寒い。
十二月二十五日木曜日。
天気図によると日本海上空には高気圧、カムチャッカ半島上空には低気圧、西高東低、日本列島に寒気を誘う、いわゆる冬型の気圧配置である。気圧の谷間は列島を横切らないで、やや南側の太平洋上にあるようだ。高気圧が上にはりだしているぶん、天気がいいのは幸いだが朝夕には放射冷却のため、ぐっと冷え込むそうである。しかもこの状態が一両日は続きそうであるらしい。
よーするに、冬は寒いのである。
いま、私は朝日新聞朝刊の二十八面の右隅にある気象庁.気象協会による二十五日十八時現在発の、お天気分析を読んでいるのだ。これによると今日の千葉県の最高気温は十度、最低気温は三度。六時から十五時までは曇りで、十五時から二十四時までは五ミリ未満の降水量が予測されている。もちろん千葉だけではなく全国二十七の主要都市の天気予想についても詳細に記してある。夜のニュースでお天気コーナーのお姉さんが五分近くかけてしゃべる内容よりもはるかに緻密でかつ情報量も多い。手元に置いて必要なときには何度でも確認することができる。新聞はデータとして活用するにはテレビなんかよりもはるかにすぐれた媒体だと思う。ただ、生身の若い女性アナウンサーが愛敬タップリに解説してくれるわけではないので、無味乾燥でアイソもヘッタクレもないのが欠点ですな。

師走上旬の午後六時頃のことだった。関東地方は朝からどんよりとした曇り空で、いまにも雨の降りそうな寒い一日だった。私は京成電鉄を利用することが多いのだが、その日も最寄りの駅の改札口を出て家路に向かおうとする途中であった。駅前通りは古い大きな寺院への参道になっていて、ご本尊のある北の方角に向かってゆるい上り坂になっている。お寺のへの入り口だけあって、ここの道路はアスファルトで舗装されているのではなく、セメントで造られたレンガが奇麗に敷き詰められた坂道になっているのだ。私の自宅は寺とは反対方向の南側にあるので、坂を下って国道と交差する十字路に向かって歩いて行く必要があった。十二月のこの時期、あたりはすっかり暗くて、見上げると天空には雲の隙間から月が瞬いて見えるのである。とっとと家に帰って風呂に入ってあったまってから、ビールでも飲みながらゆっくりくつろぎたいと思っていたので、自然と足早になるのであった。
しかしそのとき、薬局の前の電信柱の下に少しばかり気になる存在があるのを私は見過ごせなかったのである。それは一組の男女のカップルであった。女はフトモモの部分に長めのスリットのはいった黒いミニスカートに茶色のニット。前をはだけたグレーのコートに黒いハイヒールのブーツ。男は黒のダウンジャケットにブルージーンズ。茶髪のロン毛でナイキのスニーカー。デカイ奴で身長は180センチ以上はあるだろう。スポーツタイプの自転車にまたがって女を見下ろしている。ふたりともカッコいいし、女のほうは少しだけ華原朋美に似ていなくもなかったので、必然的に目にとまった。ちょっと見には、今どきの若い男女がとりとめもない話題にハナを咲かせているといった風情である。それだけならば、私もそのまま気にせず家路を急いだであろう。しかし、このカップルの間には何とも言えない雰囲気が漂っていた。ものすごく深刻なムードだったのだ。恋人同士のオーラというものは独特で強烈なだけに、無関係であるハズの周囲の人間にも伝わりやすいのだ。明らかに別れ話がこじれているのである。しかも、どうやら女のほうが未練たっぷりで、すでに心の離れてしまった男にすがりついているように見受けられるのである。
私は駅の改札口を抜けて右に曲がって国道への十字路に向かう三十秒ほどの間にこのカップルを目撃し、なおかつその状況を把握した。ふたりであれだけ強いオーラをモワーッとそこら中に発散していれば、誰にでも分かってしまうことである。
だからといって、他人である私がどうこうするという問題ではもちろんないので、そのまんま通りすぎて、ずんずん歩いていった。「深刻そうだったなぁ」なんて思いながら。
寒い夜だ。早く帰ろう。
道の片側にある焼き鳥屋ののれんの隙間から立ち上る煙と匂いに心を一瞬奪われて、
「焼き鳥が食いたい!」と思ったその瞬間、私の脇をシャァアーッ!と、風のように自転車が通りすぎていった。さっきの男である。
さらに背後からダダダダダッ!と、ものスゴイ靴音をさせながら、さっきの女が、それこそ全身全霊、全速力で男の自転車を追いかけて走っていく。ハイヒールが馬の蹄のごとく舗装された大地を蹴り、まちがいなく火花を散らすのが見えたほどである。当然、追い付けるハズがない。あの長靴はカッコよく歩くには適しているが、速く走るという行為には絶対に不向きな構造になっている。
案の定、ほどなく彼女は前につんのめって、ズッデーン!と派手に転び、砂ぼこりを舞い上げながらザザザザーッ!とヘッドスライディングしてしまった。その勢いでハンドバッグにぶらさげた携帯電話が外れて、ガラガラと乾いた音をたててクルクル回転しながら路面を滑って数メートル手前にまで投げ出されてしまった。、、、悲惨である。
転んだ彼女はすぐに上半身だけは起こしたが、座り込んでしまったまま呆然としている。男の自転車は走り去ってしまって、もう影も形もない。可愛そうすぎて誰も声をかけられない。だって、みんながふられるところを目撃してしまったのだから。
それでも通りがかりのオバサンが投げ出された携帯電話を拾って、彼女に向かってやさしく声をかけた。
「大丈夫、、、?」
華原朋美に少しだけ似た彼女の答えは健気であった。
「すみません、、、」
「大丈夫です」
立ち上がり、また「すみません」と言いながら携帯電話をオバサンから受け取って、彼女は歩きだした。テレビドラマみたいである。私はあくまで通行人にすぎないが。
冷たい木枯しがビョオオオオーと吹きすさび、あたり一面に枯れ葉が舞い散った。
道行く人々はみんな肩をすくませて一瞬立ち止まり、コートの襟をたてて身を固くした。
と、同時に雨がパラパラと降ってきた。雨粒が小さな音をたて弾けて、乾いた路面を濡らし始めたのである。大自然は人の感情にはいっさい関知しない。強烈な木枯しとともに大粒の雨がふられた女の肩を激しく叩く。
木枯しがビョオオオオー、雨がザザザザザザー、、、、。
寒い。寒すぎる。
天空には高気圧の放射冷却、冷たい雨、冷たい風、そして何よりも冷たい男、、、。
擦りむけた身体と服と心を抱えて傘もささずに華原朋美(に似た彼女)は歩く。
私も歩く方向が同じなので、なんだか意味もなく困った。





らくがき帳日記帳リンクホーム