技術屋のこだわり

六月十九日金曜日午前九時二十分、NTT支社。
巨大なアンテナの鉄塔がそびえる立派なビルディングだ。
国道沿いにある普通乗用車三台の駐車スペースは残り一台ぶんしか空きがなかった。反対車線から走行してきたおれは、右のウインカーを点滅させながら対向車線をまたいで頭からカローラをつっこんだ。建物のコンクリートの壁と歩道の間のわずかな隙間を利用した駐車場は道路側に向かって大きく傾斜している。エンジンを止めて、サイドブレーキを目一杯ひっぱる。二日酔いの頭痛と黄色い視界の中でダッシュボードの上に投げ出した皮の財布を左手に、外へ出た。ドアを閉めてロックする。歩道を十歩進んで階段を上り、入り口の前に立つ。一階のフロアーは道路に面して全てがガラス張りである。ガラス越しに見える支社の中は鑑用植物とテーブルがスッキリと並べられ、テーブルの上には携帯電話とファックス電話の見本品が外からも見えるように置かれている。本当に奇麗なオフィスだ。ウインドウの内側に貼られたポスターの中で、笑わない顔したSMAPの五人組がこっちを見ながらポーズをキメていた。おい、木村クン、男前だな。おれの会社の美佳ちゃんが結婚したいって言っとったぞ。うらやましいじゃねーか。
ガラスの自動ドアが小さな音をたてながら左右に開き、おれは中に入った。
電話料金を銀行口座からの自動引き落としにしていないせいで、毎月今の時期になるとNTTから利用停止の脅迫電話を受けるのが恒例になっている。本来ならコンビニでも支払いはできるのだが、直接NTTまでやってきた理由は請求書をなくしたからである。窓口で先月の料金をはじき出してもらわなければならないのだ。あー、めんどくさ。
フロアーのテーブルの上にテレホーダイやISDNのパンフレットといっしょに置かれた請求書再発行用紙に自分の氏名と電話番号を据え付けのHBのトンボエンピツで記入して、お支払いカウンターに向かい、紺のヒザ掛けをしてパソコンの前に座った冷え症のおねーさまに差し出した。彼女は「いらっしゃいませ、少々お待ちください」と、言いながら、おれの電話番号をキーボードで叩き、料金を検索する。こんなしょーもない紙にわざわざ書かんでもアンタに直接番号言えばすむ事じゃあらへんのか?そう言いそうになったがガマンした。金を滞納しとる自分が悪いんだかんね。「五月分六月分とございますが、、」と、パソコンのモニターから視線をはずして彼女がチラリとおれの顔を見る。もしかして暗に「キッチリとミミをそろえて払わんかい!」と、言っとるんだろうか?そうだとしたらチョッと怖いな。しかしその眼光には有無をも言わせぬ迫力はない。やっぱり単に事務的に聞いているだけである。「五月分だけでお願いします」当然、そう答えた。月末の給料日までまだ間があるから苦しいのよね、家計が。六月分は来月になったら払うからね。
「7754円になります」よかった、今月は一万円をこえなかったようだ。それでなくてもIDOの携帯電話とあわせて毎月毎月、福沢諭吉の肖像画が一枚では足りないのである。ヘタすりゃ二枚以上になることもあるのだ。おれは基本的には長電話はしない人間だけど、先月なんて友人の結婚式に出席できない罪ほろぼしに最高級のウルシ塗だかウグイス張りだかの押し花メロディー(いとしのエリー)スーパーゴージャスデラックス電報を打ったらそれだけで六千五百円とられたり。あとインターネットのブラウザで長時間遊んだりしたらキツイよな。日本の通信料は高すぎる。
おつりを2246円もらって、おねーさまの「ありがとうございました」の声を聞きながら「どうも」と、帰ろうとしたら下半身にブビビビッ、と来た。始まった、生理が、いや、下痢が。頭痛はするわ腹痛はするわもう上へ下への大騒ぎである。ついでに言えば右手の親指も深ヅメしたところにバイ菌が入ったらしくて腫れて痛いのである。ヘロヘロの状態とはこういうときの事を言うのだろう。お支払いカウンターの左側の壁に「←お手洗い」という表示がある。おれはケツの穴の筋肉に力を入れながらフラフラとそちらに向かった。内マタになってしまって歩きにくかった。
NTT船橋支社のトイレは衝立のようになった壁に守られながら一階フロアーの一番奥につつましくあった。でもその構造は007もビックリの新兵器を装備したスーパーハイテクトイレットだったのだ。
個室の入り口に立つと中の電気は消えていた。窓がないから暗くてよく見えない。腹がゴロゴロなりだして、もう一刻をあらそう状態である。はやくしなければ。あせって電気のスイッチを探そうと入り口のドア、左側の壁の胸の高さのあたりに手をのばした。すると、触れてもいないのにイキナリ天井の蛍光灯が二〜三回瞬いたかと思うと音もなく室内がパッと明るくなった。一瞬、何が起こったのかわからなかった。あれ、おれは今何にも触らなかったよな。突然の事に暫し便意も吹っ飛んでしまった。カウンターのおねーさんが後ろからついてきて親切にどこかにあるトイレのスイッチを入れてくれたのだろうか。思わず後ろを振り向いた。背後霊みたいにおねーさんが立っていてニコリと笑って「ごゆっくり」とか言うんじゃないだろうか?しかし、そこには誰もいなかった。何故だ?
もう一度、今自分が手をのばしたあたりに目をやった。するとそこにはスイッチの代わりに小さなセンサーがあった。おれは科学技術の知識は乏しいからその正体はよくわからないが、おそらくこれは赤外線感知機なのではないだろうか。人間の肉眼には見えない赤外線を発していて、障害物が前を遮るとその温度でセンサーが反応し、直結した天井の蛍光灯のスイッチが自動的にONになる。そんな仕掛けなんだろう。納得してしまうと再び便意が脊髄を通して大脳に危険信号を送ってきた。ブビビビ。わわわ。危ね。
おれは慌ててドアを閉めて鍵を掛け、ウォシュレットの装備された洋式便座のフタを開けてズボンとパンツを下ろし、座った。
一分後、ようやく落ち着き、冷静になったおれはこのハイテクトイレの中を見渡した。
そこは日本間にしておよそ三畳くらいの広さであった。入り口から見て左手前に大きな鏡と手洗い場、その奥に簡易ベッド。これは若い母親が用をたすときに子供を寝かす為に設置されているのだろう。簡易ベッドと並んで右手奥に洋式の便器。色はアイボリーで、大きめの便座をそなえ、たとえば相撲取りがしゃがんでもビクともしないような、しっかりとした造りである。便座の右側にはウォシュレットのコントロールパネルがあり、タッチキーの表示は前から「ストップ」「おしり」「ビデ」「ドライ」、水勢のコントロールつまみ、風温調節つまみ、ノズルの位置の微調整キー。便座の左の壁はステンレス製のシステムボックスになっていて、使い捨ての紙製便座シート、トイレットペーパー、予備のトイレットペーパー、汚物入れ、などが標準装備されている。天井にはファンを内蔵した換気用の通風口。室内の汚れた空気はダクトを通って屋外に放出される。
そして清潔。ピッカピカ。もう至れり尽くせりである。ここは便所じゃない、化粧室だ。
二日酔いの疲れた身体にとって、実に居心地の良い空間で、おれは排泄する快感に放心したままぼんやりと頭の上の空間を見つめていた。は〜、シアワセ、、、。
と、そのとき、室内がパッと真っ暗になってしまった。蛍光灯が突然消えたのである。
なんだなんだ、どうしたんだ?誰かが外から電気を切ったのか?
息をひそめてドアの向こうの気配を探ってみたが、誰もいる様子はない。機械の故障だろうか?とにかく、暗闇の中では落ち着かない。おれは便座に腰掛けたまま、センサーの赤外線が睨んでいるであろう空間の軌道上に右手をのばしてみた。するとやっぱり反応があり、天井が瞬いて明りが灯った。1メートル50センチ以上は離れているだろう場所から座ったまま手も触れないで電気をつける。ちょっと異様な光景だな。うっ、うっく、くくく、、、腹痛の第二波がやってきた。大脳の思考回路が中断し、両手で膝を抱えながら、おれはウンウン唸りつつ冷や汗をたらして産み(便の)の苦しみに耐えた。
(ゴハンを食べている人、ゴメン)
また右手に痛みがはしる。見ると親指の傷が真っ赤になって腫れ上がり、患部に爪が食い込んでいる。今朝より症状が悪化しているようだ。痛てて。痛てえよう。こいつは医者に診せたほうがいいな。くそ、ついてねぇ。
ひと呼吸おき、顔をあげた瞬間、また明りが消えた。再び室内が真っ暗になる。
そのとき、おれは全てを理解した。「、、、タイマーが組み込まれている!」
外に誰かいるのでも機械の故障でも停電でもない。
このトイレは点灯してから一定時間が過ぎると自動的に電源スイッチがOFFになるのだ。設定された時間は約三分。健康な人間ひとりが小用をたすのに必要とする長さだ。そいつをオーバーすると途中だろうがなんだろうが関係なしに電気をおとしてしまうのだ。
おれは驚きかつ呆れかつ笑ってしまった。なんという馬鹿バカしい仕掛けなんだろう。
もう一度、空間に手をのばして明りをつけた。この機能に気がつかない人は、闇の中に座ったまま用をすませなければならないのか?それとも何か他にやり方があるのだろうか。どこにも書いてないからわからない。NTTはおそらく省エネ(電気代節約)の為に自動的に電源を切る機能を採用したのだろうが、それならそれでキチンと使い方くらい表示しておくのが親切というものである。いや、おれは楽しかったけどね。でも便座に座ったまま手を上げるのは(誰も見ていないとはいえ)いかにも間抜けなスタイルで好くないぞ。センサーの的の標準を少しずらせて腰掛けた人の胸のあたりに調節すれば、誰かが使っている間は照明が落ちずにすむのではないのかな?
感動したあまり、赤外線センサーばかりに気を入れて書いてしまった。でもNTT船橋支社が取り組んでいる省エネ対策は節電だけではないのだ。馬鹿バカしいと言いながらも、おれはけっこう感心しているのである。本当だぞ。
さて、節電とくればその次に来るのは何か?答えは節水である。現実問題としてより深刻なのは夏期の水不足なのではないだろうか。この命題に対する答えのひとつとして、トイレにおいて実行できることはないだろうか?笑ってはいけない。設計者は真剣に考えたのだ。トイレでもっとも水を使うのは便器を洗浄するときである。あたりまえの話である。ところが人によっては便器の洗浄意外の目的で水を流すことがあるのだ。その目的とは音を消すことにある。他人に聞かれたら恥ずかしいからだ。二回も三回も水を流すこともあるらしい。これはしかたがない。おれにも経験がある。とくに異性の人が近くにいたときなんかは男でも自分の出す音は恥ずかしいものである。でもしかたがないですまさないのがプロの技術屋なのだ。こんなものを作ってしまいました。名付けて「エチケット.ボタン」。それは便座の左側、トイレットペーパーのロールの横に小さな表示とともにある。「節水にご協力ください」と。このボタンにタッチすると室内のどこかにあるスピーカーから水を流す音が流れるのだ。ジャアァアアァァーーーッ!って。
おれは何の事だかよくわからないでボタンを押してみたのだが、結果を知って自分の心までが洗われるような気持ちになってしまった。なんちゅう親切な設計なんだろう。実際にこのボタンを使う人がどのくらいいるかは別問題である。もしかしたら全然気がつかないまま便器に水を流して音を消そうとする人がいるかもしれない。だが、おれはその心意気に打たれたのである。技術屋魂というかこだわりというか、そんなものに対して。
突き詰めて考えたらこんなトイレができてしまったのである。ウォシュレットはともかく、それ以上の機能は必要のないものなのだ。見方によっては「便所に金かける余裕があるんだったら電話代を値下げしろ!」なんて意見も出てくるかもしれないぞ。朝日新聞の「読者の声」に投書されたらどうする?(そんなヒマ人はいないか)
トイレから出たおれは、お支払いカウンターを左に見ながらフロアーを横切って外に出た。背後で自動ドアが閉じる。頭痛はやまない。初夏の太陽も黄色く見える。今日は暑くなりそうだ。階段を下り歩道を十歩進んで、カローラの脇に立つ。ロックを外しドアを開いて運転席に乗り込んだ。ブレーキを踏んだままエンジンをかけてサイドブレーキを下ろす。ギアをバックに入れてファザードを点滅させた。ハンドルを握ると右手親指に鈍い痛みがはしった。駄目だ、こりゃ。病院へ行こう。次々来る自動車の合間をぬってカローラをバックのままゆっくりと国道に入れた。切り替えしてシフトをドライブに。
おれはNTT支社を後にした。



図参照

※おことわり
この文章における技術的な部分は筆者の誤解がある可能性があります。
あらかじめおことわりしておきます。


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