空の中の煙

僕はあまり煙草を吸わない。かつては一日ひと箱は必ず灰にしていたが、今は吸わない。
別に禁煙している訳じゃなくて、煙草がなくても苦痛じゃない体質だからである。
経済的だし、健康にも良い。ただ、飯食った後とか、酒呑んでいるときとか緊張した後なんかに一服すると、心から旨いと思う。したがって煙草を受けつけないタチでもない。
禁煙喫煙両刀使いである。
最近では主に経済的な理由から禁煙している事が多く、時には煙草吸わない暦が一月にも及ぶ。そんな時(禁煙期間が長期に及んだ時)は、嫌煙家の人達の気持ちが一部分、わかる。あくまでも一部分だが。
吸わない人にとって、煙草の臭いって、臭いのだ。実に臭い。
臭い、臭い、臭い、臭い、臭い。
あと、あの煙り。実に煙たい。息が出来ない。
けむい、けむい、けむい。
ようするに、煙草は臭くて、臭く、臭く、臭い。そしてけむくて、息が出来ない。
しかも肺がんになる。(くどいでしょ。これも嫌煙家の特徴ね)
嫌煙権の発達したアメリカでは、公的な場所では全てが禁煙!禁煙!
その徹底度は喫煙者にとって、ほとんど感情的なのではないかと、疑りたくなってしまうほどである。煙草吸うのがそんなに悪い事なのかよー。誰にも迷惑かけていないじゃん、と。でもそれは喫煙者側の理屈であって、嫌煙者側にすれば、悪くて迷惑な行為なのである。
さて、飛行機の話。僕は基本的に動かないタチなので、あんまり旅行はしない。ましてや飛行機に乗る事なんざ、ない。
生まれてから30年以上がたつが、飛行機に乗ったのは10年前に札幌に出かけた、一度きり。日本国から出た事は、一回もない。
だからここから先は知り合いに聞いた話であって僕自身の体験ではない。あらかじめ断っておきます。
こないだのゴールデンウイークに彼はタイのプーケット島に遊びに行った。
成田空港からタイ航空の旅客機に乗って、南の島を目指したのだ。4泊5日。太陽がいっぱい、である。成田からプーケットまでの所用時間は5〜6時間から8〜9時間。
近年、航空機の中は全席禁煙。かつては喫煙席と禁煙席をもうけて、喫煙者と非喫煙者の分別をし、各々の共存をはかっていたのだが、今は違う。煙草は毒。喫煙は罪悪とみなされる。これはアメリカ合衆国の影響によるものらしい。
先進国、米国で公共施設における喫煙の閉め出しが強化され、航空機内においてもその例外ではない、と。アメリカと関係がないはずの、タイ国に向かうタイ航空の機内で、なんで合衆国の法律が横行するのか、その事情は知りませんが、とにかく成田発プーケット行き航空機の室内は全席禁煙。ファーストクラスだろーが、エコノミーだろーが、ダメなものはダメ。僕の友人Wは男のくせに海外旅行が趣味で、最低でも年2回は国外に逃避するというツワモノなので、そのへんの事情はよく知っている。彼も愛煙家で、機内ではずいぶん辛い思いをするそうだが、あらかじめ覚悟はできていたので、まぁ我慢していたそうである。
赤道近くの目的地に着くまでの何時間かは、結構長いものである。日本との時間差は約2時間。早朝の便で出発したから眠くもならないし、退屈である。本を読んだり、音楽を聞いたりと、そんなを事しながら飛行機が現地に着くのを待っていた。
このとき、彼の斜め後の席に、やたらと声のデカい30才くらいの男がいたらしい。機内食が気に入らないらしく「まずい」だの、サービスがどうだのと、とにかくやかましいったらありゃしない。特定の乗務員が気に入らなかったり、食事が口に合わなかったりなどは誰にでもある事だ。ただ、公の場でしかも乗り物の中みたいな極めて人口密度が濃密なところで、標準以上の声量でしゃべるような話ではない。不平不満は他人には聞こえないところで内輪で話すものである。でないと、見苦しい。
友人Wはせっかくのバカンス気分に水をさされたような気がして、ちょっと嫌だったらしい。リゾート行きの観光客の中、オールバックのヘアスタイルにノータイとはいえ、ただひとりダークスーツを着こなし、大声で機内食に文句をつける男。
友人Wは、心の中で男の事を密かにミスター.ヤマオカと命名した。(劇画「美味しんぼ」の主人公の名前ですな)

Wはここで、椅子を倒して目を閉じて瞑想にふけった。
プーケットはタイの南に浮かぶ小さな島で、「南国のリゾート」を絵に描いたような所である。目指すホテルは島の東南部、パンワ岬の突端に位置する。昼間はビーチにデッキチェアーを拡げてパラソルの下、のんびりと水平線を眺めながら冷たいビールを飲んで過ごそう。ホテルにチェックインした夜にはタイ式マッサージのサービスをオーダーするつもりだ。ゆっくりと身体を解してもらおう。そして夜は...今、隣の席で寝息をたてている彼女と...
ビーッ、ビーーーッ、ビーーーーーーーーーーーーー
突然、機内に警報機のブザーが鳴り響いた。
「!!!」
他の乗り物ならともかく、大平洋上空数千メートルの飛行機の中である。それまで寛いでいた乗客達がいっせいに凍り付き、客席全体に張り詰めた緊張感がただよった。
前方の乗務員室から青ざめた表情のスチュワーデスが男性の乗務員を伴って出てきて、機内の後方に向かって早足に歩いていく。何事なのだろう。乗客達は最前列から順番に将棋倒しのように彼らの背中を振り向き、その後ろ姿を視線で追う。
「どうしたの?」
「故障か?」
「......。」
不安な表情とともに彼方此方から小さな声が聞こえる。僕の友人は気は弱いけど、好奇心は強い男だ。となりに座る彼女の手を握りながらも、座席から身を乗り出して成りゆきを見守った。ふたりの乗務員は機内のある場所の前にたどり着き、その前に立ち止まった。
どうやらトラブルの原因は使用中のトイレの中にあるらしい。スチュワーデスがドアをノックしている。
「お客さま、どうなさいました?」よく聞こえないけど、そのような事を言っているのだろう。でもロックされた個室の中からは反応がないみたいだ。彼女はなおもノックする。
コン、コン。コン、コン...。
今や乗客全員の視線はその一点に集中している。なにがあったんだ?
やがてトイレのドアが少しだけ開いたようだ。声は聞き取れないが、その隙間から中の人物と彼女が会話している様子が伺えた。雰囲気では重大なトラブルではなさそうだ。どうやら最悪の事態ではないらしい。しかし、その表情はうかがえないけど、スチュワーデスは真剣かつ深刻な態度である。
2〜3分ほどの会話の後、出て来た出て来た、ダークスーツの30男。あれはミスター.ヤマオカだ。しかもズブ濡れだ!
これでわかった。
ミスターは便所で煙草を吸ったのだ!
その結果、煙に反応して警告音とともにスプリンクラーが作動し、個室の中に滝のごとく水が降り注いだのだ。それで煙草の先の火の元を消火したのである。
僕の会社のトイレにも煙探知機があって、誰かが個室で煙草を吸ったりすると、警告音がなるケースがあるけれど...。ジャンボジェットの中だとスプリンクラーまでが反応するのである。勉強になりましたねぇ。危ない危ない。みなさんも気をつけましょうね。
しかし、ミスター.ヤマオカにとっては笑い事では済まされない。皆の注目を浴びた中で生き恥をさらし、その上に追い討ちをかけるように罰金まで請求されたのだから。
その金額、三万USドル!
一円120円換算で、360万円!
煙草を吸ったというだけで、360万円。高い、高すぎる!
だが、先に述べた航空機の中における規則は誰だろうと厳密に摘要される。例の禁煙に関する法律である。座席に戻ったミスター.ヤマオカは乗務員から差し出された書類に何やら書いていたそうだ。360万といえば「プーケット5日の旅」を30回は体験できる金額だ。
これ、あまりにも可哀想だと思いませんか?いくらなんでも厳しすぎますねぇ。
でも嫌煙家の人々なら「当然の処置!」と、きっぱり言うかな?


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