四一 復員列車から見た戦後

 

 山村育ちの私は列車の旅がとても好きであった。次々と移り変わる光景は、私にとっては知識の宝庫に接するようなもので、目にする楽しみばかりではなく、その時々に寄せる旅心に潤いがもてるからである。未だに地名すら分からない最後の収容所を貨車で発ち、ナホトカまでの不安の中にあっても、私は常に外が見えるところに乗っていた。そして、心身の疲れを意識しながらも、移り変わる車窓の光景から目を離すことはなかった。これに全く関心を示さずに、寝てばかりいる者の心境等は、私には到底計り知れない。

 六月二〇日帰郷の朝、私は相変わらず早く目覚めた。もう誰にも気がねすることがなかったので、すぐ宿舎から外に出た。晴天の朝日がとても眩しかった。なんと清々しい朝の空気を、恰かも一人じめするかのように、両手をひろげて深呼吸をした。そのときの私には、昨夜遅くまで色々考えていたことなどは、既に霧散していた。四囲の緑に目をやりながら、しばしぶらつく。既に数人の者がベンチに腰を下ろして寛いでいた。私も昨夜配給を受けた煙草に火をつけて座った。同席すると、「愈々今日は帰郷ですね」と声をかけられた。私は咄嗟に、「夢の様ですね」と返した。すると彼は、シベリアに残る同胞を思い遣ってか、「みんなは、今頃何しているだろうか」と呟いた。会話で、同席者も三等位であったから、この度の帰還組に入ったと云う。

 午前九時頃、援護局の職員から、復員列車が入った旨の連絡を受け、同宿の者を誘い合って宿舎を出て西舞鶴駅へ向かった。既に駅ホームに入っていた列車を目にしたとき、日本の列車が、こんなにも小さな車両だったかと思った。昭和二〇年二月釜山港上陸後、驚嘆させられたあの廣規鉄道、又シベリアを縦走してきた五〇車両編成の貨車の威容からしても、余りにも小さく見えたのであった。鮨詰め乗車ではあったが、どうやら席を得て座ることができた。故郷に向かうとは云え、何しろ北海道までと思うだけでも長旅を意識させられた。汽車は臨時の各駅停車で、舞鶴線を走り、山陰本線に出て京都へ向かうという。私にとって京都までのこの路線は初めてであった。

 午前一〇時、発車した列車は短い街並みを通り抜け、車窓は初夏の田園風景に変わった。沿線には、陽光にひかる琵琶の葉、群がって熟れている黄色な実、刈取り寸前の黄金の秋播き小麦畑、田植えを済ませたばかりの水田などが、交互に移り変わる。日本は美しいなぁと溜め息をつく。もう私の気分はシベリア帰りの抑留者ではなく、ただの旅行者の旅心と変わっていた。こうして舞鶴線の沿線風景を見る限りでは、大戦があったことも、敗戦の痛手などその影すら見当たらなかった。「国破れて山河あり」とは、まさしくこのことだと思った。列車が山陰本線に入った綾部駅で数人の仲間が下車し、列車は彼等の見送りを受けて綾部駅を後にした。彼らは、鳥取か島根に帰るのだろうと思った。それから三時間余りして、列車は京都駅のホームに入った。幾筋かのホームには、溢れ落ちる程の乗客がひしめいて待っていた。京都駅では、京都以西に向かう復員兵士の三割方の者が下車して行った。その後、間もなく昼食の弁当が運び込まれ、早速昼食にありついた。ところが、臨時仕立ての復員列車とばかり思っていた列車に、いきなり、なだれ込むように一般乗客が入って来たのである。それこそ、あっという間に通路は勿論、私達の座席の前までも立ち塞がる混み方で、老若男女に子連れの集団と変わってしまったのであった。このとき私は、乗客達の身なり所持品からして、戦後の世相を初めてかいま見たのであった。なだれ込むようにして乗車が終わったホームには人影も疎らとなり、ホームの先に見える京都駅裏には、赤錆びたトタン葺きの小さなバラックが建ち並び、見るからにして戦後の生活苦を織りなしているように見えた。この状況下では昨夜考えていたような都市生活も、そう簡単には飛び込めないと思った。また、たった今乗り合わせた車中の人々の様子からしても、まだ日本では戦後生活が困窮の最中にあることを知った。列車が京都駅を発車してからも、私は車窓に移り変わる光景と、うごめくような車内の情景から、目を交互にして離すことができなかった。何度となく繰り返していく停車のたびに、車内は混雑を極め、座席のひじ掛けを渡り歩く者、乗下車を窓から出入りする者も珍しくなかった。

 列車が名古屋駅のホームに入ったときは、既に日暮れかけていた。十数人の復員者が挨拶もせず、必死の思いで下車して行った。しかし、一般乗客はさらに増え、車内への出入りは車窓からする以外に方法がない状態となった。もう車内では、復員者と一般乗客との見分けなどは、全くつかない状態となった。名古屋駅を発ってから間もなく、私の横で通路に座っていた方が、「お読みになりますか」と云って差し出してくれた新聞を受取り、初めて日本の新聞に目を通した。日本国憲法が新たに制定公布されていること、発足間もない片山連立内閣の政局情勢などが書かれていた。さらに紙面には、「労働スト」の記事がかなり大きく取り上げられ、なぜかこれに迎合する記事内容に、私は目を見張った。「まさか、こんなことが罷り通っている」かと一瞬息を呑んだ。「敗戦後の日本は矢張り大きく変わった」と意識しながら、記事を隅からすみまで貪るようにして読ませてもらった。こうして敗戦後二年足らずの期間で、日本の国内体制がこうまで変化し、その総べてが混乱状態にあることを知った。私は、このときはじめて、日本政府がシベリア抑留者に対して、積極的に目を向ける余裕がなかったことを知った。

 名古屋からの列車は、夜汽車と変わった。我々には幸いにも握り飯の差し入れがあったが、京都から乗った一般乗客のなかには、何も口にしないで寝入った者がいる様に思えた。ふと気づくと何処の駅でも立ち売りが見かけられなかった。確かに今発ったばかりの名古屋駅でも、弁当売りの呼び声すら聞こえなかった。このことからしても国内における食糧事情が窮迫していることを知った。故国に帰り着けば、何はともあれ腹一杯に飯を喰おうと夢にまで期待を寄せたが、これは直ちに受け入れられそうもないと思った。復員列車の車中とはいえ、再び社会人として出発したばかりの今日一日色々なことが見聞できたが、いずれも厳しいものばかりで、帰国を手放しで喜べないと自覚した。

 夜汽車とはいえ停車駅ごとに乗り降りがあったので、全く寝入ることもなく夜明けを迎えた。列車は品川駅を通過していた。車窓には、戦災跡が生々しく移り変わる。「東京はひどいなぁ」とつい声をもらした。シベリアに入ってまもなく、ソ連側が発行した「日本新聞」で東京が壊滅的であるといち速く報じられていたが、あながちその記事だけは嘘ではなかったことをこの目で確かめられた。臨時の復員列車の終着は東京駅であった。駅ホームに出て東北・北海道方面に帰郷する百人余は、下車後すぐ上野駅に向かった。この行動では、まだ集団掌握されているのかと抵抗を感じたが、よく考えてみれば車中給食の関係がまだ残っていたのであった。

 私は出来得ることならば、二・三日滞在して、戦後の東京の様子を見ておきたかった。真狩に落ち着けば、おそらく東京へは再び来る機会があるまいと思ったからである。そう思うと、このまま直ぐ東京を離れることに一抹の寂しさが感じられた。上野駅に着いてからも直ぐ東北線ホームに出て、既に入線していた「青森行き」の列車に乗車させられてしまった。なんだか囚人を護送しているかのようであった。たった一個の握り飯を支給する手段として、こうまで行動を制約するのかと、なにか腹立たしさを感じた。乗車後、直ぐ握り飯が配られた。ところが、列車が発車するまで二時間ほども車内に缶詰となり、じいっと待つことになった。私は何とかして朝刊を手にしたかったが、ついに出来なかった。やむを得なく、次々とレールを軋しませて出入りする山手線の電車の様子を車窓に頬杖して見つめていると、また東京への未練が残った。

 列車が上野駅を発つと、間もなく車窓には赤錆びたトタンで、雨露凌ぎ程度の小屋が、地表を塞ぐかの様に建ち並んでいた。おそらくこの辺たりは殆どが焼失したとみられる。列車が山手線の日暮里駅を通過して東北本線に入ると、車窓は急に田園風景に変わった。爽やかな初夏の田園風景に目をやりながらも、たった今、後にしたばかりの東京が、なぜかまだ未練となって心なしか侘しさを感じていた。舞鶴の夜、自分の将来を考えて大都市生活をしようと、あれ程までに力んではみたものの、結局、私には決行する勇気がなかったのである。しかし、東北本線を北上し福島駅を発ってからはその夢も消え失せ、移り変わる田園風景をただ見入っていた。

 列車が仙台駅ホームに入ったのは午後四時を回っていた。乗り合わせていた大半の復員者は、こころもち肩を落として下車して行った。私はこのときなぜか自分の後ろ姿を見たように思えてならなかった。若干早い夕食の給食を受けたが、もう復員者の数は少なく、車内の殆どが一般乗客で埋まり、既に私はひとりの旅行者に過ぎなかった。私は隣りの方に座席の確保を頼んで、新聞を買い求めに駅へ走った。しかし残念なことに、ここでも新聞を手にすることは出来なかった。車内に戻り座席に腰を下ろすと、東北訛の叔母さん達の会話が耳に入ってきた。何だか食べ物の話のやり取りで、仙台市内での行商の帰途らしい。仙台駅を発って間もなく、先程支給された握り飯を取り出し、一口頬ばると、気のせいか上野駅で食べた握り飯よりも、お米が美味しいと思った。私も暇まかせに味わいながら食べていた。すると、先程から私の様子を見ていた向かい隣りに座っていたおばぁちゃんが、「あんたは何処から来たんじゃ」と話しかけてきた。私は咄嗟にこのおばぁちゃんは、私がこの握り飯を受領するところを見ていたのだと思った。私は、「シベリアからの復員途中です」と答えると、「それはそれは、ご苦労はんでしたなぁ」と云い、「わたしの親戚の息子もシベリアにいると聞いているが、まだ帰って来ない」と云い、それっきり口を結んだ。私もあえて言葉を続けようとはしなかった。このおばぁちゃんも、仙台へ行商に来た帰りらしく、帰り仕入れの荷物を背にして塩釜駅を降り立って行った。

 夜汽車となってからは、長旅の疲れと、周囲えの気兼もなくなったので、緊張感もほぐれ、自然と居眠りに誘われて寝入ってしまった。午後一〇時過ぎ青森駅に到着した。眠りが浅かったのか、頭の芯がすっきりとしなかった。一斉に駆け出して行く人の流れの後に続いて乗船桟橋に向かった。桟橋では乗船待ちの大勢の客でごった返しの状態であった。もう全く単独行動となっていた私は、列にならぬ列に加わり、しばらく乗船を待つた。よく見ると、乗船待ちの大半の客は、大きな風呂敷包みなどを持った叔母さんたちである。話を立ち聞きしていると、彼女等は函館まで行商に出掛けて行くらしい。俗に言う津軽弁だったから私には十分には聞き取れなかったが、手荷物などから見てもそのように見えた。一〇分程すると改札口近くの客が動き出した。改札が始まったのかと背伸びして見ると、なんと私が舞鶴港上陸後に受けた消毒と同様に、一人ひとり首筋から背中や胸にDDTを注入していたのであった。私は国内旅行者にも検疫消毒が行われているとは思ってもいなかったから、何か事情があってのことだと思った。やがて私に番がまわり、呼吸困難になるほど思い切りDDTをかけられた。でも消毒が終わるとすぐ乗船させて貰えたので、先客に真似て船室に入る前に、デッキで衣服を脱ぎDDTを振るい落としてから、船底の三等船室に入って横になった。ところが、どうも目鼻についたDDTが気になり、再び洗面所に出て洗面をすると、折角催していた夜半の眠気がすっかり覚め、その後は眠ることが出来なかった。懐かしいドラの音を耳に残して出港した後、船底から背中を揺するような激しいエンジン音と振動で、体を横にしていることが苦痛になり、私は座ったまま眼を閉じて過ごしていた。

 ところが、出港してから二時間余りもたつと、あれ程までに混み合っていた筈の船室が空いてきたのである。これに気付いてから、客の様子を見ていると、次々と荷物をもつてデッキに上って行くのであった。まだ時間的にも津軽海峡の半ばを航行中の筈だが、なぜこんなにも早く出て行くのだろうかと思った。私も気になり、隣で腰を上げた客のひとりに尋ねると、その方は背を向けて靴を履きながら肩越しに、さも面倒くさそうに、「函館からの座席をとるためだ」と言う。私は重ねて「やはりそうしないと駄目ですか」と聞くと、「この船の三割がたの客は座れまい」と、吐き捨てるように云って立って行った。私も早速その方の後を追うようにデッキに出て、下船待ちの長蛇の列に加わった。連絡船は暗い海峡を波まかせに揺れながら進んでいた。初夏とはいえ、私の頬を撫でる海峡の夜風はまだ冷たく、立ちん棒して待つ函館港は、まだ遥か遠くに感じられた。

 午前三時過ぎ、連絡船は白らじらと夜明けの函館港岸壁に着いた。間じかに見る函館山は、すでに新緑を装って、私の帰道を快く出迎えてくれているかのようだった。しかし、私にはどうしたことか、舞鶴港ほどの感激を胸にすることは出来なかった。下船が始まると、矢張り乗客は列車の座席確保のため、先を競って桟橋を駆けていく。私もみんなの後を追うように桟橋を走り抜け、駅ホームを走り列車に飛び乗り、幸いにも僅かに残っていた空席に座ることができた。激しく打つ動悸を抑えながら、後続の乗客が狼狽する姿を見ていた。間もなく車内は通路も塞がる混み合いとなった。こういうときは荷物のない身軽さが有利だと、足らざるものを奪い合う初体験をした。競い合って乗車が終ったホームでは、早朝の静けさを取り戻し、初夏の浜風が音もなく吹き抜けていく。車窓からこうした光景を見る限りでは、函館駅はなんら変わってはいないようだった。そうして、自分が二年数ヵ月の空白があったとは到底思えなかった。そう思いつつ乗客達の会話を耳にすると、自分が北海道まで帰り着いたと強く意識した。

 私は、車内に復員の仲間が居るのではないかと座席に目を追って探したが、もう復員者と、一般乗客とは身なりからも、全く見分けがつかなかった。汽車が函館駅を後にしてからは、蒸気機関車の喘ぐような息づかいを耳にしながら、移り変わる車窓の光景をじいっと見続けていた。やがて大沼を過ぎ、駒が岳を後にした。森駅を発ってからの朝日は、昨夜殆ど眠っていなかった私の眼にはあまりにも眩しすぎた。私はこれを避け目を閉じると、なぜかシベリアの収容所に戻される。若し、私が帰国できず、あの作業大隊に居残っていたら、この夏も今頃は何をしているだろうか、やはり、昨年同様に煉瓦工場で汗を流しているかも知れない。また、日を追って煩くなっていた民主運動は、その後はどう展開しているだろうか。そして、あれ程待ち焦がれている同胞達の帰国は、何時になったら実現するのだろうか。私が目にしてきたナホトカや、舞鶴の送還態勢からして、残っている同胞達の帰還はかなり先のように思えてならない。

 列車は、黒松内駅を後にしてからは、新緑の山合いを蛇行しながら走り続け、長かった私の帰国の旅も、間もなく終わろうとしている。振り返ると、帰還の旅路は遠かった。六月初旬、不安を胸に、最後の収容所を貨車で発ち、コムソモリスク経由で南下したときには密かに安堵した。ハバロフスクに到着後は、又この先西に向かうか南に下がるかで、再び運命を分ける心配をした。ナホトカ到着後、眼前に広がる日本海の海原には感涙にむせび、その喜びも束の間、残酷としか言いようのない、「残留命令」には泣けた。そして舞鶴の夜では、戦後日本の一端を実感し、京都、東京、仙台、函館と四千キロにも及ぶ脱出にも似た長旅であった。