三九 興安丸の夜

 

 私が乗船してから五〇分ほど経ったであろうか、船のエンジン音が急に高まり、船体が静かに横揺れして岸壁を離れた。そこにはあの懐かしいドラの音もなく、きわめて静かな出航であった。岸壁を離れて間もなく船内放送が入った。「復員者の皆様、本当に長い間ご苦労様でした」、「もうご安心ください。この船は、日本の船です」と労いの言葉があった。この放送を耳にして、やっとソ連側からの監視の目が断ち切れたと思った。でも、どうしたことか、あれほどまでに待っていた帰国の途についた実感がまだ湧いて来なかった。私は、なんとなく船内の仲間の様子をみていたが、仲間の大半も同じ心境にあってか、安堵と喜びをあらわにしていなかった。我々はつい先刻までソ連側の捕虜として厳しい監視下にあったから、そう簡単に頭の切り替えが出来るはずがなかった。まして多くの同胞仲間が、依然として厳しい環境下で、強制労働に就いていることを思えば、俄に手放しで歓喜にしたる心境になれなかったのである。

 船内にメロディーが流れてきた。それは、かって祖国で耳にしたこともない、哀愁を帯びたメロディーであった。

 

  波の瀬の瀬に 揺られてゆれて

  月の潮路のかえり船 霞む故国よ

  小島の沖にや 夢も侘びしくよみがえる

  あつい涙も 故国につけば

  うれし涙とかわるだろう かもめ行くなら

  男のこころ せめてあの娘に伝えてよ

 

 それは、久しく遠ざかっていた祖国への懐想を、静かに呼び起こさせてくれるものであった。そして、久しぶりに嗅ぐ祖国の香りのようなものでもあった。私は、じいっと目を閉じ聞いていると、敗戦後の祖国がそれなりに平静さを取り戻していると感じられ、なんとなく安らぎを得た。しかし、アメリカ軍の占領下にあると聞いている祖国が、どの様な体制に変わっているのだろうかと気になった。

 二〇分ほどしてから甲板に出ることが許されたので、私は悪夢のナオトカ港をいま一度、この目に焼き付けておきたいと甲板に出た。大きな船体が波濤をかきわけながら進み、船尾につづく航跡の向こうは靄で、既にナオトカ港は視界になかった。この時一瞬、私の脳裏から苛酷だったシベリア抑留生活が消え去る思いがした。

 出航後二時間ほどして昼食の握り飯が配られた。それは二年ぶりに目にした米の飯で、仲間は手にとっても直ぐ口にすることさえためらい、ひかる米粒をまじまじと見つめていた。そして、一口頬張ると口にひろがる祖国の味に、なぜか今まで耐えてきた苦労が重なり、止めどもなく涙したのであった。昼食後、我々仲間には脱出成功にも似た安堵感を覚え、誰先となくエンジン音を枕に午睡に入った。

 夕刻、隣にいた仲間から夕日を見よぅと誘われ、後部甲板に出た。落陽寸前の真っ赤な太陽が、水平線に黄金の光を落とし揺れていた。山村育ちの私には全く初めて目にした光景であった。暫し茜空に目を奪われているうちに、陽は静かに海原の彼方に落ち、水平線に夕映えのみが残った。それは、恰も今日一日、様々に繰り広げられた劇的な出来事に終演を告げるかのようだった。夕食が終わってからも大半の仲間達は、また横になって寝入っていた。勿論今の我々には、なにもすることも出来ないすし詰めの空間に身を置いているので、海路は寝て待つしか術がなかった。私もエンジン音をさけるように、腕枕で目を閉じていた。今こうして復員船で祖国に向かっているというのに、心中なぜかしきりと、ラーゲリに引き戻されるのであった。そして私の耳に、苛酷な労働についている同胞達の荒い息づかいが聞こえて来るような気がしてならなかった。

 あの三月三日の休日労働に端を得て、その代休日に医務室に向かわしめた手操られた糸。そして森永軍医に吐き捨てる様に断られ、森永軍医に代わって現れた若いソ連軍医の診察。若しあの日、ソ連軍医とのめぐり会いがなければ、今日の帰還は当然無かったであろう。三月下旬に行われた体力検査場で三列に並んだ際に、何気なく加わった私の列に、偶然にも立会医として私を診察したソ連軍医が居合わせ、己に巡り会わせた運命に今もって身に震えを感じる。そのうえ、たった一度きりの診察で私の顔を覚えていてくれたことは、今もって感涙のほかなく、私は腕枕を解いてなんどか涙を拭った。

 又私の脳裏に去来するのは、やはり「民主グループ」のことであった。彼らはソ連側の手に乗せられ、俄か勉強で得た彼らなりの理論を至上のものとして、日常生活のすべてが革命的であれとまで無理強いすることに、我々には耐えられないものがあった。私には、かってソ連の作業監督が口にした、「ヤポンスキーは二、三年でトゥキョー・ダモイだが、我々には帰れるあてがない」との言葉が耳から離れない。そして私の眼にも、この厳しい思想体制下では、如何に思想改造が進もうとも、ソ連人には幸せは巡り来るとは思えなかった。このことに気づかずして、一部の同胞が先鋭的に共産主義思想に走ったことが残念に思えてならない。たしかに最初のうちは、苛めが伴う旧日本軍階級制度の廃止などで、捕虜の身で共に生きる人間愛がみられ、多くの同胞からも共感を得た活動であったが、その後の言動には許し難いものが数々あり、現に我々が今朝まで耐えてきた屈辱的とも受け取れる監視行動はその最たるものである。そして彼らのあまりにも身勝手な革命的信条による言動で、日々苛酷な労働に耐えている多くの同胞達に、これ以上精神的な苦痛を与えないで欲しいと願わざるを得ない。ここ一年余り偽装民主主義者として負い目があったが、今夜限り奇麗さっぱりと日本海に捨て去ることにした。

 しかし、それにしても頭によぎるのは、このたびの戦争であった。幼いころから心身の総てを奪い操っていた軍国主義とは一体なんであったのか。当時少年であった私でさえ無謀としか受け取れなかった太平洋戦争へ突入し、多大の犠牲を払い脆くも敗れた。今祖国ではこのことがどのように受け止められているのだろうか。この答えを、間もなく着く舞鶴港で是非とも求めたいと思った。何故に私がこうまで問いかけたくなるのは、この二年間、数十万を数える抑留同胞に対し、国として只の一度も、何等の呼び掛けも無かった。その姿勢に抑留者のひとりとして、割り切れない矛盾を感じていたからである。こうして諸々思い巡らしているうちに夜も更け、船内は既に寝静まり、エンジン音のみが漂っていた。私は間断ないエンジン音に、自分が帰国の途にあることを再び認識した。