四〇 喜びと不安が半ばする舞鶴港

 

 六月一八日、朝靄のなかから箱庭のような美しい舞鶴港が眼にはいった。いつからか甲板に鈴なりになって、入港を待っていた仲間から、一斉に歓声があがった。それは私にとっても、生涯二度と味わうことの出来ない劇的な感激であった。このとき、初めて生きて帰り着いたと云う実感と、あまりにも美しい祖国の風景が交錯し、誰一人として涙ぐまずにはいられなかった。私も涙ぐんだ眼で、初めてみた舞鶴港を眺めると、復員船の進路右手の湾内に、沈没船の赤さびた舳先が目に入った。これが私が初めて見た祖国での戦跡であった。これを目にした私には、なんだか帰国を手放しで喜べない、新たな緊張感が走った。しかし、この舞鶴港の土を踏んだ後に、如何なる困難が待ち受けていようとも、タラップを降りるみんなの足取りは軽かった。

 タラップを降りると、直ぐ復員局の係官の誘導で検疫所に向かい、全身と衣服の消毒が行われた。DDTとやらの消毒薬を、頭から全身に振かけられ、それは見るからに、動物の検疫扱いであった。消毒を済ませると、すぐ隣り合わせに設けられていた浴場に入り、たった今、全身に振りかけられたばかりのDDTの粉を洗い落として浴槽に入った。私にとって入浴は、延吉陸軍病院で手術前に一度入ったきり、二年三カ月振りに味わう湯の温もりであった。仲間達も久々の大きな浴槽の中で、目を閉じ、懐かしい湯の感触に浸っているかのようであった。

 入浴を済ませた後、順次、引揚援護事務局に呼び出されて、復員の手続きが行われた。手続きを終えると、すぐその場で各人あてに復員列車の乗車証明書と二百円の帰郷旅費なるものが手渡された。手続きのすべてを終え、引揚援護局舎を出ると、これでやっと兵士の身分から開放されたという実感がわき、なぜかさばさばとした気分になった。案内された宿舎に入ってみると、さきに入っている仲間達が交わしている談笑態度は、最早、社会人としての付き合いが始まっていた。皆もやはり夫々に心の切り替えが出来ていたように思えた。

 ところが、八時過ぎのことである。私も夕食を済ませ周辺の者とかってないくつろぎのなかで談笑をしていた。そこへ見かけない二人がかなり意気巻いて入ってきた。二人の会話から彼らはGHQに連行され尋問を受けたらしく、かなり興奮していた。私は直感的に彼ら二人が民主グループの一員として活動していた簾で、きっと取り調べを受けたに違いないと思った。若しそうであるとすれば、彼らとてあくまでも帰国の為の手段として活動したに過ぎないかも知れないと同情を寄せる反面、このとき初めて祖国がアメリカ軍の施政下にあることを意識した。今朝上陸したばかりで日本のことはまだ右も左も分からないが、共産主義が依然として警戒されていることを知り、いまなお苛酷な労働に耐えながら、一日も早い帰国を心待ちしている多くの同胞の身柄が、強く案じられてならなかった。また、偽装民主主義者で通してきた私等の身にも、この先、この種の疑いが振りかかるのではないかと、不安を感じた。

 待ちに待った帰国の第一夜に、こともあろうにこんな惨めな思いをするとは誰が予想をしていただろうか。私は気分転換をしようと、隣のベットの者と連れ立って外に出た。暖かく心地よい初夏の夜風が顔を撫でる。「やはり日本はいいなぁ」と肌身をとおして感じた。多勢の同胞が帰国第一夜のくつろぎを求めて歩き回っていた。私等二人もあてなく夜風と遊び歩いていた。そのうち売店の前に出た。かなりの人だかりに引かれて足を止めてみると、売店のガラス棚に羊羹が並んでいた。私も久々に目にした好物の羊羹だから、急に口にしてみたくなり、引かれるように列の後に続いた。私の懐には先程援護局で貰ったばかりの大枚二百円があるわけだから、順番が来るのが子供のように待ち遠しかった。やっと私の番が回ってきてガラス・ケースの前に立つと、以外なものが目に入った。それはケースの前に貼り出されていた羊羹の値札であった。なんと、「一個二十円」と書かれていたのである。そのうえ、よく見ると羊羹は、小さな水羊羹であった。私は一緒に並んでいた相棒と同様に二個を買い求めて、後退りするようにして列を離れた。「水羊羹一個が二十円」、これはまた意外な事実を知った。夕方援護局で、帰郷旅費として受け取ったとき、私は直感的に「二百円もという大金」と思い、それは私が入隊前に貰っていた給料のほぼ四ヵ月分に相当する額と胸算用をしていた。そして、やはり国も我々引揚者にたいし、当面の生活費程度を補償してくれているものだと、半ば感謝の念を抱いたばかりであった。折角、四十円を支払って買い求めた貴重な水羊羹であったから、ふたりは空きベンチに腰を下ろし、落ち着いて味わうことにした。小さな紙袋から抓み出して口に入れると、名のとおり噛みもしないうちに、舌のうえで溶けてしまった。そして口の中には微かな甘味だけが残った。この水羊羹までがなんだか肩すかしに逢った感じであった。

 相棒に故郷を聞くと、広島へ帰るという。私は、遥か遠い北海道である。道中は誰がどこで、復員者の面倒をみてくれるのか知らないが、残金の百六十円では余りにも心細い旅というか、何か哀れにさえ思えてきた。こんなことを色々と考えながら歩いているうちに、電報受付所の前に出た。やはり此処でも数人が、「無事帰国」の電信依頼をしていた。私も長い間安否を気づかってくれていた母親宛に、無事帰国した旨、打電しようと思い立ったが、手元にある百六十円では、これ以上減らすことをためらった。結局、長い間心配していてくれたのだから、あと三、四日を我慢して貰うことにして、打電を取りやめ宿舎に戻った。しかし、宿舎に戻りベットに入ってから、水羊羹に出会う前に、何故電報受付所に出会わなかったかと悔やまれた。そして軍籍にあった二人の兄がそれぞれ無事に帰国しているだろうかと、身近になってきた家のことを頻りと思い遣った。

 総べての縛りから解き放され一個人の立場となり、明日から自己の責任で新たに出発しなければならないと思うと、この先どう生きてゆけばよいのか、自信がもてず戸惑った。作業大隊を離れてから約五〇日間も費やして来たが、この間一日たりとも気の休まることがなく、ただ脅えながら過ごしていたので、帰国後の身の処し方などは全く考える気力もなかった。ところが、今となってはもう明日へと延ばすことすら許されないのに、今夜の私にはまだどうすることも考え及ばない。先のことは郷里に帰ってから考えようと一度は打ち消してみたが、また、あれやこれやと次々と頭をよぎった。

 林口の部隊に入隊後つくづく考えさせられたことは、出身地によって個人の総ての点に大きく知識差などがあることを知った。私のような山村育ちで、国勢はもとよりすべての情報が閉ざされた環境の中での生活であったから、都市出身者とはかなりのレベル差を常に意識していた。それ故に私は、もし生きて帰れば、このことだけは何としても解決しなければならないと考えていた。この際、いっそ郷里に帰るよりも、思い切って関西か関東の大都市で生活することも一策だと考えた。勿論、当面は乞食同様の放浪生活をすることになるであろうが。しかし、他方では、「そんなに焦るじゃない。折角拾った命だから、一度は郷に帰ってゆっくり静養してから出直しても遅くはない」と引きずられた。帰国の第一夜に、これ程まで現実に引き戻されるとは、考えもしなかったことである。そうこうしているうちに、船旅の疲れが心地よい眠りを誘い、何時とはなしに寝入った。