は今年、ワールド ( グランプリ ) に行く筈だった」
「でも、一年先送りにしたんだ」
「何故だと思う?」
アスカに向き直り、彼は言う。
「惣流さん、僕はね」
「碇君と戦うために、僕は日本に残ったんだよ」
真摯なヒデキの瞳が、表情が、アスカの蒼い瞳を射抜く。
「でも」
「今の碇君だったら、僕は負ける気がしない」
ヒデキが笑ったように、アスカには見えた。
「もっと本気になってもらわないと、困るんだ」
「シンジは――っ」
反射的に口を開く。
「シンジは手を抜いてなんかいない」
半ば睨み付けるように、ヒデキを凝視するアスカ。
「シンジはいつだって――」
「うん、そうだね」
アスカの言葉を遮るように、ヒデキは言葉を繋いだ。
「碇君は一生懸命に走っていると思うよ。それは一緒に走ればわかる」
「でも、彼はまだ、自分の本当の力を出し切っていない」
「彼はもっと、走れるはずなんだ」
「僕は、全力の彼と戦いたい」
「戦わなくちゃ、いけないんだ」
一呼吸あって。
「レースに限らず、ね」
ヒデキは、アスカに改めて向き直る。
蒼い瞳を正面から見詰めた。
アスカは、その視線から逃れることが出来なかった。
「惣流さん」
幾ばくかの間。
「僕は、君が好きだよ」
突然の告白。
揺ぎ無い灰色の瞳が、そこにはあった。
ざわっと風が流れた。
アスカはヒデキの眼差しに耐えきれず、視線を落とした。
視界の隅を、小さな羽虫が横切った。
強い風が、アスカの髪を洗っていた。
揺れ動いていたアスカの足は、その動きを止めていた。
アスカの視線は、コンクリートの地面を彷徨った。
「なに、言ってるのよ……」
かすれた声が、アスカの耳の中だけに響く。
強い風が幾筋か、二人の間を通り抜けた。
ふぅ、と大げさな溜息をひとつ、ヒデキは吐いた。
彼は背中を丸め、ゆっくりと立ち上がる。
俯いたままの彼女に向かい、彼はひとつ、息を吸い込む。
「僕は、君を必ず幸せにする」
「絶対に」
アスカは、指先一つ、動かす事が出来なかった。
立ち上がったヒデキのスニーカーの鮮やかな色が、アスカの目に映る。
「困らせちゃったね、ゴメン」
ヒデキは表情を崩して、右手を差し出す。
「じゃ、またの機会に」
その手の気配を感じるアスカ。しかし彼女は凍り付いたように、身じろぎひとつ出来ずにいた。
ヒデキは苦笑いを浮かべ、差し出した右手で頭を掻いた。
そのまま踵を返し、右手を所在無げに振りながら、彼女の元から去っていく。
スタンドの階段を上りきったところで、彼は振り向いた。
彼女の金色の髪は、風に弄ばれ続けている。
彼は右手を強く握り締めた。
「そのためだったら、なんだってやる」
第拾弐話へ続く
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