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それは忘れもしない7月10日、おりしも私の誕生日にかかってきた新宅選手からの電話でした。 「おや、WW2サポート隊の人員確認にはまだちょっと早いよなぁ・・・?」と思いつつ電話をとると、俄かに信じられないような言葉が。 「今回は檜井さんが乗ってくれることになったよ」 「えっ!・・・・」 |
2004年S耐TI戦での桧井選手 (マシン:#60 NicoCut S2000) |
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ところが期せずしてそんな夢のような体制が現実のものになろうとしているのです。 しかもその経緯を聞けば、偶々檜井選手とチームの双方の思い・タイミングが合致した結果だとのこと・・・もうこれは運命の巡り合わせとしか言いようがありません。 チームとして望み得る最高・最強の布陣の実現に、高まる期待と身が引き締まるような緊張感。 様々な思いが一瞬のうちに交錯した、新宅選手との短い交信でした。 ただ正直に告白すると、あまりにメジャーな檜井選手のチーム参画話に、私はエントリーリストの正式発表まで、どこか半信半疑の思いを捨て切れないでいたのも事実です(笑)。 ■そして、最強のサポート隊の結成 昨年はタイヤメーカーをスイッチするというチーム創設以来の大決断に伴って、マシンのカラーリング変更という一大作業が勃発。このため、必然的にかなり早い段階から準備作業を強いられ、muneさんが中心となって新カラーリングの本格検討に入ったのは、昨年の6月頃のことでした。 しかし、ニューカラー2年目となる今年は、少なくとも私達WW2の守備範囲に変更はなく、私がサポート隊の編成準備を始めたのは例年通り、8月の後半になってからでした。 但し、この間もチーム本隊とエンジニア班は今年のレギュレーション改訂に伴う触媒装着をはじめ、マシンの随所に渾身の改良を施し、新加入の檜井選手も交えた走行テストを精力的に重ねていました。 S耐参戦の現場でのサポート活動も8年目を迎え、レースウィーク中の担当作業も確立してきたWW2サポート隊。その存在や役割はチームテスタスポーツのメンバーにもすっかり認知されています。 実例を挙げれば、決勝レース中の給油作業に欠かせない耐火服の新調にあたっては、T−eMさんと克ちゃんの立派な体格を考慮してサイズ決めをしてもらったほど。(その後の各自の体格変化までは責任を持てませんけどね・・・)。 よって、サポート隊の陣容もある程度は確定済みのようなもので、T−eMさんと克ちゃんもそれを見越して早々と仕事の調整を進め、3日間のスケジュールを確保してくれていました(^.^)。 一方で、チームからの様々な要請に柔軟に応えていくためには、WW2内の要員育成も急務。というわけで、今回3人目のサポートメンバーとして白羽の矢が当たったのが、5年ぶりに米国出向から帰ってきたばかりのこーぢさん。 こーぢさんはWW2では数少ないMINE戦や富士戦の遠征経験者で、本人も5年ぶりのパドック復帰を心待ちにしており、無事に(いや、強引に?)家族の承認をとりつけて現場復帰の運びとなりました。 もっとも私は、昨年のレースでWW2オフィシャルカーとして大活躍したフレンディ号を、帰国直後にファミリーカーを探していたこーぢさんへさっさと譲渡していたわけですから、先に外堀を埋めるという極めて計画的な犯行だったともいえます(^^ゞ。 さて私Nukupeeはというと、参加は早々に確定していたものの、自身のRX−7で乗り付けてスペアカーを提供すべきか、8人乗りのビアンテ号でチームの人員輸送に貢献すべきか最後まで悩んでいました。 最終的には、土曜朝に広島市内でチームメンバーをピックアップする役を引き受け、サポート隊から一日遅れて現地入りすることを決めたのですが、これは昨年、朝8時到着を目指して3時起きを強いられた私が、日没以降に激しい睡魔に襲われて苦しんだという苦い体験に基いた判断でした。 広島のチームをサポートするのに、その隊長が誰よりも遠く離れた山口に居住しているわけですから、何とも歯痒いところです(苦笑)。
まず燃料缶の識別用のマグネットプレートは、昨年まで有り合わせの白ガムテープで代用していたもので(笑)、大幅な体裁改善を図っています。
さて迎えた土曜日。朝4時半にビアンテで周南市の自宅を出発し、予定通り2人のチームメンバーを広島でピックアップして、9時半頃にパドックに到着。
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2ラップ限りのアタックを終えて私達のピットへ戻ってきた檜井選手。
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