「ミヤマの新成虫を掘り出してみたいんですよ」
官庁街の一角を占める某ビルの最上階にある、壁の色がすっかりくすんだ喫茶店で、エンダー氏が煙草をくゆらせながら、静かに話を切り出した。仕事の合間のけだるい休息のひとときであったが、言葉をかみ締めるように語るその目は、意外なほど精気に溢れていた。
「ミヤマって、どこで蛹室を作るのか、よくわかっていないでしょ? 行くところへ行けば山ほど採れる普通種なのに、生態がわかっていないなんて、なんだか悔しいじゃないですか。蛹室の場所など生態がもっとわかれば、飼育の大きなヒントにだってなるだろうし。こんどのゴールデン・ウィークあたり、どうですか、筑波の方へ行ってみませんか」
そう、もうすぐゴールデン・ウィークだ。昨年は海外出張で折角の連休があらかた潰れてしまったが、今年はカレンダーどおりには休めそうだ。日頃のうさ晴らしに、新緑の中で思い切り汗をかいてみるのも悪くない、とエンダー氏の話を聞いて思った。
「わかりました。とても興味深い話ですね。ひとつ自分も乗ってみますよ」
けっして美味とは言えないコーヒー一杯をそれぞれ飲み終え、今後の段取りを互いに連絡しあうことを約束して、ひとまずそれぞれの職場へと帰っていった。
ミヤマ、ミヤマ・・・。自宅で一人つぶやいてみる。自分にとってミヤマは小さい頃から身近なクワガタの一つであった。父の実家へ夏休みに遊びに行くときに採ったクワガタといえば、ミヤマであった。昼からクヌギについているし、門灯にもよく飛来してきたので、数が多い場所では、むしろ子供でも採集しやすいクワガタではないだろうか。しかし、長く飼育することが難しく、大きい個体が飼育ケース内で死んでバラバラになっているのを見つけるのは、子供心にも忍びなかった。大人になった今でも、ミヤマの飼育は苦手である。
そんなミヤマも、これまで幼虫を採集したことはなかった。ましてや、新成虫を土の中から掘り出すなんて、想像したことはあっても、実行に移すなどとは思いもよらなかった。
「そういえば、写真を見たことがあったっけ」
そう思い起こすと、本棚から小学館の「クワガタムシ」という図鑑を取り出した。ミヤマクワガタのページに、自然の中の蛹室という、めずらしい写真が載っているのだ。その写真によれば、蛹室の位置は案外浅そうにも見える。
採集に行く前から、すでに新成虫を採れた気分になっていた。
そして、5月3日、場所は筑波近辺。エンダー車でnaritaファミリー邸を訪れる。早速、naritaファミリー氏の案内で、新緑で眩しいクヌギやコナラが無数に立ち並ぶ山の中の、「ミヤマ幼虫採掘場」へ。ここでは、倒れた朽ち木の根部を斧で叩けば、いくらでもミヤマ幼虫が採れるという。試してみると、なるほど、堅い根部を丁寧に割れば、細い部分も含め至るところでミヤマ幼虫が顔や尻を覗かせる。小さなルアーケースが直ぐに一杯になってしまった。
エンダー氏とnaritaファミリー氏は、幼虫などには目もくれない。スコップで朽ち木の根を掘り起こし、その下を掘り進んでいく。しかし、そこは斜面で足場が悪く、なかなか思うように掘り進めないようだ。しかも、案に相違して、土壌が堅いらしい。5月の爽やかな気候の下でも、既に大汗をかき始めている。それなのに、掘った場所からは、蛹室らしいものは全く見られない。
少し移動して狙いを変えてみたが、やはり土壌が堅い。1メートルは掘る覚悟でいたのに、数十センチも容易でない感じであった。相変わらず朽ち木の根部を叩けばミヤマ幼虫が出るものの、その周囲には成虫の影など全く見られない。
「場所を変えましょう」
naritaファミリー氏の言葉に、うなずく我々二人。スコップを抱えて、ひとまずは撤退である。樹上の高い場所から、
鳥のさえずりが聞こえてくる。
しかし、時間はまだ午前中。勝負は始まったばかりである。
昼食後、別の山に入る。どこもかしこも広葉樹の新緑に満ち溢れている。その緑陰に踏み込み、緩斜面を登っていくと、心地よく開けたクヌギ・コナラ林にたどりついた。そこの、とある倒木に狙いをつける。naritaファミリー氏の予想どおり、土壌は柔らかいようだ。その倒木の根部を叩いてみると、ミヤマ幼虫がしっかり詰まっている。成虫を求めて掘るには絶好の条件の場所といっていいだろう。
早速スコップで根部を掘り起こす。いくつかの明らかにクワガタとわかる幼虫が、スコップにより掘り出された土とともにこぼれ落ちる。それを拾い上げてみると、ミヤマとは別の顔をした幼虫も見つかる。ノコだ。ミヤマと比べると数は少なそうだが、ノコ幼虫も同じ朽ち木に混棲していることがわかった。
さて、掘るべき場所から土に埋まった朽ち木の根部を取り除けば、あとはそのまま掘り進めるのみ。根部の周囲を含め、およそ直径1メートルの穴を掘り広げ、掘り下げていく。その穴に入って掘れるのは、一人だけ。一人ずつ三人で、代わる代わる掘っていった。午前中の場所よりは土が柔らかいことは確かであったが、それでもたいへんな重労働だ。
果たしてこの宝探しは宝まで届くのだろうか。
エンダー氏が50センチほどの深さを掘り進めているところを、自分がぼんやりと眺めていると、ふと、穴を掘り広げようとしているスコップの先の土の中に、赤茶色に鈍く光る二本の小さな突起物が出ているのが見えた。間違いなくクワガタの大顎だ。思わず声を上げる。
「いる。ノコだ。オスの顎が見えている」
![[ノコ成虫1]](020503tsukuba_noko1.jpg)
ノコギリクワガタは土中に蛹室を作るとこれまで聞いていたが、実際に見るのは三人ともこれが初めてであった。エンダー氏が顎を持って土の中からゆっくりと引っ張り出すと、中歯型のオス。サイズは50ミリほどか。ピカピカの、紛れもない新成虫であった。活動開始およそ一ヶ月前のスタンバイ中、といったところか。
ミヤマではなかったものの、これで一同、俄然やる気が出た。これまでの疲れが一気に吹き飛ぶようであった。その後、おおむね雌雄交互に、ノコ成虫が面白いように掘り出される。なんにしても、成虫が採れるのは、楽しいものである。しかも、5月初旬にノコ!である。ノコは、だいたいが地中30−50センチほどのところで、朽ち木根部の下というより、その周辺の一定範囲の中にいくつかかたまって蛹室を作っている、そのような印象を受けた。結局、7頭ほどのノコ新成虫を掘り出した。
「ノコはもういい。肝心のミヤマはどこだ」
一同、穴を広げるよりも、深く掘り下げていくことに邁進した。ミヤマは地中深い場所で蛹室を作っているであろうと、三人とも感じていたのだ。
しかし、そのあとはしばらく何も出てこない。ときどき土中に小さな食痕が見つかることはあった。おそらく深く伸びている細い根の中を、幼虫が伝って下りていった跡なのだろう。しかし、根が途絶えると、土中には食痕が残らないため、もうその先を辿っていくことはできない。ミヤマが深く潜っていることを予感させるのだが、けっして容易に見つかりはしない。
ザクッザクッと、ただスコップが土に食い込む音だけが、静まりかえった林の中を響いていた。
穴の最も深いところで1メートルほど掘ると、そこは黒土から粘土層に変わっていた。そのくらいになると、スコップで掘った土を穴から外へ放り出す作業がきつさを増してくる。その上、黒土より堅い粘土層である。三人が交代するペースが、心なしか速まっていった。
![[エンダー氏]](020503tsukuba_ender.jpg)
ふと、穴を掘っているエンダー氏が、何かを見つけた。なんと、ミヤマの3令幼虫だ。深さはおよそ1メートル。粘土層の中である。
やはり、深いところに潜っていたのだ。だが、幼虫は蛹室を作っていた形跡はない。そもそも、幼虫は終令ではあるものの色は未だに白っぽく、黄味を帯びた成熟色ではなかった。いったいこの幼虫は、なおも深みに潜ろうとしていたというのか。
エンダー氏が、力を振り絞るようにしてスコップを操る。その周囲に蛹室があるに違いない。あるいは、その下あたりか。しかし、その幼虫以外は、手掛かりひとつ、何も出てこない。
「1メートル20センチくらいまでは掘ってみましょう」
エンダー氏は、息が上がるのを抑えながら、そして吐き出すように言った。naritaファミリー氏も自分も、言葉はないものの、力をこめてうなずいた。1.2メートルといえば、子供がすっぽりと入れるくらいの、相当深い穴である。そこまで掘ることが、とりあえずの限界と考えてよいのだろう。
交替したnaritaファミリー氏も、渾身の力を振り絞る。ミヤマよ出て来い、と掘る方も見守る方も祈るような気持ちだ。そして、自分が掘る番。非力な自分もスコップに精一杯の力を込める。
しかし、目標とする深さに到達しても、もう何も出ることはなかった。
三人は顔を上げ、あきらめるともなく、互いをねぎらうともなく、向かい合いながらぼんやりと立ちすくんだ。こうして、そろそろ切り上げようという、暗黙の了解が成立した。
「明日、いや明後日ごろ、体が痛くて動けないだろうな」
エンダー氏が顔に滲んだ汗を拭おうともせず、伏目がちにつぶやいた。
初夏の日長とはいえ、日差しはもう傾き始めていた。穴を埋め戻し、荷物を取ってその場を離れようとするときに、疲れきった体を癒すかのような爽やかな風が、木立の間を吹き抜けていった。
要するに、狙っていたものは採れなかったのである。ミヤマの蛹室作りの場所は、謎のままに終わってしまった。これに続く再度の試みは他の人に委ねるしかない、と互いに確認しあうほどに、三人とも疲労困憊であった。
しかし、手掛かりは残されていないことはない。土中のノコ新成虫に出会うことができた。土中深くにミヤマ幼虫も見出した。もうあとどれくらい掘ればいいのか。そのための気力は回復するのだろうか。
筑波近辺のみずみずしい山々が、夕日に映えていた。この壮絶な挑戦にまた立ち向かう日も、やがては来るのだろう。三人は、そんな思いが心の奥底に芽生え始めているのに、未だ気がついてはいなかった。
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