試訳
Brautigan, Richard. An Unfortunate Woman -a journey
New York: St Martin's Griffin, 1994
部分引用の範囲で試訳します。
『不運な人 または ある旅行記』R.ブローティガン1.
ホノルルの静かな交差点に、真新しい婦人靴がひとつ落ちているのを見た。それは茶色の靴で、皮のダイヤモンドのように輝いていた。まるで交通事故の名残みたいに、靴がそこに横たわらなければならない明らかな理由は見当たらなかったし、パレードが通り過ぎた様子もなかった。だから、その背後関係を知ることはできそうもない。
もちろんまだ言ってないと思うが、靴にはパートナーがいなかった。靴はひとりぼっちで、孤独で、何かに取り憑いているみたいだった。ひとつだけの靴を見た時、もしその近くにもう片方がないと、なぜ人は落ち着かない気分になるんだろう。ぼくたちはつい探してしまう。片割れはどこにある。どこかこの近くにあるはずだ。
さて、この幸先のよい出だしで、旅行記を続けるとしよう。自由落下的旅行記録地図は何年も前に始まったかのように見えるが、実際の物理的時間ではたった1、2カ月のことに過ぎない。
ぼくは9月後半にモンタナを出発し、サンフランシスコに2週間いて、ニューヨーク州バッファローまで東に戻って講演をし、続く1週間はカナダに滞在した。それから、経費節減のため湾向かいのバークレーに引っ越しを余儀なくされるまでの3週間を、サンフランシスコで過ごした。
バークレーに3週間いた後、アラスカへ北上し、ケッチカンに2、3日いて、さらに北へ上がりアンカレジに一泊した。翌日の早朝、雪のアンカレジを発ってホノルルへ飛び(旅行地図が終わるまでもう少しの辛抱)、ハワイで一月を過ごしたが、この滞在の半ば頃には、2日間マウイ島にも行った。ホノルルから今住んでいるバークレーに戻り、ようやく長い旅行は終わったのだけれど、さらにこの先には2月半ばのシカゴ行きが待っている。
現在われわれが旅行記録地図のどこにいるのか、大ざっぱに認識したところで、短くなりそうもない旅行記を続けることにしよう。実際にここへ到着するまで、すでにあきれるほど長い時間がかかったのだ、この地点から話を始めるとしよう。ホノルルの交差点に落ちていた片方だけの婦人靴と、一人の男の、西へ東へ飛び回り、北上し南下した、束の間のカナダ滞在を含むアメリカ大陸放浪がなぜ重要なのか、という理由もここにある。
うまくいけば、何かわくわくするようなことが起こるだろう。
きっとステキな話になるだろう。それでは、こんなふうに始めてはどうだろう・・・「彼女がどの部屋で首を吊ったのか知りたくない」。ある日誰かが質問し、いや知りたくない、とぼくは答えたのだ。彼らはそれ以上話を進めないだけの礼儀をわきまえていた。その話題は完了せず、食卓の上に残った。
食事の間、ぼくは自殺をごちそうのお供にしたくなかった。けれど、その日何を食べたのか忘れてしまったのに、不運な人の死が食事の魅惑的なスパイスになるのを止めようがなかった。
マーケットへ行き、スパイスのコーナーでオレガノ、コリアンダー、スイートバジル、ディル、ガーリック・パウダーなどの瓶を眺めているとしよう。その時誰も、「首吊り」という瓶に出会いたいとは思わないだろう。そのラベルには、全ての食事の崩壊を保証する不気味な原料がプリントされている。
どんな料理にも首吊りスパイスを加えたくないが、もしかしたら誰かのディナーに招かれ、ユニークな味つけの一皿をすすめられるかもしれない。家の主にどんな味付けなのか尋ねると、彼らはさりげなく答えるのだ。
「新しいスパイスを試してみたんです。気に入りましたか。」
「ちょっと変わっていますね。何という名前ですか。」
「首吊り、です。」
多少なりとも始めてしまったのだから、ホノルルの交差点上の靴の境遇について考え続けるより、自殺した人の話を続けることも今では受け入れやすいだろう。多分ぼくは、旅行記の第4、第5、第6段落に物理的移動をざっと書いたあたりで、とりとめのない話をする自由な気分になったのかもしれない。今日はぼくの誕生日だった。
かつて恋人や友人と一緒だった誕生日のことを少しばかり思い出したが、今そんなことは起こらない。ぼくは皆から遠く離れ、自分の感傷からも隔たっている。誕生日に特別なことをする気にもならない。ただ、自分がもはや46才には戻れないことに気づいただけだ。
たとえぼくがセント・パトリック・デイの歌う酔いどれアイルランド人で、全身くまなく緑の扮装をしており、オーストラリアをビリヤード台のように緑で覆いつくせるとしても、好意的に受け入れられるとは限らない。
その懸念が、今朝バークレーからサンフランシスコに向かう電車の中で、今まで会ったこともなく恐らく2度と会うこともない回りの乗客に、「今日はぼくの誕生日です」と言うのをためらわせたのだろう。
もしサンフランシスコ湾をくぐるトンネルの中、頭上を魚が泳いでいるその時に、見知らぬ回りの乗客を振り返り「今日はぼくの誕生日なんです」と言ったとしたら、皆は居心地の悪い思いをしていたはずだ。
彼らはまず、ぼくが独り言を言っているのだ、というふりをしたことだろう。直接話しかけられるよりも、独り言のほうが対処しやすい。直接話しかけられた時それを無視するのは、より多くの努力を要する。
もしぼくがいわゆる個人的な祝日、つまり誕生日についてさらに執拗に言い張り、「今日はぼくの誕生日だ。47才になった。」と繰り返したら、自分にではなく、間違いなく回りの乗客に向かって言っていることを示したら、、、。
事態はさらに悪化し、人々を深刻な恐怖に陥れたことだろう。
それから何をしただろうか。
「今日はぼくの誕生日だ。47才になった。」
これを繰り返しているうちに、乗客の不満はつのってゆく。彼らは皆、ぼくがもう何でもするつもりだということがわかっているのだ。
もしぼくが守護星は天王星、星座は水瓶座だと主張し、体に巻き付けた20本のダイナマイトを示して、電車をハイジャックしたらどうだろう。
乗客の何人かはパニックの淵に追い込まれるだろう。翌日、彼らは新聞記事の中に自分の写真を見つけることになる。「誕生日男、電車で人質をとる」
他の乗客は、いつもの場所に時間通りに電車が到着するように、とだけ思っているだろう。どこにでも実際的なやつがいるものだ。彼らはいつでも優先順位に沿って行動する。
ぼくはもちろん、電車の中で何もしなかった。よい乗客の一人だった。無言のまま、予定通りの駅で電車を降りた。ただ、自分がもはや46才には戻れないことを知ったのだ。
(1982年1月30日 続く)10月のカナダ旅行は不毛だった。おそらく人生のその時点までに、カナダを除く世界中のありとあらゆる場所へ行っておくべきだったろう。ぼくをそこへ運んだのは、ほんの思いつきだった。ぼくは基本的に不器用な旅行者だ。全く得意でない人間がこんなにたくさんの旅行をするはめになるなんて、ちょっと奇妙なことじゃないか。
まず第一に、荷造りというものがわからない。いつも間違ったものを多く持ちすぎたり、必要なものが足りなかったりするのだ。自分では、大丈夫だろう、まあ悪くない、と出発するのだが、旅行中は苦労が絶えないし、旅行が終わった後もしばらくは、荷造りという難事業について思い巡らすことになる。
今でも時々思い出すのは1980年のコロラド旅行で、その時ぼくは6本のズボンと、2枚のシャツを持って行った。コロラドの2週間に、ズボン6本で一体何をしようとしていたんだろう。もちろんもっと多くのシャツが必要だ。逆にすべきだった。シャツを6枚、ズボン2本が妥当だ。それがアッタリ前の常識ってものだろう。その時コロラドはものすごい暑さで、イナゴの群れがサラダみたいに庭を喰い荒らしていたのに、たった2枚のシャツしかなかったというわけだ。
かつては女たちが荷造りをしてくれた。みな上手だった。だれもズボン6本とシャツ2枚を詰め込んだりしなかった。でも、もう女たちは高価すぎる。もうずいぶん長い長い間、だれかに荷造りをしてもらう余裕はない。
今だれか女の人が荷造りをしていたら、思ったより長い距離を走るタクシーのメーターを眺めているような気分になるだろう。手持ちのお金で足りるかどうか、不安になるだろう。トロントはいつも夢のB面のようだった。つまり、ぼくが頭出しをしても、トロントは巻き終わってしまうというわけだ。
日曜の午後、トロントで路面電車に乗り、チャイナタウンの外へチャイニーズ映画を見に行った。
今までチャイニーズ映画館がチャイナタウン地区の外にあった例はない。どの町に出かけても、ぼくは必ずチャイナタウンに出かける。1980年の冬、1週間をブリティッシュ・コロンビア州のヴァンクーヴァーで過ごした時だって、チャイニーズ映画館はきちんとチャイナタウンの中にあった。ところが、トロントは違っていた。それでぼくは仕方なく、起点はもう定かではないストリートカーに乗り、間違った場所に建てられたチャイニーズ映画館に向かった。チャイナタウン内にあったら、ずいぶん簡単だったろう。それが論理的所在というものだ。
映画館に着いたら、そこで上映されていたのは2本のアメリカ映画だった。人は通常、アメリカ映画を見るためにチャイニーズ映画館に行ったりはしない。それに、チャイニーズ映画館でチャイニーズ映画を上映していると考えるのは的外れだろうか。
「近日上映」のポスターには、翌週から予定されているチャイニーズ映画数本が描かれていた。それまで待っているわけにいかない。次の週にはサンフランシスコに戻ることになっている。翌週カナダにやって来る映画には縁がない。
その他にトロントで何をしたか。
ぼくはカナダの女性と苦い関係にあった。彼女はとてもよい人だった。恋愛が突然、気まずく終わったのは、全くこちらの落ち度だった。呆れるほど愚かな行為のいくつかを変更し、過去を作り直せたらどんなに便利だろう。が、たとえそうできたとしても、過去は常に進行している。堅く確かな大理石の日々に落ち着くことはあり得ないだろう。
彼女のアパートで夜を過ごし、一緒に目覚めた初めての朝のことを覚えている。その時彼女はこう言ったのだ。
「今日はトロントの美しい日で、あなたはステキなカナディアン・ガールと一緒なのよ。」
美しかった、その日は。
ステキだった、彼女は。
(1982年1月30日 終わり)2.
どうして、ハワイでぼくとニワトリの写真を撮りたくなったのか、自分でもわからない。オブセッションというやつは珍しもの好きで、止めようがなく、人を戸惑わせるものだ。
写真を撮った朝は、雨が降ったり止んだりしていた。その前の晩は嵐で、雨は朝になってもまだ時折降っていた。だから正直なところ、写真を撮るのに適した天気とは言えなかったが、撮影係は楽観的だった。彼らはニワトリを配置した。
ハワイでニワトリを見つけることがどのくらい簡単なのかわからないけれど、そのニワトリには感心した。フライパンにおあつらえ向きの外見をした、裸のチキンではない。
ぼくの言っているのは、生きているチキン、全身に羽のあるやつなのだ。試訳中 2003年