プロフィールにならないかもしれないプロフィール。

									
瓜生 洋一
 1945年3月30日生まれ。
出生地は、福岡県飯塚市(五木寛之の『青春の門 筑豊篇』の舞台)。
このあたりに多い気が荒い人のことを、川筋者という。この川とは
遠賀川のことである。
小さい頃の遠賀川は、洗炭の水が流れていたので、チョコレート色をしていた。
今は、炭坑(ヤマ)がないので、ずいぶんきれいな色になっている。 
小学校2年の時、北九州市(当時は八幡市)黒崎に引っ越し。
いきなり、産業革命の中心にいったようなもの。
ここも、気が荒いことで有名(隣町の小倉の名物は、無法松)。
なんだか、小さいときから、気が荒いところを選んで住んでいたような気がする。

それでも、本来の学区の高校は、鉄拳制裁などという蛮行があるというので、
遠い高校に電車通学。

									
一浪したあと、1965年九州大学法学部入学。

何だか、このころから世の中がだんだん騒がしくなり、大学に行っても、
授業にでず、サークル部室で、ルソーやマルクスを読む。
自治会活動などの明け暮れ。呼びもしないのに、原子力空母エンタープライズが
佐世保に寄港。
これも呼びもしないのに、米軍ジェット戦闘機が九大構内に墜落。
大学院に合格したこと自体、信じがたいことと言われた。
それでも、大学は封鎖され、大学に行くと、命の危険すらあった。
修論を書き上げたことの方が信じがたい。
1975年、九州工業大学(戸畑)の一般教育政治学担当教員(教官といった)。
結構、理系の人とは、つきあいがあった。

									
1983年、フランス政府給費留学生試験合格。
このあたりから、人生が大きく変わっていく。
家族7人が、3年近く、パリで生活する。
この時代の泣き笑いは、いつか、小説にでもしたい。


									
1986年帰国。
しばらくして、大東文化大学からお声がかかり、1988年、今は無くなった
銀河という夜行列車で、東京に出てくる。

								


									
1989年、フランス革命200周年。 そのあとの10年は、まるで嵐のような時代であった。
 人生の半分近くを構成していた信条が、がらがらと音を立てて崩れ落ち、その中で
茫然と立ちすくんでいた。

									
そして今も・・・ このすさんだ時代に住むことを余儀なくされる多くの学生たちに
同情しながらも、どのように対応していいのか、全くわからないまま、教壇に立ち続けている。
彼らに、なにか、付け加えることができるのだろうか。

									
 専門は、コミュニケーション網から見たフランス革命。
うわさ、パニック、早馬、腕木信号機、などなど。特に、パリと地方とのずれ
などに、興味を抱いている。
わりと何でも興味を持つ方である。

									
 趣味は、下手の横好きのパソコン、旅行、天体観測(最近はとんとやらない)。 

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