四二 帰郷

 

 列車が谷間にひっそりと佇む狩太駅に到着したのは、午前七時過ぎであった。列車はたった一人の下車客だった私と、入れ替わりに数人を乗せて、また喘ぐように白煙をあげて発って行った。私は旅の終わりを実感しつつ、遠ざかる列車をホームで見送っていた。出札口で、たった一人の下車客を待っている駅員の姿に気付き、小走りで跨線橋を渡り改札口前で、懐にしていた乗車証明書を取り出し駅員に差し出すと、駅員は無表情でこれを受取り私を通した。

 私は、人気のない小さな待合室で足を止め、連絡バスの有無を確かめて直ぐ駅舎を出た。早朝ゆえに行き交う人もいない駅前の坂道を、両側の家並を確かめながら歩く。私の記憶と全く変わっていない街並みには、敗戦の傷痕などは全く見当たらず、未だに敗戦の悲劇をひきずって歩く自分が、滑稽にさえ思えた。坂道を上りきり狩太郵便局前を通りかかると、ふと家に連絡を入れようと思いつき、郵便局に立ち寄り、人気のない時間外の窓口を叩いて職員を呼び、「元真狩郵便局にいた佐々木」が、徒歩で真狩に向かったと、真狩郵便局へ一言伝言を依頼して辞した。

 長旅の疲れのなかで、さらに十二キロメートルの徒歩は決して楽だとは思えなかったが、シベリアで寒さに震えながら三〇キロメートル以上も何度か歩いたことに比べれば、真狩までの帰郷の足どりは軽かった。狩太市街を離れ、近藤小学校前を通り過ぎると、夢にまで見た羊蹄山としばし向き合って歩く。羊蹄山麓に抱かれて広がる畑作物が、初夏の朝日とそよ風に輝やいで見えた。私はつくづく、「国破れて山河あり」とはまさにこの光景を詠んだものと実感した。また、反面真狩のような山村では、あの熾烈な太平洋戦争があったとは、全く考えられない光景とも言える。でも、どんなに小さな村でも戦後体制は変わり、どのように再出発をしているのだろうか、間もなく出る結論を期待しながら歩き続けた。

 狩太村との村界を過ぎて間もなく、意外にも為義兄の出迎えを受けた。互いに喜色満面で声もなく、手を握り合った。私が出征する際には、「北支戦線を転戦中」との消息だけを胸にして満洲に向かい、敗戦後は私同様に捕虜となって苦役に耐えているとばかり案じていた兄の出迎えには、自分の帰還を忘れる感慨が胸に迫った。肩を並べて歩きながら、長兄も無事に帰還して真狩村農業会で働いていること、母をはじめ家族全員が健在で、一人残っていた私の生死を気づかっていてくれた様子など、身内のことを大まかに話してくれた。やがて真狩市街が視界に入って来ると、明日から始まる自分の生活に新たな決意も持てず、なぜか一抹の不安がよぎった。

 家族全員の出迎えをうけ、二度と跨ぐことがあるまいと何度か諦めていたわが家の敷居を跨いだ。「よう生きて帰って来たのぅ」と、笑顔で迎えてくれた母には、感極まって返す言葉に詰まった。とにかく命だけを持ち帰えったことが、せめて母への土産であると思いながら、ただ涙して頷いた。気丈夫な母の眼も潤んでいた。母は私を促し、父の仏前に無事の帰還を告げた。母は数珠をはずした手で、私の髭面を撫で、「お前痩せたのぅ」と重ねてねぎらってくれたが、私にはまだ返す言葉が出てこなかった。そのあとで、義姉達が精一杯支度してくれた食卓を囲み、歓迎の朝食をとることになったが、私には、二年数ヵ月の過去を、どこからどのように話してよいやら、話の糸口すら掴めず、笑みを湛えつつ黙々と食べ続けた。食後、若干気を取り戻して、兄達の問いかけに答えるように、終戦時の八月一五日に延吉の陸軍病院を強制退院させられ、九月一五日にソ連領に連行され、シベリアの奥地には十一月二日に入り、その後夏は煉瓦造り、冬は伐採作業をしていたと大まかに話をした。兄達も私の疲れを意識してか、それ以上具体的なことは聴こうとはせず、私に就寝をすすめてくれた。