山形・南会津採集記 
by Erie


8月27日(金曜日)

いつかこの日がくることはわかっていたことであるが、その日はあっという間にやってきた。
いつものようにぎりぎりまで仕事をし、雨があがったばかりの濡れた地面をぼんやり見つめながら車を走らせる。

今年何度目の採集旅行だろうか。
必要なものをいつものバックにいつものように入れてゆく。
慣れたものだ。
インターネットの天気予報で週末の南会津地方の天気を確かめ、ちょっとがっかりする。
昨日とたいして変わらない。
おせじにも天気が良いとはいえそうにないデータだ。
一応、天気図と雲の様子も確認する。
左半球の私が右半球の私に言う。
「無駄無駄。天気だけはどうにもならないのだ、わかっているだろうに」
「うるせえ、わかってらい」
昨日までこちらで雨を降らせた雲の後を追うことになりそうだ。
本当は東京行あるいは仙台行の夜行バスを使うつもりであったが、帰りのバスがとれなかった。
福井ー福島間は距離にすると約550kmだ。
南会津ならもっと近い。
5,6時間あれば走れる距離であるが、さすがにこの距離を一度に走ったことがない。
疲労しきって、採集に集中できないのでは、なんのために行くのかわかったものではない。
今回は仕方なく京都から新幹線を使うことにした。

ただひたすら、トラックの間をすりぬけて北陸道を上る。
山科の別宅に着いたとき、時計は12時をとうに回っていた。

8月28日(土曜日)

6時、浅い眠りのなか、聞き慣れない目覚まし時計が小うるさい母親のように起きろという。
コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てる。
この部屋は東に窓があるので朝日がまぶしいというより、ただただ暑い。
この天気を福島にもっていきたいものだ。
重たい荷物を抱えて長い階段を降りた。

東海道新幹線から見る富士山はなぜかいつも雲に隠れている。
そして、何事もなく東北新幹線は福島駅に昼前に到着した。
しかし郡山までうっすらと射していた日差しは、トンネルを抜けて福島市内に入ったとたん、窓をたたく雨粒に変わっていた。
ここから福島交通鉄道に乗って終点の飯坂温泉へ、ここが安達さんとの待ち合わせ場所なのだ。
しかし、次の電車まで45分ある。
福島駅周辺で昼飯をとって時間をつぶした。

福島交通鉄道は住宅地の間を通り抜ける単線である。
民家のコンクリートの壁際を電車が曲がってゆく。
遠くに山並みが見えるが、頂上は雲に包まれて見えない。
視線を近づけると桃畑が見える。
福島は桃の特産地のようだ。
飯坂温泉駅前におりたつと、古い看板が軒を並べる町並みが出迎えてくれた。
ラジウム温泉卵をかかえたおばちゃんとすれ違う。
私は温泉も好きで各地の温泉に通っているが、なかでもこういう古い温泉町は好きだ。

<雨の飯坂温泉>

橋の向こうに見覚えのある車が見えた。
安達さんだ。
「どうも、お久しぶり」

今年2回の台湾採集旅行はよほど楽しかったのだろう。
話をしているあいだ中、目がきらきら輝いている。
わたしも行きたくなってしまうではないか!
安達さんの小型種や台湾の標本を見せてもらっていると、しばらくして爆発栄螺さんがやってきた。
ちゃきちゃきの江戸っ子であることは話に聞いていたが、実際話してみるとまさにその通りだった。
文字列だけではわからないことである。
西日が少し射してきた。
天候は回復してきたようだ。
スギリンさんは翌朝南会津のポイント近くで落ち合うことになった。
そして、安達号は3人を乗せて出発した。

夜になり車は山形県に入った。
闇の中に黒い雲が広がっている。
局所的に雨が降っているのか、道路が濡れて黒光りしているところと、そうでないところがある。
外灯周りおいて、濡れている路面は著しく視認性を低下させる。
コオロギが集まっている、もう夏も終わりだ。
羽虫の集まりは少ないが、それでも山形は虫密度が高いほうだろう。
こんな悪条件でもぼちぼちノコギリ、アカアシ、カブトムシなどが採れる。
もうどれだけ走っただろうか。
少し雲が切れてきたようだ。
美しい月が見え隠れする。
そうだ、今日は満月だ。

ふと民家の横に車が止まった。
安達さんが動いた。
「なんだ。ノコの雌か・・・やったオオクワだ!」
なんとこんな悪条件でも、オオクワが採れてしまった。
私は手のひらの上の山形県産オオクワにしばし呆然とした。
これが私にとっては初めてのオオクワガタ採集となった。

<翌日撮影:山形県産オオクワガタ雌>

明日のヒメオオ採集に備えて、車は夜中の国道をひた走り南会津へと向かった。

8月29日(日曜日)

南会津は森の深いところだ。

<南会津のブナ林>

予定の時刻までまだあと2時間ほどあるので車内で仮眠をとる。
思えば、車中泊はこれで2回目だ。
前回は山梨のとある温泉街であった。
車内でシュラフにくるまっていたにも関わらず凍るような寒さのために眠れなかったが、今回は少し興奮してせいだろう、やはり余りよく眠れなかった。
低いエンジン音が近づいてきた。
スギリンさんのジムニーだ。
外に出ると、さすがに寒さが感じられた。
やはり車の音で目が覚めたのか、昨晩近くで灯火を張っていたと思われる人が車から降りてきた。
どうやら親子で来ているらしい。
しっかりとロープで固定された立派な灯火セットであるが、昨晩の天気とこのロケーションでは大した成果はなかったに違いない。

曇りがちではあるが、わずかに朝日も差し込んでいる。
朝の天気は思ったよりも悪くなかった。
しばらくすると安達さんが起きてきた。
「じゃ、ちょっくら広沢林道でも見学にいきますか」
2台の車に分散して、今回のヒメオオポイントには直接行かず、まず噂に聞く超有名スポットの見学に向かう。
「行ってもいいけど、まあ採れませんよ」
その意味は行ってみてようやく分かった。
「ここが、入り口」
たしかに写真でみたことのある風景だ。
しかし思ったより道が悪いことに呆れてしまう。
私のRV車だったら気にせず走れるが、一般車では底を気にしながら、またパンクを気にしながら走らざる
を得ない。
対向するにはかなり困難な場所が多く、多数の採集者がこの林道に入ったら大変なことになるだろう。
もっとも歩くといっても相当な距離がある。
それにしても檜枝岐は噂に違わぬすばらしい環境である。
この密度、面積でブナが存在するということ、そして林道沿いにはヤナギ、ダケカンバ、ウダイカンバなどヒメオオの好みそうな幼木が並んでいるということ。
ヒメオオの楽園であることは間違いない。
なにしろ私の地元では、食痕を頼りにヒメオオを捜そうと思ってもまず食痕がない。
それが、広沢林道ではそこかしこに食痕があるのだ。
個体数の多さを物語っている。
しかし、それにしても食痕のわりに虫が少ないのが気になる。
アカアシですらろくに見あたらない。
早朝ということもあるだろうが、昨日のうちに採集されつくしてしまったのだろうか。
それとも車の往来が激しすぎるせいだろうか。
峠付近でアカアシとヒメオオを少数採集して、橋までいったところで広沢林道の見学は終わりだ。
広沢林道といえども、もはやこの辺ではそう簡単には採れないのだということを実感した。
10年前なら、ここでも楽勝で3桁のヒメオオを採ることができたはずなのに・・・。
実際、ここ数年は私らが通った林道沿いではあまり多くのヒメオオが得られていないということを後で知った。

さあ、これからが本番だ。
我々は本日の採集ポイントに向かった。
南会津某所の安達さん、スギリンさんのヒメオオポイントでは、往復6〜7時間の藪こぎ登山をしながらの採集とのこと。
6時間とは尋常ではない。
装備を確認して出発する。

<登山道をゆく>

快晴のときは逆光がまぶしくて枝先が見えにくいことがある。
しかし、曇りのときはなにより光度が足りず、しかも紫外線の乱反射のせいだろうか、やたらまぶしくて
枝先がよけいに見えない。
私は曇りのときのルッキングは苦手である。
しかし、爆発栄螺さんは丁寧に、そして確実にゲットしてゆく。
私も負けじと採りまくる。

<逆行で見にくいがヒメオオ雌1>
<同じく雌2:やらせではありません>

ルッキングのとき、安達さん、スギリンさんの目は近くの木を見ていない。
登山道からやや離れた如意棒が届くか届かないかという距離の枝先を見ている。
この距離ではヒメオオはかなり小さく見えるが、それでもしっかり見つけてしまうあたりさすがとしかいいようがない。
こんなとき、スギリンさんの8mの長竿が威力を発揮するのだ。
確かに、ここは手の届くところにヒメオオはいる。
しかし、手の届かないところにはもっといるのだ。

足下の草が踏みつけられている所を見ると、誰か他のひとも採集に入っていることは明らかだ。
しかし、競合者が少ないということは多数採集するための必要条件である。
登山道の途中で小休止していると、雲が切れてうっすらと陽が射してきた。
するとどこからともなくアサギマダラがひらひらと舞い降りてきた。
「蝶の通り道か」
枯れかけのノアザミの花の密を吸いに来たようだ。
アサギマダラは赤い色に反応するのだろうか。
赤のストライプのシャツを着ていた私の周りを警戒心もなく飛んでいる。
大型の美しい蝶の乱舞にしばし見とれる。

<アサギマダラ>

しかし、次の瞬間は雨である。
「ちょっと本降りになりそうですが、このまま行きましょう」
かなり歩いてきたが、まだ半分も来ていないのだ。
雨が降っていなくても朝露に濡れた藪を歩くため、すでにジーンズはじっとりとしめっており、シャツも
汗で重たくなっている。
長靴を持ってこなかったのは大失敗であった。
踏みしめるたびに、シューズのなかはまるで川の中を歩いているような感覚である。
(おいおい、このびしょぬれの格好で新幹線に乗って帰るのか?俺は)
雨だけでなく、風も出てきた。
半分の行程を歩いたところでお昼にする。

<おどけるスギリンさん>
<いぇ〜い。爆発栄螺さん>

濡れた体から一気に体温が奪われてゆく。
標高は1300mを越えていた。
私はススキの花粉に対するアレルギーでもうぐしゃぐしゃだ。
そんなこともあろうかと持ってきたザジテンを2錠飲んだが、藪こぎするたびに頭の上から花粉が降ってくる状況ではあまり効果がない。
腕は発疹のため赤く腫れあがっている。
帰り道は殆ど採集もできず足早に歩き続けた。
風は強くなるばかりであった。
先行していた安達さんは車で寝ていたようだ。
さすがにほとんど寝ずに運転してこの採集では疲れているだろう。
天候の悪化と、私の帰りの新幹線の時間のため、採集は早めに終わった。
もっとゆっくり捜すことが出来ればもう10や20は追加できただろう。
それでも採集したヒメオオは60(アカアシもほぼ同数)を越えていた。

<爆発さんと私の採集結果>

私の採りこぼしがかなりあったのが数に響いている。
100を目標にしていただけに少し残念ではあるが、この天気でこの数採れたということは私には驚くべきことであった。
帰りみちでは、標本用とおみやげ用に最低限だけ確保して、ヒメオオ雌と殆どのアカアシはヤナギの林に逃がしてきた。
きっと来年以降も我々を楽しませてくれることだろう。

予定より少し早く採集を切り上げたので、朝通った檜枝岐広沢林道をもう一度行ってみることにした。
日曜日の午後だというのに、車がそちこちに置いてある。
採集に来たのだろうか。
ネットを持った何人もの採集者にも出会った。
人を魅了して止まないのが檜枝岐なのだなあと改めて思った。
そして広沢林道を抜けて国道にでると、一変して快晴である。
檜枝岐とは不思議なところである。

車は長い下り坂に入った。
助手席で少し寝てしまったようだ。
安達さんは眠いのを我慢してトップスピードできついカーブを走り抜けてゆく。
本当は福島市のスギリンさんのお宅まで標本を見せて貰いに行く予定であったが、途中寄り道をしたせいか、あまり時間がなかった。
その日のうちに京都まで帰り着きたかったので、今回は遠慮することにした。
次に来るときまでのお楽しみとして残しておこう。
駅前ロータリーで握手をかわし、再会を誓う。
我々のいつもの儀式だ。
汚れた湿ったシューズで白い階段を掛け登り、乗車券だけで間一髪飛び乗った「やまびこ号」は夕暮れの迫った福島駅を静かに滑り出した。

(28-29, VIII, 1999/Erie :ceruchus@mb.neweb.ne.jp)


謝辞
今回の採集に際し、福クワの安達さん、福タマのスギリンさん、そして爆発栄螺さんに大変御世話になった。2日間の採集において、最悪の条件で最高の結果を出すことができたのは、彼らのお陰であることは明らかである。ここに深く感謝申し上げる。