最近は、夏休みの宿題に”標本”を持って行くと、評判が悪いらしい。どう
してか。答えは簡単。かわいそうだから。まったく呆れて物も言えない。学
校の理科から、解剖が消えてしまったのも、恐らくそんな理由からだろう。 
 学校では、命の大切さを教えているつもりらしい。命を知ると言う事。生き
ると言う事。これらは、悉く死を知る事からはじまる。「死とは何か」を教える
のもまた、大切な教育なのである。生きて行く先には何があるか。それさえ
も知らずに、こども達は生きている。ゴールも知らされず、ただ走っている
様なものだ。だから途中で疲れてしまう。 
 ゴールが分かれば、それまでに何をしたいのか、また何をして置くべきか
が見えてくる。私が言いたいのは、何も自分の死期を知れと言う事ではな
い。死を知ることから生を知れと言う事である。そう言った意味で、昆虫採
集や標本作りは、生と死を教えるための絶好の教材だと思うのだが、先生
たちはどうやら、自然を相手にするのがニガテと見える。こども達を扱えな
いのも、当然と言えば当然なのである。 

 近年、森の中を歩いていると、どんな所だろうと目にする光景がある。”材
割り”の跡である。遣るなとは言わないが、遣り過ぎなのである。”枯れた木
”なら粉々にしても大丈夫だと思っているらしい。挙句の果てには、朽木の
分解を助けているつもりの輩までいる始末である。部分枯れを削り取る輩
もいる。そこに巣食う菌糸や昆虫を取り除いて、木を助けていると嘯く。死
を知らず、生を見つめるとこうなる。 
 ある人が言う。絶滅しそうな生き物を保護しよう。生き物の保護はするが
、環境の保護はしない。悲しいかな、それが今までの環境保護なのである
。日光の鹿を見れば、よくわかる。そのために絶滅に追い遣られてしまった
植物。それらをホストとしていた昆虫たち。今では殺す事すら、金が掛かる
から遣らない。結局、喰うものが無くなった鹿たちは、他を道ずれに絶滅し
て行く。

 標本を残すと言う事。それは、そこに確かに、その生き物が生存していた
証しなのである。昆虫採集とは、昆虫を通して自然を見つめる手段なので
ある。そして最も大切な事は、それらを通して、『知る喜び』を覚ることなの
である。
 知る喜び。今のこども達に、これをどう教えて行くべきか。昆虫採集は、
今まさに教育現場で見つめ直されるべき文化ではないだろうか。昆虫採集
の善と悪は、環境を挟んで紙一重なのである。

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