マツダ787B JSPC仕様がお台場を疾走!

MOTORSPORT JAPAN 2008 Festival in Odaiba






2年半の長い沈黙

 1991年のルマン24時間レースで総合優勝を飾ったマツダ787Bは、マツダの30年間にわたるモータースポーツ活動の集大成として最もシンボリックなマシンといえます。
 日本車初のルマン制覇という偉業達成から17年の歳月が経過した今でも、その輝きは衰えるどころか、モータースポーツ史に燦然と輝く記念碑的な存在として、その歴史的価値は高まりつつあります。

 マツダのモータースポーツ復帰の日を待ち侘びる私達WW2も、このマシンには最大級の敬意を払いながら、常に熱い眼差しを向けてきました。
 また、その787Bの
デモランともなれば、ルマンでトップチェッカーを受けた優勝マシン(002号車)そのものが登場。他に類を見ない迫力満点の4ローターサウンドと相俟って、活力に満ち溢れた当時のマツダワークス活動の息遣い、そして、レーシングロータリーの完成形ともいえる究極のマシンパフォーマンスをダイレクトに感じ取ることができる千載一遇の好機となります。
 もはやそれは、伝説を今に再現する格式高い「儀式」といっても過言ではありません。

 
私達WW2メンバーも、事あるごとにその咆哮を生で感じ取るために、数少ない一般公開イベントの情報を聞き付けては、万難を排して馳せ参じたものです。
 最も記憶に新しいところでは2005年10月、今はなき山口県のMINEサーキットで開催された「ルマン クラシック・ジャパン」

 二日間にわたって開催されたこの国際的イベントの両日、トヨタ、ニッサン、ポルシェ、アウディの近代ルマンカーと混じり、寺田陽次郎選手のドライブするマツダ787Bが出走。他のレシプロエンジン勢とは一線を画す個性的なロータリーサウンドを轟かせながら、鮮やかなCHARGEカラーのマシンが本コースを駆け抜けていくシーンを、私
Nukupeeをはじめ、KojiさんT−eMさんぬまさんfamilia09さんがしっかりと瞼に焼き付けました。いや、その音色と脈動を体に覚えこませたといった方が正しいかもしれません。


【ルマンクラシックジャパンでの787B(2005.10.30)】

緑絨毯の上で待機中の787B

ニッサン、ポルシェを従えてヘアピンを通過


 しかし、年一回かそれ以上のペースで実現していたマツダ787Bのデモ走行も、2006年3月に富士スピードウェイで開催された「タイムマシーン・フェスティバル」への出走を最後にパタッと途絶え、それ以降はまさに「音無し」の状態が続いていました。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 もちろん、広島のマツダ本社にあるマツダミュージアムに行けば、雛壇に鎮座する本物の787Bの姿を拝むことはできます。しかし、レーシングカーたるものは走ってナンボです。単なる置き物に甘んじていては本来の魅力の10分の1も披露できていないといっても良いでしょう。とくに787Bが、他には例を見ない個性的なロータリーサウンドを奏でることのできるマシンであるだけに、その思いはより一層強まります。

 しかし、少し見方を変えてみると、デモ走行には常にリスクが付き纏うため、唯一無二のメモリアルマシンに何か起きてしまうことをマツダが強く警戒するようになったとしても消して不思議なことではありません。
 おまけに、モータースポーツ活動休止から20年近く経ち、レース部隊であるマツダスピードを消滅させて久しい今のマツダでは、17歳のレーシングカーを満足に走行させることもままならないのかもしれません・・・。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 「もう787Bが走ることは永遠にないのか・・・」

 787Bがデビューした1991年、富士スピードウェイでのJSPC戦2レースを通して、延べ500ラップ以上もグランドスタンドから787Bが全力疾走する姿を見守った私にとって、あれほどまでにレーシングロータリーの迫力を伝え、マツダの強烈な存在感を主張できる787Bの走行を封印してしまうことはあまりにも惜しく、そればかりかマツダにとって重大な過ちとさえ思えました。
 万に一つでもそんな事態は信じたくないというのが私の偽らざる気持ちでした・・・。



 そんな中、久々にマツダ787Bがデモ走行をするという嬉しいニュースが飛び込んできました。

 そのイベントとは、東京お台場の特設会場を舞台に開催され、今年で第3回目を迎える日本最大級のモータースポーツイベント、
「モータースポーツジャパン 2008」
 しかも、10/4(土)、10/5(日)の二日間に走行予定マシンとして紹介されている787Bは、
ルマン24時間レース優勝「同型車」・・・なんと、JSPC仕様の202号車だったのです!


 実はこの202号車は、私にとって大変思い出深いマシンでした。
 悪天候に見舞われた1991年10月のJSPC第6戦・インターチャレンジ富士1000km。この大荒れのレースで、逆CHARGEカラーをまとったこの202号車が、アンフィニカラーの201号車を従えたまま
3−4フィニッシュを飾り、従野選手とケネディ選手が久々に表彰台に上がる姿を、私はグランドスタンドでずぶ濡れになりながら見届けたのです。
 マツダの表彰台フィニッシュにすっかり気を良くした私は、帰途に立ち寄ったファミレスで、同行した友人に特製ステーキを奢ったことを覚えています(笑)。

 あの202号車、つまりはシャシーナンバー003の787Bが久々に走行すると聞いた私は、居ても立ってもいられなくなり、金曜の深夜まで悩んだ末に、急遽二日目の10/5(日)に照準を絞り、この202号車の雄姿を見るためだけに、わざわざ山口から東京まで日帰り往復を決行することにしたのでした。




●003号誕生の経緯

 ここで003号車が登場するまでの背景を少し振り返ってみましょう。

 1986年のマツダ757から始まったマツダの本格的なグループC(厳密にはIMSA−GTP規定)マシンによるレース活動は、あくまでルマン24時間レースを最大のターゲットに据えたものでした。このため、ルマンを除く国内外の耐久レースはマツダにとってルマンプログラムにおける実戦耐久テストという位置付けであり、個々のレースでの好成績は追求していませんでした。
 おまけに国内選手権(JSPC)においては、トヨタ・ニッサン・ポルシェといったレシプロターボ勢の最低車重が世界選手権よりも軽く設定されていたので、一発の速さよりも耐久性を重視したロータリーマシンに勝ち目はなく、毎レースともにトップのマシンに10周近くラップされ、リザルトもせいぜい6位か7位止まり、というのが常でした。
 それでもマツダファンは、大勢のレシプロマシンに伍して圧倒的な存在感を放ち続けるレーシングロータリーのサウンドに酔いしれ、目前のレースではなく世界の頂点を目指していることを心の拠り所として、マツダのGTPマシン達に熱い視線を送り続けたものです。


 そんな中で1991年、ロータリーでルマン24時間レースに出場できるラストチャンスに賭け、満を持してマツダが送り込んだマシンが
マツダ787Bでした。
 787Bはデビューレースとなった
SWC開幕戦・鈴鹿で、FIAの肝入りで導入された自然吸気3.5Lエンジン搭載のC1カテゴリーマシンに交じって、480kmのスプリントレースを総合6位で完走(001号車)。優勝したプジョー905からは3周遅れで、旧来のグループCカーが属するC2カテゴリーの中では、総合3位でゴールしたポルシェ962CKから1周のビハインドでした。
 これに続き、JSPCのデビューレースとなった5月の
富士1000kmでは、シェイクダウン後の初レースとなった002号車が、優勝したニッサンR91CPから僅か2周遅れで、222周(約990km)を走破して6位に入賞。とくに、レース終盤まで787Bが国内有力プライベーターのポルシェ勢を全て抑え込んで4位の座を堅持していたことは、マツダファンならずとも十分に驚きに値する好パフォーマンスでした。
 この2レースで見せた目覚ましい躍進のリザルトからも、787Bのポテンシャルが前年までの767Bや787と比べて遥かに底上げされていたことは一目瞭然でした。

 こうして、翌6月のルマンでこの002号車が夢にまで見た総合優勝を成し遂げ、十数年にもわたったマツダのルマンチャレンジが遂に実を結ぶことになったわけですが、ここで永年の目標を達成したマツダスピードはひとつの方向転換を見せます。

 それは、ルマン24時間という鎧を初めて脱ぎ捨て、それまで嫌になるほどライバルマシンの後塵を拝してきた国内耐久戦でのリベンジに照準を合わせることでした。いくらレギュレーションの違いからターボ勢が優遇されているとはいえ、世界を制した787Bが地元日本のレースでごぼう抜きされていては面目が丸潰れというものです。
 そこで、ルマンに比べるとレース距離が圧倒的に短く、年々スプリント色を濃くしていたJSPC戦に合わせるために、ルマン用としては究極の完成形に達していた787Bに大胆なメスを入れ、
軽量化のモディファイを施すことを決めたのです。4灯ヘッドライト廃止という最も特徴的な変更を筆頭にして、ラジエーター、オイルクーラー、バッテリーに至るまで徹底的な小型軽量化が図られました。

 このコンセプトに基づき、ルマンで6位に入った
001号車と共に、002号車の永久保存化に伴い急遽追加製作された003号車が、いわば「787C」と称されるべき最新バージョンへと進化したのです。
 この際、002号車からレナウン社のスポンサードを引き継いだ003号車は、個性的なCHARGEカラーの
オレンジ色グリーン色を反転させた逆配色を採用したことから、767B時代からファンが慣れ親しんだCHARGEカラーとはやや違う雰囲気を醸し出すこととなり、大型ヘッドランプを廃した個性的なフロントスタイルと相俟って、私の記憶にも一際強く残るJSPCマシンとなったのです。


●期待を超えた蘇生手術

 それほど思い出深い787Bの003号車と私がまず最初に再会を果たしたのは、003号が最後のレースを戦い終えてから4年が経過した1995年の10月のことでした。
 当時のマツダスピードが全国のマツダディーラーに展開していた「スポーツファクトリー」の山口徳山店のオープン記念イベントで、この003号車が地元ディーラーに展示搬入されていたのです。

 そういえばこの時のセールで私
Nukupeeは787Bのウィンドシールドを、familia09さんはサイドドアを個人購入したのでした(笑)。

スポーツファクトリー山口徳山にて
(1995.10)
 そして2度目の対面となったのは約4年前の2004年の夏、場所は神奈川県にあるマツダの横浜研究所でした。

 しかし、ここで展示されていた003号車には、かつてマツダスピードの手によってデモランに担ぎ出されていた1990年代後半の面影は薄れ、フロントカウルの色褪せたオレンジ色が象徴するように、マシンの随所に綻びが見て取れました。
 損傷の激しいリアカウルに、クラックの入ったウィンドシールド。フェンダーミラーは紛失し、挙句の果てには正規のCHARGEカラーベースのリアカウルが被せられてオリジナル度の低い外観仕様になっており、当時の202号車の精悍な姿を知る者にとっては、恐ろしく忍びない有様でした。
 

マツダ横浜研究所にて
(2004.8)
 本当にあの003号車がきちんとした姿でイベントに登場してくれるのだろうか・・・?

 私がそんな疑念を抱いても全く不思議ではない惨状でした。
 あの横浜研究所での姿のままで登場するなどということは、ファンとしては決して想像したくありません。


 
しかし、そんな私の思いは全くの杞憂でした。
 お台場に姿を見せた003号車は破損箇所が丁寧に修復され、マシンの後半部分の逆CHARGEカラーも見事に復元されていたのです!

 確かに細かく見れば、リアタイヤのスパッツが未装着だったり、色褪せたフロントカウルと色味の違いがあったりと多少の違和感が残るものの、そんなのは些細な事象に過ぎません。
 ルマン優勝車の002号車が不気味な沈黙を続けている最中のこの時期に、今こうして新たに003号車をレストアしてまで持ち込んだマツダの心意気が何よりも嬉しく、ファンとして誇らしく思えました。



フェンダーミラーやアンテナを復元

リアカウルはグリーン基調に回帰


 すっかりお化粧直しをされ、リニューアルされた003号車の姿を一目見られただけでも、わざわざ遠路遥々駆け付けた甲斐があったというものです。

 無論、十年近いブランクを経て久々に爆音を轟かせた003号車のR26B・4ローターエンジンの咆哮は今も健在でした。デモ走行前のウォーミングアップで火が入ると、お台場の近未来的な高層ビル群に響き渡るレーシングロータリーの鼓動を聞きつけ、あっという間にマシンの周囲に黒山の人だかりが出来上がってしまいました。

 そして大勢のファンが注目する中で、メカニックの手によって003号車は
フォン、フォン、フォン・・・と小気味良いリズムで甲高いレーシング音を響かせていきます。


003号車の暖機の様子を見つめる人、人、人・・・


 この音色、この音量、この振動・・・まさにこれ、コレなのです!(^^)

 他のどのレーシングカーとも似ていない弧高のサウンド。
 当時のトヨタやニッサン、ポルシェのターボエンジン車は言うに及ばず、今こうしてお台場に集結したホンダやトヨタのF1エンジンさえも脇役に押しやったかと思える程に美しく、際立つ個性を放ち続けるこの勇壮な雄叫びは、787Bにしか奏でられないミュージックなのです。



●パフォーマンス以上に大切なもの

 二日間の今回のイベントで787Bのステアリングを握ったのは
中谷明彦選手寺田陽次郎選手

 イベントの公式HPにはロータリー使いの第一人者である
片山義美氏の名前が掲載されていたので、私は片山氏の登場を信じて疑わなかったのですが、一日目にはどういうわけか中谷選手が登場。
 当時を振り返れば、東洋のポルシェワークスと称されたノバエンジニアリングのエースドライバーとして、フロムエー・ポルシェを駆ってJSPCを戦っていた中谷選手が、17年の歳月を経て同じコース上で戦ったライバルマシンのステアリングを握ったことになります。聞いたところでは中谷選手は土曜にこの歴史的遺産・787Bで派手なドーナツターンを何回も披露し、詰め掛けた観客を大いに沸かせてくれたようです。
 
 今回のデモランコースは、青海地区・NOP街区の駐車場を利用して作られた特設コースのため、その広さ(狭さ)は推して知るべし。この僅かなスペースでデモ走行を披露した新旧レーシングカーもその本来のポテンシャルを発揮するには程遠く、一瞬の加速音と派手なドリフトパフォーマンスで観客を楽しませるしか術がありませんでした。
 とはいえ、山奥のサーキットまで何時間もかけて足を運ぶことなく、都心に居ながらにしてその迫力の一端を垣間見られるという意味では、このレベルのデモ走行でもそれなりの価値はあるのでしょうね。



お台場の会場風景
(デモ走行コースは画像中央部から左側にかけた一帯)



 さて、我らが787B・003号車も決してその例に漏れることはありません。
 私が寺田選手のドライブを見届けた日曜も、FISCOの長いストレートを全開で駆け抜けていく大迫力のシーンと比較してしまうと、この箱庭のような狭いスペースでのパフォーマンスには大いに物足りなさを感じたことは事実ですが、少なくとも会場に詰め掛けたモータースポーツファンには、たとえ部分的であれ、787Bの4ローターエンジンの迫力と強い存在感がダイレクトに伝わったのではないかと思います。

 こうして、マシンのデモンストレーション面ではやや消化不良なところもありましたが、それも想定の範囲内。私は前述した通り、003号車が現役当時の姿そのままに表舞台にカムバックしてくれたこと、そして、98年のエビスサーキットでのイベント以来約10年ぶりとなるデモ走行を元気に披露してくれたこと、その2つをこの目で確認できただけで十分に満ち足りた気分でした。



●将来への布石

 今回の003号車が登場したことによって、傍目には、歴史的価値の極めて高い002号車をうまく温存しつつ、その比類なきパフォーマンスの披露は003号車が受け持つという、マツダの思惑の一端が見てとれたような気がします。
 今後は、この003号車が新たに孤高のロータリーサウンドの語り部となって、国内外のイベントで活躍してくれるものと信じていますし、003号車に続く第2、第3のマシンレストアにも期待したいところです。
 差しあたって、マツダのお膝元でもあり、私達WW2メンバーに縁の深い中国地方でのデモランをぜひ実施してもらいたいですし、そのうちいつか002号車と003号車のランデブー走行が実現するのでは?などと新たな期待も膨らんでいきます。


#55と#202の共演がいつかは・・・?


 ここ当面、マツダワークス復活の機が熟すまでの間は、まだまだこの787Bにはデモランのパフォーマンスを続けてもらわないといけません。
 なぜなら787Bには、その素晴らしい栄光の再現を通して、ワークス活動復帰に向けた雰囲気づくりや機運の醸成をも担ってもらう必要があると私達は考えているからです。
 弧高のサウンドに思わず陶酔してしまう787Bのデモラン。その尊いパフォーマンスが、結果的に私達WW2の夢の実現を強く後押ししてくれることを願ってやみません。