新世紀エヴァンゲリオン、もうひとつの視点



西村創一郎



第零話『セカンドインパクト』

1997年、宇宙戦艦ヤマト・機動戦士ガンダムに続き我が国アニメ史上、空前の大ヒットとなった、『新世紀エヴァンゲリオン』もこの7月ついに完結を迎えた。私がこのアニメーションを見たのは、実は3月に公開された完結編パート1ともいえる『シト新生』が公開された後である。この時はじめて世間が(エヴァ現象)なるものにふりまわされ、作品公開時の前売券の販売記録や、エヴァのもたらした経済効果をさまざまなマスメディアが声高に叫んでいるのに気が付いたのだった。

中学校時代の友人である庵野秀明が、これまでさまざまなアニメ作品に関わり、その筋ではカリスマ的な存在になっているらしいことは知っていたし、『不思議の海のナディア』のあとテレビ東京でアニメをやることも知っていた。しかし、それはあくまで自分の生活ベクトルとは異なった世界の出来事であり、たまに帰郷した庵野と話をする時でもアニメのことについて話したのはそのくらいのことだった。それがいきなり、今までアニメをサブカルチャーとしてさえ取り上げたことの無かったメディアまでが、つぎつぎとこのエヴァンゲリオンや庵野秀明という人間をとりあげるようになった。確かに私も中学時代は庵野達と一緒に宇宙戦艦ヤマトの第1回放送を毎週かかさず見て感激し、映画化されたヤマトに決別し、大学時代は機動戦士ガンダムを見て既存のロボットアニメの終焉を悟り、同時に戦闘機能としてのモビルスーツに新鮮な感動を覚えた。しかし私とアニメーションの関係はそこでおわっていた。それがまさに『15年(ホントは17年)ぶりだね…』『ああ、間違いない…。庵野だ!(にやり)』エヴァって何?・・・・・・・ここから私は始まった。

さっそく行き付けのレンタルビデオ店でエヴァのビデオを借りてきて、弐拾壱話以降は友人の録画していたビデオを奪って一気に見終えた。其の後のわたしは完全に『にわかエヴァファン』に進化(退化?)していた。その時点ですでに『シト新生』は上映を終えていたので、エヴァンゲリオンの情報はインターネットを中心に掻き集め、来るべき『Air、まごころを君に』にむけて補完計画を進めていた。そして7月19日…映画館から出た私は一応補完された気になっていた。たしかに『劇場版・新世紀エヴァンゲリオン』は、未完のまま終わったと思われていたTV版の続編というカタチで公開されたが、あのラストシーンの台詞には予想を裏切られた人たちが多かったに違いない。私も実際この夏の映画を見た後は、何ともいえない複雑な気持ちになっていた。どんな悲惨な結末になっても、そこから先の希望につなげることのできるものが一つでもあれば・・・と思っていたところに『気持ち悪い・・・』。いったいこのエヴァンゲリオンという作品は自分にとって何だったのだろう?私はこの時になってはじめて正面からこの作品を見つめることができたような気がする。そしてある日、一つのことに気が付いた。このアニメを構成する素材やキャラクターは違うけれど、物語の源流は、平家物語 だあああああっ!!!

もちろん、エヴァの物語がそっくりそのまま平家物語に置き換えられるわけではないが、物語の場面、登場人物の設定やスタンスがなぜか平家物語とシンクロするのである。それは決して表面的なものではなく、深層心理にまで波及するのだ。以下においてそれを検証してみよう。





第壱話『人類補完計画』

人類補完計画…閉塞され行き詰まった存在の人類を、単体のより高次元の生物へと進化させる計画…この閉塞され息詰まった状態とは、まさに平安末期の貴族社会とシンクロするのである。藤原氏による摂関政治から院政へと移行してゆく朝廷、政治の停滞、飢饉により洛中にまで餓死者がうち捨てられるような状態…。そのなかで武士と呼ばれる謎の集団が台頭してきた。初めのうちはこれを卑下するだけであった貴族たちはその潜在能力(武力集団として)に恐れを抱きつつも、上手く使えば己の勢力の拡大と保持に,自ら手を汚すことなく有効に作用することに気が付き、これを我が物にしようとした。

これは西暦2000年、南極において人類が『使徒』と呼ばれるモノを発見しその力を手に入れようとしたことと合致する。その結果平安の世では保元・平治の乱が起き、エヴァの世界ではセカンドインパクトが起きることになる。

そしてゼーレは特務機関ネルフを創設し、使徒と同じ力を持つ汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンによる使徒との戦いと人類補完計画の遂行をすすめ、後白河法皇は平治の乱後勢力を持つに至った平家の力を牽制するため、対抗しうる武家勢力である源氏の旗揚げを黙認し、ある時は平家にまたある時は源氏にと暗躍するのである。それは天皇を中心とした完全な『律令国家』=『天皇家のエデン(楽園)』の回復を目指したからであった。





第弐話『もう一つの人類補完計画』

前章で少し触れたように、ゼーレ及び人類補完委員会は私の中では、後白河法皇とその側近貴族にシンクロしている。決して表には出ず、その世界での出来事はすべて己がシナリオに沿って進行させているのだ。そして碇ゲンドウ、これは源頼朝である。彼らは自分の支配者であるゼーレや後白河法皇のシナリオに沿って動くふりをしながら、その実はまったく違った自らのシナリオを持っている。ゲンドウはユイとの人類補完計画を、頼朝は武士による自分たちのための政権の確立というシナリオである。そして彼らは自らの目的遂行のため、肉親や自分を愛してくれたものでさえも己が駒として使い捨てるのである。もっともこれは、単に『冷酷な』というだけではなく二人の掲げる理想の実現のためには『非情の心』なくして成功はありえない。その意味ではゲンドウ・頼朝はまさに優秀な指揮官であり政治家といえる。そしてその計画を完遂させるためには当面のテキである『使徒』と『平家』を倒さなくてはならない…。





第参話『人のカタチ、心のカタチ』

つぎに、それぞれの物語の中で妙にシンクロしてしまったシーン、エピソードをいくつか上げてみよう。先ず思いつくのは何と言っても第八話『アスカ来日』におけるエヴァ弐号機の登場シーンである。シンジとアスカの乗った弐号機は、外部電源に接続するため船から船へと華麗に飛び移り空母オーバー・ザ・レインボウに着艦する。これはまさに壇の浦の合戦における源義経の『八双飛び』である。

さかのぼって第六話『決戦!第3新東京市』。ポジトロンライフルによる超長距離からのスナイプ、オペレーションコードは『ヤシマ作戦』。源氏の弓の名手、那須与一が平家の女官のかざした扇のかなめを見事射抜いたのは『屋島の合戦』である。

それでは心のカタチはどうか?まず、ネルフ作戦部の葛城ミサト。彼女はセカンドインパクトにおいて父親を失い、その原因となった使徒を殲滅することを絶対の使命として自らに科し、戦いに身を投じていく。これは父の仇である平家の打倒こそが自分の存在意義としてきた源義経のイメージを彷彿とさせる。また戦の中でしか自分のカタチを表現できなかった義経は、エヴァに乗ることでしか自分の存在意義を見出せなかった操縦適格者(チルドレン)と同じである。そしてこれから述べることが、私がこの戯言を書く気になった最大のエピソードである。それは…。

新世紀エヴァンゲリオンの中で後半最大のクライマックスは、やはり第弐拾四話『最後のシ者』であろう。はじめて自分のことを好きだといってくれた渚カヲルを、シンジは自らの手で殺してしまう。そしてシンジはココロを完全に閉じてしまった。このエピソードは実は平家物語の中の二つのエピソードにシンクロするのである。

まず、場面は一の谷の合戦。都を落ちていく平家であったが、彼らは当初この一の谷の合戦については絶対の自信を持っていた。しかし義経の奇襲作戦『ひよどり越え』によって形勢は逆転し、平家は沖合いの船へと撤退を余儀なくされた。その中にはわずか14歳の平家の公達、平敦盛の姿があった。敦盛が海の中ほどまで馬を進めた時、後ろから源氏の武将の熊谷次郎直実が呼び止めた。直実は名乗りを上げてその公達に戦いを挑んだ。公達も馬を返して直実に応えた。しかし、坂東の剛の者である直実に14歳の公達が敵うわけが無く、たちまちのうちに敦盛は組み伏せられてしまった。いざ首を掻き切ろうとして、自分が押さえつけている公達の兜の中を見た直実はその幼い顔に驚いた。聞けば自分の息子と同じ14歳という。その息子も自分と一緒にこの戦に従軍しているのだ。直実は敦盛を見逃そうとしたが敦盛はそれを潔しとはせず、従容として自らの首を直実に打たせた。その後、戦いの無情さに打ちひしがれた直実は、自らの猛き心を閉ざし出家するのである。少年の菩提を弔うために・・・。

そしてもう一つの場面は、源平最後の戦いとなった壇の浦の合戦の中にある。一の谷そして屋島と敗戦を重ねた平家が、存亡を賭けた乾坤一擲の最後の戦いである。平家の総大将は平清盛の次男宗盛であるが、暗愚な宗盛に代わって戦いの指揮を執ったのは弟(四男)の知将平知盛であった。しかし、時の流れはもはや平家へと流れを変えることはなかった。次々と倒されてゆく平家の武将、滅びの時はそこまで来ていた。『もはやこれまで・・・もう平家の時は止まっている。私も見るべきものはすべて見届けた・・・。』知盛は自分の傍らにあった船の碇(錨)を身体に巻き付けると、にっこり微笑んでその身を海中に躍らせた。

ここでもう一度セントラルドグマでのカヲルの言葉を思い出してほしい。『滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれない・・・』。人類と使徒がともにアダムから生まれながら、最後までその存在を賭けて争わなければならなかったように、平家と源氏も同じ武士でありながら、否あったがゆえに争うしかなかった。そして自らの使命を達成するのが不可能であることを悟った時、カヲルはシンジに、知盛は源義経に来るべき未来の姿を託して消滅を選んだ。

おそらくカヲルにしろ、知盛にしろ自分の消滅したあとの未来の姿は決して楽園ではないことはわかっていたのであろう。なぜなら、カヲルは使徒でありながら人間の心を持ち、知盛は平家の公達であると同時に優れた武将であったからだ。だから人間の心の本質、武士という集団の本質を第三者的に見つめることができた。カヲルはシンジ以上にシンジのことを、知盛は源氏の武将以上に源義経のことを理解していたに違いない。それを知っていた上でシンジや源義経に未来を託そうとした。彼らが未来をついでこそ、カヲルや知盛はこの最期の時に『自分がここに在る理由があるのだ』と・・・。





第四話『終わる世界、そして・・・』

第17使徒までを殲滅した特務機関ネルフ、平家を滅ぼした源義経、彼らは勝利者のはずだった。しかし彼らを待ち受けていたものは『否定されることと崩壊』であった。後白河法皇は平家亡き後頼朝を牽制するため、義経を徐々に朝廷に取り込もうとする。その背後の奥州藤原氏の勢力をも見込んでのことに違いない。このことは頼朝のシナリオにはあってはならないことである。だから頼朝は弟の義経を殺し、奥州藤原氏を滅亡させた。一方ネルフは使徒殲滅と人類補完計画の遂行機関として存在していたが、補完計画のことを知っているのはゲンドウをはじめごく一部の人間だけである。従って使徒殲滅を果たした後のネルフは、ゲンドウのシナリオの中ではすでに用済みとなっていたのではないか?押し寄せる戦略自衛隊(義経追討の鎌倉軍団)、孤軍奮闘の末9本のロンギヌスの槍に貫かれるエヴァ弐号機(まさに弁慶の立ち往生・・・)、地獄と化してゆくジオフロント・・・。このこともゲンドウのシナリオには載っていたのかもしれない。あとは『約束の時』さえくれば彼のシナリオは完結するのである。ゼーレのシナリオさえ欺くことができれば・・・。





第伍話『ホントウのマゴコロをキミに』

私も含めて人々がエヴァに惹かれていったのは物語の謎や作画の緻密なディテール、予想外の結末等が引き金になっていたのは間違いない。が、完結を迎えた今後もしばらくはこの作品の本質や背景の設定、原作者庵野秀明の思考について様々な意見がでてくるだろう。実際映画のあのラストシーンについても賛否両論がネット上において飛び交っているし、エヴァのホームページには創作小説などでいまだに勝手な物語の補完が続いている。これは、源義経が実際には平泉では死なず蝦夷へと逃げのびたとか、大陸にわたってジンギスカンになったとか、安徳天皇も実際には九州に落ちのびた等の伝説が生まれた状況に非常によく似ている。実際私もネット上の私作エヴァ小説はよくチェックしているし、中には本当に物語として質の高いものもある。平安時代から鎌倉時代へと移行してゆく世界、それは正に旧世紀から新世紀へのシフトでありその中で生まれた滅びゆくものの悲劇『平家物語』、そして20世紀終焉の時に生まれた破滅と崩壊の物語『新世紀エヴァンゲリオン』。このエヴァの生まれた私たちの世界とはどのような世界なのか?そしてその未来は?それをここで定義することは私にはできないが、『今、この時』という時代の流れ・接点を考えると、この物語は生まれるべくして生まれた現代の『平家物語』そのもののような気がする。そして物語はSFの要素・西洋宗教的要素・哲学的要素・心理学的要素とさまざまな現代風アクセサリーを纏いながらもその本質は非常に『日本的な黙示録』なのである。

この物語が受け入れられた本当の理由は、いままでマスコミや人の口の端にたったことだけではなく、その根本が私たち日本人の中に知らず知らずのうちに刷り込まれていた『滅びの美学』に対する琴線に無意識のうちに触れていたからではないか?つまり『散り行く桜』『判官びいき』といった『敗者への賞賛』とでもいうべきものである。このことが日本人特有のものであることは、井沢元彦氏が『逆説の日本史』のなかで言及している。

ただ、『新世紀エヴァンゲリオン』の破滅へと向かっていく様はあまりにも生々しすぎた。しかしそれは平家物語が生まれた時代と現代との『時代の違い』によるものである今まで信じ、あるいは恐れ敬ってきたものの価値観があまりにも違い過ぎる。そして動乱の世であったから平家物語が生まれ、見せかけの平和の時代にエヴァンゲリオンが生まれた。それだけのことである・・・。

このようにこの物語を捉えることは、たぶん庵野自身も思っていなかったはずだ。庵野がこの作品で本当に伝えたかったことは、多分彼自身誰にも言わないだろう。しかしこの作品が『現代日本の黙示録』として存在することはまちがいない。これからもエヴァファンの人たちはいまだ明かされていない物語の謎や主人公たちの未来、原作者の製作意図について語り合っていくだろう。もちろん私もそうしていくとは思うし、それはそれでこの物語のもう一つの真骨頂でもある。が、そのことばかりを追いかけていくのは本当のエヴァンゲリオンの楽しみかたではない。

なんにしてもこれほどいろんなことを考えさせてくれた作品を、同級生の庵野秀明という人間が作り上げたということを私は非常にうれしく思う。





あとがき この文章を書くにあたり、吉川英二作『新平家物語』、井沢元彦著『逆説の日本史』を参考にさせていただきました。





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