夏の風情

去年の八月に同じ標題で文章を書いたことがある。
真夏の休日に近所のショッピングセンターに出かけた時の話だ。
本屋でブラブラしていたら、僕好みの可愛い女の子がいたので注目していたら、ちよっとしたハズミで彼女のパンツを見てしまった。なんというラッキー!
「ワーイ!おれ、幸せ!」という内容のアホな随筆である。
ちまたでは、かなり短いスカートをはいた女の子は多い。なにかの偶然で彼女らのパンツが見えてしまうことも、一年のうち何回かはある。しかし、可愛い娘のパンツとなると、そう簡単に拝める機会はないものだ。皆無に等しいと言っても過言ではないだろう。
なぜならば、いい男同様、いい女っちゅうものの絶対数も、その供給が需要にたいして圧倒的に不足しているからである。だからして、昨年の僕はその栄えある偶然に対して心から感謝し、またこれからも同じような機会に巡り逢えるよう日夜努力することを誓い、日頃の行ないを良くして、神の祝福を与えられるように、毎晩祈りを捧げていたのである。
ついでに「夏の風情」なんていうバチあたりな文章を、パソコン通信の掲示板に公開したりなんかしちゃったのである。日常のホンのさりげない出来事ではあったが、僕の気分はかなり舞い上がってしまったのであった。

さて。
ここでひとつ、わりと見落とし勝ちな現実について解説してみたいと思います。何故、僕があれほどまでに幸せな気持ちになったか。彼氏にまだパンツを見せたことのないお嬢さんは(そんなの今どきいないか)注意して聞いててください。赤丸二重のポイントです。美人のパンツという事実だけでも相当にケッコウでありがたいものだが、その価値をいっそう高めた理由は色が白かった点にある。
パンツとブラジャーは白!とにかく白!覚えておいてね。
関係が深まって、お互いに相手のいろんな部分がわかってからなら、ブルーでもベージュでもブラックでもイエローでもピンクでもライトブラウンでもトロピカルエメラルドでもなんでもいい。自分の趣味で選んでくだされば文句はない。ただ、最初の初々しいうちは白であってほしい。並はずれたモノじゃなければデザインは問いません。色です。色。
これだけは譲れない。ほとんどの男は僕に同感なハズだ。渋谷だろうが新宿だろうが梅田だろうが心斎橋だろうが札幌だろうが福岡だろうが地域に関係はない。この現実は不変である。道行く若い男にインタビューしてみるがいい。新しい彼女にはいて欲しいパンツの色は?

A...白

B...ベージュ

C...黒

D...青

E...その他

九十パーセントの男はAだと答えるハズである。これは太陽が東から昇るのと同じくらいに不動な大自然の原理である。エライ大学のセンセイ方なら選んだパンツのカラーで男共の深層心理にくすぶっている本当の要求を分析するのだろうが、そんなもんは参考にならないのだ。下着の色は白が基本であり定番。ここをキッチリおさえてから次のカラーに発展させるべきなのだ。くりかえします。太陽は東から昇る。地球はまわる。男は白のパンツを好む。美人を好む。どうだ?私の理論は地動説を唱えたガリレオのごとく正しい。
なに?違う?いーえ、違いません。どうしても違うと言うならその根拠を説明してもらおうではないか。しかしそれは天動説を盲目的に擁護し、真実を説くガリレオを抹殺しようとした宗教団体のごとく誤った行動であることを、私は声を大にして叫ぶであろう。
「それでも白いパンツが好きだ!」
で、今回のテーマ「夏の風情」である。ちなみに「風情」とは、辞書をひくと「おもむき」「あじわい」「表情」「容姿」、、、などとある。
去年の僕は女の子の服装。具体的に言及すれば、ミニのワンピースに対して夏の情緒と趣を追及した。だが、今年の僕は私鉄沿線を行く列車の車内から見える風景に対して「風情」というモノを追及していきたいと考えているのだ。うーん、渋い!渋すぎる!
まるでテレビ朝日の「世界の車窓から」みたいである。とうとう私の随筆もこのレベルにまで到達したか。感激である。みなさんには例のテレビ番組のテーマ音楽を連想しながら読んでいただくと筆者はウレシイです。
「世界の車窓」ということなので、世界地図の解説から始めてみたいと思います。
東の果て、アジア。大国、中国とロシアに挟まれ、太平洋に向かって迫り出している小さな半島、朝鮮。そして、そのさらに東側の海上に浮かぶこれもまた小さな島国、日本。
東経百三十九度、北緯三十一度。
ここはアジアにおける最大の都市。世界一人口密度が高く、皇居を中心とした狭い平地に一千万以上の人間のひしめく街。世界一物価が高く、十代のストリートガールとセックスするのにも三百ドル以上もするという街。ヤンキースのイラブのいた街。日本の国王の住む街。日本の政治経済の中心。首都東京である。
この都市の鉄道路線は地上はおろか地下においてもゴチャゴチャと複雑怪奇に交錯し、文字通りクモの巣のごとく体内を流れる血管のごとく、である。
我々の乗車するのは京成電鉄。東京の下町、上野から東の方向成田に向かってJR総武線とほぼ平行して走行している私鉄沿線である。(図参照)

七月七日。朝十時。上野発成田行き。車内。あるヒマそうな男の独り言を聞いてみよう。
最近、車の調子が悪い。始動のとき、エンジンがダダをこねて、どうしようもない。いくらキーをまわしてもキュルルルルルルッ!という甲高い音がするだけで、ちっとも動かない。最初はバッテリーがヘバったのではないかと思った。でもボンネットを開けて確認してみてもなんともない。原因はなんだ?プラグか電気系統か?
しばらくの間は、どうにか動かしていた。「おりゃあっ!」とか「念力!」とか「エンジンちゃん、動いて」とか運転席で気合いを入れたり、前部のバンパーをある角度で蹴り上げたりすれば、ブワァオウンオウン!プッスン、、、などと機嫌の悪い雄叫びをあげながらも、車は目を覚ましてくれたからだ。ヒマなときにでも車屋に行って見てもらおうと、ほったらかしていたのがマズかった。
ある日、信号待ちの交差点でエンジンが突然止まった。もう真っ青である。信号が変わって前の車は発進してしまったが、僕の車は動かない。絶対絶命のピーンチ!
五秒で後ろのトラックがクラクションを鳴らしてきた。焦るんじゃない。エンジンキーをまわす。、、、動かない。落ち着け。、、、しまった。シフトがドライブになっていた。ニュートラルに戻す。祈るような気持ちで再びエンジンキーをまわす。、、、動かない。動かないったら動かない!
二〜三台後からもクラクションが聞こえる。トラックの運ちゃんから罵声が飛んで来る。
そんな理由で、車を修理工場に出した僕は今、京成電鉄に乗っている。目的地は千葉中央駅。久々の電車でのお出かけである。この沿線は民家の隙間をすり抜けるといった感じで、車窓から見える風景はどことなくノンビリした風情だ。あくまでも印象の問題だが、なんだか垢抜けない私鉄沿線なのである。僕は進行方向に向かって右側の、前から二番目のシートのはしっこに座り、文庫本を開いた。冷房の効いた車内。窓から夏の強い日差しがさしこんで来て眩しい。乗客は少なかった。ひとつのシートを一人か二人の人間で使用しているといった感じである。
ここで提案。夏になったら「新潮文庫の百冊」。べつに出版社の宣伝をしているわけではないが、「夏休みと文庫本」は僕にとっては「冬休みとお年玉」に匹敵するほど繋がったイメージがある。どうしてそうなのかはわからないが、とにかくそうなのである。夏になったら文庫本を読まなければならないのである。そう決まっているのである。太陽が眩しかったから本を読みたくなってしまったのである。校庭の木陰に寝そべって本をマクラにしながらライオンの夢を見なければならないのである。女と一緒に海に飛び込んで山の中の温泉場で薬を飲んで人間失格でなければならないのである。
ちなみに今、チャレンジしているのがドストエフスキーの「罪と罰」なのである。実は初めて読むのである。それにしてもロシア語の人名はうっとおしいのである。スヴィドリガイロフだのラスコーリニコフだのナスターシュシカだの、覚えにくいったらありゃしないのである。例えば、これは僕の推定ではあるが、物語のなかに登場してくるドミートリイ.プロコーフィチとラズミーヒンはおそらく同一人物である。なんでひとりの人間にかけ離れた複数の呼び名があるのだ?この異常に長い小説が非常に読みにくいシロモノになっている重要な原因は、間違いなく人名の長さとわかりにくさである。平凡な日本人ならば「スヴィドリガイドフ」「ラスコーリニコフ」「ポルフィーリイ.ペトローヴィチ」「アフロシーニュシカ」「ピョートル.ペトローヴィチ」もー、これだけで脳味噌がこんがらがってアワ吹いて耳から煙が出てくるに違いないのである。スヴィドリガイロフさんが山田さん、ラスコーリニコフさんが吉田さん、ドミートリイ.プロコーフィチさんが三宅さん、なんていうふうに日本の名字で翻訳してくれたならば、僕はこの大河ドラマを四倍早いスピードで読むことができるであろう。
などと無駄話をしているうちに、列車が減速を始めて「この列車は上野発成田行き普通です。次の駅で特急の通過待ちをいたします。しばらくお待ちください」とのアナウンスが入り、足元でブレーキの軋む音が響いてきた。駅に着いたのだ。間もなく車両はホームに滑り込み、完全に停車してドアが開いた。蒸し暑い外の空気が流れ込んで来て、やかましい蝉の声が聞こえてくる。何人かの乗客が立ち上がり、出て行った、、、。
さあ、お待たせしました。ここから「世界の車窓物語」は核心部分に突入いたします。列車における旅情というものの中で、最もドラマチックな事柄。誰もが期待をしている事柄。安心してください。私は決してみなさんの期待をうらぎりません。夏になったら誰もが体験したいこと。わかっています。それは出逢いです。どうです?当たっているでしょう。そして、そのなかでも、とっておきの出逢い。男と女の出逢い。
現実には、ただのその場限りのすれ違いだけど、ドラマはドラマ。思いっきり美化して、「ラッキーストライク」のCMみたいなものを想像してください。
実は乗車したときから気がついていたのだが、右斜め前十二度に素晴しい絶品が座っているのだった。二十二〜三才くらいの奇麗な女の子なのだ。
僕はファッション雑誌の編集者ではないけれど、なんとかがんばって彼女の容姿を解説してみよう。ダサイ表現しかできないがお許し願いたい。これが精一杯である。
ヘアマニキュアのイエローブラウンを使ったのであろうか?少し明るめで、ややウェーブした肩までの髪。淡いブルーのTシャツ。同じくブルー地に縦に白と濃紺のストライプの入ったミニスカート。ナマ足にグレーのサンダル。ヴィトンのバッグ。右手の中指と小指にはシルバーのリング。シートのすみっこに座って小さな手帳をめくっている。ようするにイケてるお姐ちゃんである。
いい風情ではないか。夏の日の午前。閑散とした列車内でひとりたたずむ孤独な女。向かい合う俺は狭い関東平野を電車で旅するアウトロー。(どこが)ふっふ。お嬢さん、俺にホレてはいけないぜ。(実際には電車のなかでただ向かいあって座っているだけである)
しかしこんなとき、僕の視力は〇.五から二.五にパワーアップするのである。
告白すると、僕は最初から本なんかまったく読んでいないのだ。電車に乗ったときから、ずーっと彼女の方を見ているのである。何故って、ヒザの間からパンツが覗いているからである。列車が日向を通るときなんて奥の方まで照らされてクッキリなのである。これが普通の女の子なら「あっ、見えた」で、すんでしまうのだが、困ったことに(本当は喜んでるが)僕好みの美人なのである。もー、視線はくぎづけである。ラスコーリニコフの苦悩などいつでも読める。どーでもいい。こんな光景にはそう簡単にめぐり逢えないのである。僕はイヤラシイ目線を彼女に悟られないように必死の努力をしながら、なにげない一般市民のフリをしていた。とにかく絶対に悟られてはいけない。
文庫本→パンツ→パンツ→外の風景→パンツ→吊り広告→パンツ→彼女の顔→パンツ→外の風景→彼女の手の指→パンツ→自分の腕時計→パンツ→パンツ→パンツ→文庫本→パンツ、、、以上はこのときの僕の目の焦点の軌道である。涙ぐましい努力がしのばれる。
女のパンチラ。
偉そうに長々といろんな講釈をタレてしまったが、結局はここに行き着くのである。最後までつきあってくれた人には気の毒としか言いようがない。僕ってこんな奴なのである。
ゴメンね。
なに?彼女のパンツの色?
教えてあげない。


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