伝えたいことがあるんだ






   一.



 十二月二日土曜日。時刻は午前十一時二十分。彼は、駅前のいつもの喫茶店の、窓際の席で彼女を待っていた。季節はすっかり冬空を仰ぐものとなり、窓の外の行き交う人々は冬の装いとなっていた。
 彼は、待ち人が来るまでのこの時間が好きだった。何をするでもなく、ぼんやりと窓の外を眺める。雑多な人々の姿を追い、その姿に想像を重ねる。
 彼はふと、店内の掛け時計に目を遣った。待ち合わせの時間迄には、まだ五分ほどあった。彼がまた窓の外に目を遣ろうとしたところで、ドアのカウベルが鳴った。
 カランカランカラン
 その音と共に、彼女が姿を現した。チャコールグレーのコートに紅いマフラーをグルグル巻きにしてそこに口を埋めるようにした彼女は、店内に入りざまに彼に顔を向けて、目元を僅かに緩めた。
「お待たせ。いつも待たせて悪いわね」
 ぶっきらぼうにも聞こえる調子で、立ったままの彼女は彼に話し掛けた。
「そんなことないよ。まだ時間前じゃないか」
「そりゃそうだけどさ」
 肩をしゃくるようにして、彼女は彼を見下ろす。
「それに、僕、待っている時間が好きなんだ。だからつい早く来ちゃうんだよね」
 彼の言葉に、彼女は少し、意外なものを見るような顔つきになった。
「へぇ、『待つが花』って感じかしら?」
「ううん、こうやって逢えた時が一番嬉しい」
 彼はそう言うと、彼女に向かって目元口元を綻ばせる。彼女は一瞬口元をピクリと震わせたが、すぐに彼の瞳を覗き込むようにする。
「シンジ、あんたも女の扱いが上手くなったわね。誰かに教えてもらったの?」
 彼女は目元に好奇心を乗せ、口元を持ち上げるようにした。そして彼の瞳をフッと触るように見る。
「いや、そんなことは……」
 彼は彼女の視線から逃げるように目を逸らし、後ろ頭をポリポリと掻いた。
「冗談よ。別にあんたの過去をほじくり返したいわけじゃないしね」
 彼女は軽くそう言うと、マフラーを取り、着ていたコートを脱ぐ。いつの間にか後ろで待っていたウェイターにそれを手渡して、彼女は席に着いた。
「ココアと、コナコーヒーで」
「あ、アイスココアで」
 彼女のコートをクロークに吊るしたウェイターが戻ってきたところで、ふたりはそれらを注文した。

「寒くなったわね」
 両手をテーブルの上で擦るようにして、彼女は彼の胸のあたりを見た。彼はその彼女の両手ををふんわりと見ながら、相槌を打つように応える。
「そうだね。冬って初めてだから、ちょっと堪えるよ」
「まぁそうでしょうね」
 両手を擦るのをやめて、両手の指を軽く組んだ彼女に、彼は訊く。
「アスカは? 寒くないの?」
「知ってるでしょ。わたしがいたあそこ、結構寒かったのよ。雪も降ったしね」
 淡々と、ただの昔話のように言う彼女の言葉を聞いて、彼の眼には暗い影が差す。
「あ……ごめん」
 戸惑いを隠せず、気まずそうな彼の顔に向かって、彼女は小さく鼻で息を吐く。
「もぅ、そのことはいいって言ったでしょ。シンジがわたしのことをどれくらい知ったのかはわからないけど、でも赦したわよ。それは嘘じゃない」
 彼女のその言葉に彼の意識は、あの時間も空間も意味をなさない世界に、一瞬だけ飛んだ。
「でも……」
 彼がようやく引き出した言葉に、彼女は目元を細める。
「一発、思い切り殴らせてもらったしね」
 彼女は細めた目元に合わせるようにして、口元も心持ち歪ませた。
「あぁ、あれは痛かった」
 彼はその時の痛みと血の味を思い出し、目尻にしわを寄せて口角を上げる。
「当たり前でしょ。積年の重みが詰まってたんだから」
 そうして彼女は、その蒼い瞳に彼女の想いを浮かべた。彼女のその瞳に映る自分を確認するかのように、彼は彼女をじっと見る。彼女もまた、彼のその視線をまっすぐに受け止めていた。そして、そこに何かを秘めたような彼女の口元も、僅かばかりに緩んでいく。彼女の口元と呼吸を合わせるように、彼は知れず力の入っていたその肩をスッと降ろした。そしてふたりは、静かな空間に包まれる。
 暫しの沈黙を破ったのは、彼女だった。
「そんなことより、今日はこれからどうするの?」
「あ、うん、良かったら買物に付き合って欲しいんだ」
「買い物?」
「うん。冬物の服とか買いたいかな、って」
 極めてありきたりのその提案は、彼女の心をスッと撫でる。それは、当たり前のような日常の風景。
「まあ、いいけど。わたしの見立てでいいの?」
「うん、アスカに見て欲しいんだ。いいかな」
 微笑む彼の目元を、彼女は少しばかり遠いものを見るように、見た。
 ふと気づいたように、彼女は手元のアイスココアに手を伸ばし、虹色のストローでグラスの中をかき混ぜた。シャラシャラと、細かい氷が互いにぶつかる音がする。彼女はストローに口をつけ、一口、それを喉に通した。それを見ながら、彼もコナコーヒーに口を付ける。彼女は彼のその顔にチラリと目を遣り、続けて彼のそのカップを見ながら言った。
「シンジってそれ、好きよね」
「あ、コナコーヒーのこと? うん、最近ちょっとハマってるかも」
「ふーん。どんな味がするの?」
 彼女は、やや興を浮かべたような目をする。
「飲んだことない?」
「うん」
「じゃ、一口どうぞ」
 彼はソーサーごと、カップを彼女の前に運んだ。彼女は口を小さく開いたままで、少し表情を硬くする。おずおずとカップに手を伸ばし、両手でそれを取る彼女。ゆっくりとカップを傾け、スッと一口、黒い液体を口に含んだ。そのまま口の中を転がすようにしてから、彼女はコクリとそれを飲み干す。
「どう?」
 彼女の一挙一動を見守っていた彼は、興趣が尽きない様子で訊く。
「うん、酸味が面白い味ね。スッキリしてて、結構好きかも」
「でしょ? この酸味がいいんだよね。よかった、不味いって言われなくて」
 我が意を得たりと言った表情の彼は、ウンウンと頷きながら彼女に笑いかける。その表情を見ながら彼女は、そっとカップをソーサーに置き、スッと彼の前にそれを返した。彼女が口をつけたカップの淵には僅かに紅の色が移っていたが、それは彼の方向からは見えなかった。

「そうそう、これ、渡しておくね」
 彼は手元のバッグから、いつもの封筒を取り出して彼女に手渡す。
「あ、ありがと。なんだか続いちゃってるわね、これも」
 首を小さくすくめるようにして、彼女はそれを受け取った。彼は手元無沙汰な様子でその手をフラフラとさせて、伏目がちに言う。
「……そうだね。でも、もう少し続けてもらってもいいかな」
「いいけど……どうして?」
 受け取った封筒をじっと見たままで、彼女は彼に問うた。
「アスカがこれを僕に手渡してくれた理由を、僕がちゃんと答えられるようになるまでは、少なくとも続けたいんだ」
「ふうん」
 封筒を見たままに曖昧な様子で、彼女は応えた。彼の眼はじっと彼女を見つめている。その視線に気付いた彼女はツイと顔を上げると、彼のその視線に少し気圧されるように、僅かに肩を引いた。強張ったような彼女の様子を見て、彼は付け加えた。
「まぁ、単にアスカとやり取りをしたいだけなんだけどね。交換日記みたいで楽しいから」
 彼は顔を崩して彼女に向かった。彼女の表情も、少しだけ和らぐ。だが彼は、そこにもう一言を付け加えた。
「それに、アスカのことをもっとわかりたいし」
 自然にサラリと口にした彼に、彼女はまた、不意を打たれたような顔つきになった。何かを言いかけた彼女は、またその口をつぐんだ。その彼女の表情を認めた彼は、そこに彼の気持ちをふわりと乗せるように伝える。
「僕、思ったんだ。あそこで、僕はアスカのことを知ってしまったように思ったけど、でも本当は全然わかってなかったんじゃないかって。知ることとわかることは、きっと、違うんだよね」
 彼は、柔和な笑みを口元に浮かべて、彼女に向かっていた。
「だから、いつまでかはわからないけど、もう少しだけ続けさせてくれないかな」
 笑みを見せる彼だが、彼女はその表情を失う。彼の言葉は彼女の鼓膜を打ち、その振動は鼓動となって彼女の心に届く。目の前の彼の姿が、少し大きくなったように、そして少し遠くなったように、彼女には感じられた。暖かい波の心地良さと、置き去られたような静けさが、同時に彼女の中に流れ込んだ。彼女は浮かんだその心象を振り切るようにして、棘のあるような口調で言う。
「ま、そういうことなら付き合ってあげるわよ。そうね、いつまでかはわからないけどね」
 そして彼女は顔を伏せるようにして、グラスに手を伸ばし、ストローでシャラシャラとココアをかき混ぜた。氷が溶けた上澄みの透明な部分と下に溜まったチョコレート色が混じり合い、マーブル状の液体になる。彼女はストローに口を付け、ココアの甘さを味わった。その甘さは、混乱した彼女の心を一息吐かせる。彼もカップに手を伸ばして、その柔らかな酸味を味わった。ふたりの間には暫しの静けさが訪れた。
 ズズズと彼女のストローが鳴り、彼もゴクリと最後のコーヒーを飲み干して、ふたりは顔を見合わせる。
「そろそろ行く?」
 うん、と頷く彼女に笑みを投げ掛けると、彼は伝票を手にレジへ向かった。





   二.



 約一時間後、彼は両手に紙袋を持ち、百貨店の片隅にあるベンチで彼女と並んで座っていた。
「おかげで気に入ったものが買えたよ。ありがとう、アスカ」
「どういたしまして。言っておくけど、見立てに自信はないわよ」
「うん、いいんだ。アスカが選んでくれたのなら」
 視線を遠くに遣るようにして、彼は笑みをその向こうに放るようにする。その様子を、彼女は横目でちらりと見た。その彼女の視線に気づいたのか、彼は彼女の方に向き直って言う。
「どうする? お茶でもする?」
「うーん、まだいいかな。もうちょっとここで座っていたい」
 彼の提案に、彼女は足を組み直して、ショートブーツの足先をブラブラとさせた。彼は何となく、彼女の揺れる足元を眺める。彼女は今日も、パンツルックだった。
 視線を彼女の足元から横顔に移した彼は、また前を向く。そのまま彼は彼女に訊く。
「あのさ、アスカは何か欲しいものはないの?」
「欲しいもの?」
 彼女はクルリと顔を彼に向けて、目を丸くする。
「うん、服とか、靴とか。何かない?」
 彼は彼女と顔を見合わせて、更に問い掛けた。彼女は少し黙り込み、プラプラと揺らしている自分の足元を、何かを探すかのように見た。そして、少し顔を上げると、視線の先を歩く人々を眺めるようにして、彼に応えた。
「そうね……ちょっと気になるものなら、さっきあった、かな」
「じゃ、ちょっと見に行こうよ。僕の買い物にずっと付き合ってもらったから」
 彼は彼女の言葉に食い入るようにして、彼女の顔を覗き込む。
「え? いいわよ」
「せっかくだからさ」
「えぇ……」
 戸惑いを隠せない彼女に、彼は畳み掛けるようにする。
「ほら、行こうよ」
「うーん、シンジがそこまで言うのなら……」
 彼にそぐわない程に強引な様子に少々戸惑いながらも、歩き始めた彼女の足取りは、決して重いものではなかった。彼女は少し前に通りがかった、とあるレディースブランドのコーナーに立ち寄った。店頭にディスプレイされたマネキンの前で、彼女は立ち止まる。
「……これ」
 彼女が指差したのは、マネキンが着ている滑らかなウール地のスカートだった。黒地に赤、緑、黄が大胆に切り替えられて彩られている。生地だけを見ると派手にも見えるが、タイトなシルエットで纏められているそれは、上品な仕立てであり嫌味がない。
「いいじゃない。着てみたら?」
 彼の表情はパァっと明るく、喜色満面になる。
「うーん」
 浮かない様子の彼女の顔を覗き込んだ彼は、更に追い打ちを掛けるようにする。
「アスカが着ている所を見てみたいから、店員さんを呼んでもいい?」
 彼は彼女の顔色をもう一度確認して、手を挙げて近くにいた店員を呼んだ。

 試着室の前で、彼は少しソワソワした様子で、彼女の着替えを待っていた。カーテンの向こうには彼女がいる。パサパサと布の擦れる音が、カーテンの向こうから聞こえてきた。試着室の入り口には、彼女が履いていたショートブーツがきちんと並べて置いてある。彼は胸の鼓動を数えるようにして、彼女を待った。
 ややあって、カーテンの向こうの音も止んだ。そして、シャーとカーテンが静かに開く。カーテンに背を向けていた彼は、その音に振り返り、そして身動きができなくなった。
「……どう?」
 消え入りそうな小声で、彼女は顔を伏せて彼に訊く。しかし、彼の顔は唖然としたように固まったままだ。
「やっぱりやめる」
 彼女は試着室のカーテンをシャッと素早く閉めようとする。呆然としていた彼は、弾かれたようにパッと手を差し伸べ、彼女のその手を握って遮った。
「違う、違うよアスカ。逆だよ。凄く似合ってる。だからちょっとビックリして……」
 頬を一気に紅潮させた彼は、そこで彼女の手を掴んでいることに気付き、慌ててパッとその手を放す。放した手で後ろ頭を掻き、視線を足元に彷徨わせる彼。
「……なによ、ばか」
 彼女もまたそう言うと、そのまま着ているスカートに視線を落とした。そのままふたりは何も言えなくなる。
「よくお似合いですよ。サイズ感もぴったりですし、そのままうちの広報写真にしたいくらいです」
 後方で様子を静かに伺っていた年配の女性店員が、ふたりの様子に助け舟を出した。その言葉に彼は、ハタと気づいたように顔を上げて、彼女に微笑みかける。
「せっかくだから買っていこうよ」
 彼女もまた意識を取り戻したように彼の顔を見るが、そこには少しの戸惑いが浮かんでいた。
「でも……」
 彼女はちょいちょいと手招きをして、顔を近づけた彼の耳元でボソリと言う。
「これ、結構いい値段がするのよ」
「うん、大丈夫だよ」
 彼女の一言に、彼はにこやかに即答した。
「これ、僕からのプレゼントにしてもいいかな。アスカ、明後日が誕生日でしょ?」
「え……?」
 彼のその言葉に、彼女は顔のみならず全身を硬直させて、瞬きひとつ出来なかった。
「もしかして、違った?」
「そうだけど……知ってたの?」
 彼女はようやく、その一言を絞り出す。蒼い目をパチクリとさせて、薄く紅を引いた唇をポカンと半開きにする。
「うん、あの頃から知ってた。何かの書類で見て、憶えてた」
 そうして彼は、屈託のない笑みを見せる。あたかもそれが、当たり前のことのように。彼は背後でその様子を伺っていた店員に向かって、そう告げた。
「あの、これ、ラッピングしてもらっていいですか? 彼女の誕生日プレゼントなので」




   三.



 その晩、彼女は彼からのプレゼントをベッドにふわりと広げ、添い寝をするように、その側に横たわっていた。
「そう言えばわたし、服を欲しいと思ったことなんて、今までなかったな」
 彼女に去来するのは、雪の降るユーロネルフの情景。自らの生存意義を賭け、ギリギリで生き延び、自らを叱咤するしかなかった少女時代。
「プレゼントを貰ったことなんて……」
 彼女の脳裏に浮かぶのは、長い間、彼女の唯一の話し相手だったパペットの姿。
「あれ以外は、初めて」
 ユーロから日本にやってきて、その少年に出会い、そして十四年。振り返るとそれは、果てしなく長い年月だった。そこで出会ったその少年は、そのまま彼女の胸の奥にひっそりと住み続け、彼女はそれを、大切に護ってきた。
『さよならしたはずだったのに……』
 今でも鮮やかに想い出せる、その時の彼の後ろ姿。狭い耐爆隔離室の中で、彼に告げた彼女の想いと、ふたりの為の一欠片の嘘。
『わたしはまた、あいつの前にいる』
 彼女はころりと身を回し、広げられたスカートにそっと手を触れた。
『触れられる距離に、わたしはいる』 
 スウッとウールの感触を確かめるようにした彼女は、そこに言葉を重ねた。
「ほんとに、どんな顔していいのか……わかんないわよ」
 目を閉じた彼女の瞼に浮かぶのは、今日の、そして再会してからの彼の笑顔。自然で、柔らかく、少年時代に時折見せた屈託のない笑顔を思い出させる、その青年の笑い顔。
「あいつみたいに、自然に笑えればいいのにな」
 彼女はゴソリと顔をベッドに伏せて、そこにそれを閉じ込めるように呟く。
「まったく、ガキシンジじゃなくて、ガキアスカ……ね」

 翌日の日曜日。彼女は、駅へは向かわなかった。彼に合わせる顔が、彼女には見つけられなかった。駅で待ちぼうけをした彼もまた、来ない彼女を自然と受け止めていた。





   四.



 月曜日の朝。彼女は少しばかり早く目が覚めた。カーテンを開けて外を見ると、日の出までにはもう少し時間がありそうだった。彼女は窓を開け、その空気を吸う。
「……寒っ」
 眼下に見える家の屋根は、真っ白に霜が降りていた。彼女はすぐに窓を閉めて、エアコンのスイッチを入れようとしたところで、それを思い留まった。
「まだいいか」
 そう呟いて、彼女は洗面所に消えていく。
 朝食を終えて暫くの後、彼女はベッドルームで口を軽く押さえ、眉間にしわを寄せていた。目の前のベッドの上には、あのスカートが広げられている。
「せっかくだから着たいけど、なんだかもったいないわね」
 それでも彼女は、ウンと自分に言い聞かせるように頷き、それを手に取った。
 次に彼女は、ドレッサーの前に座った。いつものように軽く整えたあとで、彼女は黒い筒に手を伸ばす。真新しい封を切り、キュッと捻ってそれを取り出し、彼女はその色をじっと見つめた。スッとそれを引いた後で、彼女は鏡に映る姿を眺め、そこに何かを想い浮かべるようにフッと瞳を閉じた。

 午前七時半少し前に、彼女は駅に到着した。まだ早いかなと思いつつ階段を登ったその先のコンコースには、いつものように彼がいた。
 彼は彼女の姿を認めると、フワッと顔を崩して、自然な笑みを彼女に向ける。彼女が彼の下まで歩み寄り、足を止めるのを待って、彼はもうひとつ、笑みをその眼に乗せた。
「誕生日、おめでとう」
 彼のその言葉に、彼女は口元を僅かに綻ばせるようにした。
「ありがと。なんだか実感がないんだけどね」
「その気持ちはわかるかも。仕方ないよね、僕らは」
 彼もまた、彼女の気持ちを慮るように、苦笑いを顔に浮かべる。
「スカート、履いてくれたんだ。やっぱり似合うね。うん、凄くいいよ」
 その姿を記録するように、彼の眼は彼女の全身を動いていく。
「やだ、恥ずかしい。そんなに見ないでよ」
「あ、ごめん。でも……うん、やっぱりアスカだ」
「なによそれ。もう、変なこと言わないでよね」
 彼女は少し口を尖らせるようにして、彼の顔から視線を逸らした。後ろ頭を掻くようにして、彼は言葉を探す。ちらりと彼女の横顔を見た彼は、その一点に目を奪われた。
「アスカ、口紅……」
 彼のその一言に、彼女はピクリと首を震わせて、逸らしていた目を横目がちに彼に向ける。
「うん、それも……似合ってる」
 彼の視線は、彼女の唇から動かない。
「うん……ありがと」
 彼女の心は静かに踊った。素直に礼が言えた自分に救われた思いになった。その彼女の様子に、また彼は胸の高鳴りを意識せざるを得ない。そのまま暫く、ふたりは言葉もなく、そこに立ちすくんでいた。行き交う人々が時折投げがける視線にも、ふたりは気づくこともなかった。

「そ、そうだ」
 僅かばかり先に気を取り直した彼が、思い出したように言った。
「えっと、これ、もしよかったら食べて」
 彼は鞄の奥から、紅いバンダナに包まれたそれを取り出した。その包みを見た彼女は、口を半開きにしたままに固め、目を見開いたようにして驚きを顕にする。
「アスカにプレゼントを渡せて嬉しかったけど、何か足りない気がして。僕ができること、僕しかできないことは何かって考えたら……これかなって」
「これ……」
「アスカには料理を勧められたしね」
 差し出されたその紅い包みを、彼女はギクシャクとした手つきで受け取った。仄かに残る暖かさが、彼女の掌から全身に染み渡っていく。体中に温かい波が打ち寄せていく。
「突然ゴメンね。昼食の予定とかあるかな、とも思ったんだけど……」
「え、そんなのない……わよ」
 やっとのことでその言葉を口に出すことが出来た彼女は、受け取った暖かな弁当箱を手にし、それを見つめたままで、凍りついたように身震いさえ出来なかった。
「そう、ありがとう。じゃ、食べてくれるかな」
 その一言に、彼女はようやく、その視線を紅い包みから彼へと動かした。コクリと小さく首を縦に振る彼女。しかし彼の顔を見ることは出来ず、彼女の視線は彼の手元を彷徨う。
「……うん。ちゃんと食べる」
「そっか、よかった!」
 ようやくのことでその一言を紡ぎ出した彼女に、彼は屈託のない笑顔を見せた。彼女は最後まで、彼の顔を見ることは出来なかった。





   五.



 時刻は二十時三十分過ぎ。帰宅した彼女は、何より最初に、バッグから紅いバンダナに包まれたそれを取り出した。キッチンに置いたそれを、彼女はじっと見つめる。軽く目を伏せると、彼女はそこに何かを想い浮かべるように、暫し、その場に佇んでいた。  夕食を終え、入浴も済ませた彼女は、綺麗に洗った空の弁当箱をテーブルの上に置いて、それをじっと眺める。彼女の視線は、そのアルミの弁当箱の先に結ばれていた。 「スカートだけでも嬉しかったのに、これは反則よね……」  その味を反芻するように、彼女は静かに瞳を閉じた。あの頃と同じ、彼の弁当。その味はあの頃と同じようで、また僅かばかり違うようにも感じられた。彼女の胸の奥に大切に仕舞い込んだ、あの僅かな時間。彼女が初めて楽しいと思えた、あの年相応の生活。彼女が初めて抱いた、あの淡い想い。それらが一気に蘇り、彼女の胸を一杯にさせて、そこから溢れ出してきた。溢れ出したその想いは、もう、押し留めておくことは出来なかった。  彼女は部屋の片隅の机に目を遣った。フラリと立ち上がると、机の引き出しから、白い封筒を取り出した。宛名のないそれをペラリと返し、裏側に記された"碇シンジ"の名を、彼女はじっと見る。そして丁寧に中から便箋を取り出して、ゆっくりとそれを読み返す。彼女の瞼の裏側に、その時の光景が蘇ってきた。  いつの事からかは明確に思い出せなかったが、駅の向かい側のホームに立つ彼の姿を、彼女は毎朝認めていた。顔を合わせないように携帯ゲーム機に向かうことを日課としていたが、意識は常に、ホームの向こうにあった。  その日は、数日間不在にした彼女が、暫くぶりにいつもの時間にホームへ姿を現した日だった。向かいのホームに立っていた彼が、血相を変えてコンコースを渡り、彼女のもとへ駆けてきた。そして戸惑いながらも必死の形相で、彼女にその手紙を手渡したのだった。  彼女の心は大きく跳ねた。心臓の音が彼に聞こえるのではないかと心配した。顔を彼に向けることも出来なかった。彼女に出来たことは、無関心を装い、乱暴にも見える手つきでその手紙を受け取ることだけだった。  その時の情景を思い浮かべながら、そこに書かれた丁寧な文字を、今もう一度、彼女は最初から読んだ。ふたりの始まりは、この手紙だった。 ―――――――――――――――――――― はじめまして。突然、こんな手紙を渡してしまって、ごめんなさい。 僕は、碇シンジと言います。二十八歳のサラリーマンです。 毎朝、あなたと同じ時間に、逆方向の列車に乗っています。あなたの姿は、毎日のように見掛けていました。 どのように言ったらいいのか、正直に言ってわかりませんけれど、もし許してもらえるのなら、あなたと話がしてみたいと思っています。少しの時間でも構いません。 もし、相手になって頂けるのなら、ご連絡を頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。  碇シンジ  shinji@vil.3d.com  091-1432-0313 ――――――――――――――――――――  彼女は静かに目を閉じ、その時の彼の様子を思い浮かべる。ガチガチに緊張し、言葉も辿々しく、気の利いたことも言えずに慌てて駆け出していった彼の姿。瞼の裏に映し出されたその姿に、硬く結ばれていた彼女の唇はフッとその力を抜いた。 「あの時のことを言ったら、真っ赤になるだろうな」  突然、何かがポッと彼女の心に浮かんだ。それはユラユラと、彼女に何かを伝えようとするかのように、彼女の周りを戸惑うかのように揺れ動いた。  彼女に纏わり付くようなそれを、彼女はじっと追い続ける。するとそれは、次第にその姿を実像へと変えていく。彼女が見つめていたフワフワとしたそれは、そうして彼の姿へとなっていく。  そこに現れたガチガチに緊張した様子の彼と、土曜日の喫茶店で彼女のことをわかりたいと言った彼の姿が、緩やかにひとつに重なっていった。彼女は目を開き、手にした手紙をじっと見つめる。 『そっか、あいつだって必死だったんだ。余裕なんてなかったんだ』  その時の彼の様子を何度も脳裏に映し出した彼女の顔は、強張りが溶け、穏やかなものになっていく。唇の端に笑みが浮かび、頬も上がり、目尻の緊張が消えていく。 「なんだ、あいつもわたしも、似たようなもんじゃない」  彼女を囚えていた置き去られたような静けさが、彼女の全身から音も立てずにスウッと消えていった。  最後に記された彼の連絡先に、彼女は目を留めた。スマートフォンを持ちメールアプリを立ち上げて、そのアドレスを打ち始めたところで、彼女の手は止まる。そして彼女はそれを閉じて、小さく首を横に振る。そしてまた、便箋の最後に視線を落とす。  その日、彼は仕事上のトラブル対応に追われて遅い帰宅となっていた。時刻は二十二時過ぎ。列車を降りた彼は、疲労感を全身に醸し出したままに改札を出て、家路に着く。  ふと、コートの内ポケットに入れてあったスマートフォンが振動した。歩いている彼はすぐに気づかず、慌ててそれを取り出して、画面を見た。するとそこには、見知らぬ番号が浮かんでいた。彼はドキリとした胸の高鳴りを感じながら、慌ててそのコールに応える。 「はい、碇です」  彼の応答から、若干の間があった。 「あ、あの……」  電話口の向こうから、その声が聞こえた。




   六.



 それから暫くして、彼と彼女は駅の待合室にいた。時刻は二十三時近く。既に人通りもなく、シンとした冬の夜の静けさが辺りには降りている。ふたりはベンチに隣り合って座っていた。彼は缶コーヒーを、彼女は緑茶のペットボトルを手にしていた。それらの暖かさで、各々の手を暖めるようにするふたり。
「アスカ、寒くない?」
「なに? もっとくっつけって言ってるの? スケベ」
 そう言いながらも、彼女は腰を浮かせ、彼との距離を縮めた。彼は動くことも出来ず、目を丸くするようにして隣の彼女を見つめる。右隣に座る彼女の体温が、感じられる距離になった。

「今日は、ありがとね。お弁当、美味しかった。最高のプレゼントだった」
 彼女はバッグから紅いバンダナに包まれたそれを取り出し、そっと彼に手渡す。
「ほんと? 良かった。アスカに食べてもらうのは久しぶりだから、ちょっと緊張したよ」
 すぐ隣に座る彼女への緊張が少しだけ緩んだかのように、彼は顔を綻ばせた。
「うん、変わらず美味しかった。シンジの味だなって思った」
 小さく何度か頷きながら、彼女は彼の横顔を見る。その眼にはもう、戸惑いの色はなかった。
「そう? なら嬉しいよ」
 その視線に彼は応え、その眼に彼の想いを浮かべた。
「うん……ありがと」
 彼女もまた、その目元に気持ちを載せて彼に応える。交差する視線はふたりの想いを、確かに伝えていた。
 彼はふと気づいたように、手にしていた缶コーヒーを開けて、それを一口飲み込んだ。彼女もまた、キリリとペットボトルを開けて、コクリコクリと緑茶を喉に通す。どちらともなくハァと息を吐き、ふたりは顔を見合わせる。
 暫しの間、ふたりはお互いの体温を感じるように、何も言わずにそのまま佇んでいた。そこには焦りも、戸惑いもなかった。

 彼は横目でちらりと彼女を見る。そして、心地よくも感じたその沈黙を破って、彼女の横顔に語り掛けた。
「あの、さ。もし良かったら、今度の週末にでも……どこかに行こうよ。お弁当を作るから」
 彼のその誘いに、彼女は目を丸くして、驚きを隠さない様子で彼に向き直る。
「あんた、お弁当でわたしを釣る気?」
「ダメだった?」
 彼は少しだけ戯けたような口調で、彼女の顔を見返した。その彼に彼女は、薄笑いのような不敵な笑みを見せる。
「ふん、釣られてあげるわよ。こう見えて、わたしは優しいのよ」
 フンと鼻を鳴らすような顔つきの彼女に、彼はしっかりと頷き、少し顔を引き締めて言った。
「うん、アスカは優しいよね。わかってるよ」
 彼のその一言に、突然、彼女の意識は十四年前に飛んだ。

『アスカは優しいから』
 あの声が、彼女の耳に蘇った。
『この世界はあなたの知らない面白いことで満ち満ちてるわよ。楽しみなさい』
 その声が、彼女の心に響いた。
『……そうね、ありがとう、ミサト』
 そこに浮かんできた、十四年前のその姿。かつての上官であり保護者であった彼女に、二度目の感謝を、彼女は告げた。

「もし良かったら、明日も作るけど……」
 彼のその言葉に、彼女はハッと我に返る。少し慌てるようにして、彼女は彼に応える。
「ありがと、シンジ。凄く嬉しいけど、でもそれは遠慮しておく」
「どうして? 一人分も二人分も、手間は大して変わらないけど」
 断られるとは思っていなかった様子の彼は、その眼に不安の色を載せて彼女に訊く。
「うーん、なんて言うのかな。まだ毎日のものにしたくないっていうか、もう少し特別なものにしておきたいって感じかしら」
 彼女は素直に、今の想いを言葉にした。そしてスッと面を上げて壁の向こうを見るようにする。そんな彼女の横顔を、彼は不思議なものを見るような顔で見つめ、戸惑いを言葉に滲ませる。
「そんな特別なものじゃないけど」
「特別なの! あんたにはわからないでしょうけどね!」
 食い気味にそこまで言って、彼女はハッと気づいたように白い頬を赤らめた。その表情を見て、彼もまた、それ以上は何も言えなくなる。
 暫しの間、彼は彼女の言葉を咀嚼するように、足元に視線を遣りながら黙り込んでいた。やがて彼は、ひとつふたつと頷く仕草を見せて、彼女に向かって得心の意を見せる。
「うん、わかったよ。あの頃とは違うもんね」
 その彼の表情に、彼女もまた、口元を引き締めるようにする。
「そうよ、一緒に住んでいるわけじゃないんだから」
 彼女のその言葉を、彼は噛みしめるように聞いた。
「……そうだね。あの頃は特別だったんだよね」
 彼のその言葉は、そのまま、彼女の心の奥に大切に仕舞い込んだものに響く。彼女はそれを確認するように小さく頷くと、顔を上げて、その向こうの夜空を見た。彼女はそこに何かを見たように、小さく、しかししっかりと頷く。

「でもね」
「ん?」
 彼女が何を言うのだろうと、彼は疑問符を浮かべた。
「先のことは、わからないわよ」
「それってどういう……」
 彼の問いを遮るように、彼女はバッグから、一枚の折り畳まれたメモ用紙を取り出した。
「これ、渡しておく」
「これ……」
 パラリと開いたそれを見た彼は、目を見開き、口をぽかんと半開きにした。それは小さな、しかし殻を破るための、彼女の決意だった。
「メールでも、電話でも。もし訪ねてきても、追い返したりしないから」
「えっと……さ」
 戸惑いを消せずに言うべき言葉を見つけられない彼に、彼女は真顔で、しかしどこか楽しそうな表情で、彼に告げた。
「わたしは逃げも隠れもしないから。よろしくね、シンジ」
 そうして彼女は、口元をニンマリと歪めた。その彼女の顔を見て彼は、あぁと脱力したような面持ちに変わる。
「また悩みが増えた……今晩は寝られなかも」
 冗談とは取れない様子の彼に、彼女は更にニヤリと口元を歪めるようにして、彼の瞳を覗き込む。
「なんだったら、これから来てもいいわよ」
「え?」
 飛び上がるような彼の顔に向かって、彼女はサラリと告げる。
「悩みが解決するでしょ」
 にわかにはその意図が汲み取れないような顔を、彼女は見せた。その眼はまっすぐに彼を捉え、彼の答えを待っている。
 彼は彼女の視線を正面から受け止めて、暫しの間、その瞳に見惚れるようにしていた。そして、目元の強張りを解き、口元をフッと緩めて言う。
「うん、今日は止めとく」
「あら、残念」
 少し拍子抜けしたように、それでも楽しげな様子を交えて、彼女はあっさりと言った。彼は彼女のその顔に笑みを浮かべる。
「僕は、楽しみは後に取っておくタイプなんだ」
「大事に仕舞い込んだはいいけど、忘れちゃうタイプじゃないでしょうね」
 彼女もまた、彼に笑みを見せた。それは彼女の奥からスゥッと現れた、彼女の自然な笑みだった。
「あ、やっぱりアスカの笑った顔が見られると、すごく嬉しいな」
 フフンと鼻で笑った彼女は、さもありなんと言った顔で、彼を正面から見た。
「まぁ、今のところはシンジだけだからね。嬉しいでしょ」
「え?」
 心臓を射抜かれたような顔つきの彼にも構わず、彼女は鼻歌を唄うような表情になる。
「先のことはわからないけどね」
 そして彼女は前に向き直り、彼の視線を感じたままに、呟くように言った。

「ま、慌てず急がず。今のわたし達には、時間はあるんだから」





   【了】




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