私がマツダ好きなワケ

何を隠そう、私は自他ともに認める大のマツダファンです。
どうして?と訊かれる前に、私とマツダの関わりの歴史を振り返ってみましょう。
≪家族と共にいたマツダ≫
 まずは、私の小さい頃から
家のクルマがずっとマツダ車(=ファミリアバン)だった事実があります。父親の仕事の関係でそうだったんですが、毎朝会社に出かける父親を見送るときも、休日に家族でドライブに行くときにも、常にそこにはマツダのクルマがありました。過去のアルバムを見てももちろんそう。私の生まれて間もない頃の写真には、3輪トラックや初代のファミリアバンがしっかりと写っています。
 すべてのクルマに思い出はあるのですが、とくに、小学生から中学生の頃にかけて、古いクルマの写真を撮るために休日のたびに県内・県外を問わずドライブに連れて行ってもらった、’80年代前半の
ファミリア1300デラックスバンには特別の愛着があります。助手席ナビゲータとして地図を手にしつつ、カメラを握りしめ、キョロキョロと道端の古いクルマを探し続けていたものです(^^)。思えば初めて「カー・クーラー」を目にしたのもこのクルマでした。
≪サバンナRX−7の記憶≫
 次に、時代は多少前後しますが、日本じゅうがスーパーカーブームに沸いた小学生の時、
衝撃的なデビューをしたのが初代サバンナRX−7でした。思いっきり低い車高にリトラクタブルライト、まんまスーパーカー・ルックで鮮烈にデビューしたこのクルマには強いインパクトを感じたものです。すぐにミニカーやプラモデルを買ってもらいましたね。
 ただ、当時はメカニズムにはほとんど興味がなくて、ひたすらそのカッコ良さだけが強烈に記憶に残っています。ちょうどその頃、学校のバス遠足で広島のマツダの工場見学をしたので、いっそうマツダの印象が強くなったのかもしれません。
≪オート3輪への興味≫
 さらに話は続きます。スーパーカー熱は冷め、次第に国産車そして古いクルマへと興味の中心は移り、それらの写真を本格的に撮り始めた中学生の頃、自分がもっとも好んでレンズを向けたのが「3輪トラック」でした。すでにナンバー付き車は少なくなっていましたが、正面から見ると犬がペロリと舌を出したような、何とも愛嬌のある面構えと、もはや4輪車が当たり前の街中にあって、ふと出くわした時に醸し出す何ともミステリアスな雰囲気が、私の心を強くとらえたのでしょう。
 そして、
撮影した3輪トラックの大半が東洋工業製だったのは、広島に近いという土地柄と、「T2000」というモデルが国内向けではもっとも遅くまで生産が続けられていたオート3輪だったからで、ちょっと田舎に行けばまだまだ現役としてバリバリ活躍している姿を発見することができました。
 戦前、そして終戦直後は国内に何十社という3輪トラックメーカーが乱立していたものの、町工場規模のメーカーはあっという間に淘汰され、ほどなくダイハツと東洋工業とに勢力は2分された歴史があります。軽3輪ではミゼットに対してK360、オート3輪ではCO・CMシリーズに対してTシリーズと、お互いがライバルとして最後までしのぎを削ったんでしょう、両社のクルマとも数多くの写真を残すことができました。
≪レーシングロータリーとの出会い≫
 さあ、仕上げは間違いなく大学時代に観戦したレースで
ロータリーマシンの勇姿に魅せられたことです。大勢のレシプロ・ターボ勢に伍してNAのロータリーで戦うチャレンジングスピリット、その姿には強く惹かれました。そもそも、こうした耐久レース活動の発端が、未知のエンジンであるロータリーエンジンの信頼性・耐久性を全世界に実証するための海外耐久レース参戦だったわけですから、そこには自社の固有技術に対する確固たる自信とこだわりが存在していました。
 特殊な機関ゆえ、メジャー勢力に対しレギュレーションで不利な条件を付きつけられるのは世の常というもの。しかしそれにも決してめげずに永年にわたって戦い続ける姿勢は、私にとってはサーキットで目にするマシンの派手なアピアランス以上にとてもカッコ良く映りました。
 この思いは、仮に91年のル・マン制覇という最高の結果がなかったとしても、全く変わることはありません。
 こうして私はマツダファンになったわけですが、その理由を突き詰めていけば、いつの時代にもマツダには、よそにはない魅力を持った個性的なクルマたちがあったからでしょう。一人のクルマ好きとしても、世界に誇れる固有の技術を有する日本車メーカーであるマツダには頑張って欲しいし、他社には絶対に負けないでもらいたいと思います。

 バブル崩壊以後、しばらく元気のない時期が続き、本当にファンはやきもきしましたが、最近の業績の回復を聞いて我が身のように心から喜んでいます。辛抱強く待った甲斐があったというものですね。今後もマツダらしい、しっかりと主張の込められた存在感のあるクルマづくりを期待しています。そして体力が十分に回復したら、私のような大のマツダファンをまた一人養成するために、ZEHIやってもらいたいことがあります。
 それは、一刻も早い
モータースポーツへの復帰。そのステージはGTカーでもいい、スーパー耐久でもいい。サーキットを疾走するマツダのワークスマシンを、声をからして応援するその場を再び設けてもらいたい。そしてできることなら、あの素晴らしいレーシングロータリーサウンドを、これからの時代を担う日本の若者や、ル・マンへの挑戦を永年温かく見守り続けてくれたユーノディエールの住人たちに再び聞かせてあげてほしい。

 かつての自分を夢中にさせた勇壮な雄叫び、
マツダにしか奏でることのできない孤高のメッセージを。