三八 肝を冷やしたナホトカ出港

 

 この地がナホトカ港で、右手遥か遠くに見える細長い白い構築物が岸壁であることを知ったのは、下車後、二時間ほど経ってからであった。貨車から降りた仲間達は、しばらくは砂浜に打ち寄せる波を眺めながら砂地で佇んでいた。何にもないこんなところが果たして港だろうかと疑視していた。線路越え一キロメートル先に、一〇棟余りの収容所らしき建物があるだけで、他は荒寥とした砂丘のみが続いていた。きっとまたこのあたりの何処かで、働くことになるのではないかと心配する者さえ出始めていた。

 二時間ほどたって各中隊毎に集合した。私の所属中隊の隊長は元将校らしい若い男であった。彼はおもむろに呼びかけるように話しかけた。「我々は帰国に向けて、このナホトカ港に到着した」と前置きして、「これから先は前方に見える収容所に入るが、滞在中は十分言動を慎み、何等の咎めも受けることのないようにして欲しい」と注意があった。そして、中隊長は「聞くところによると、折角此処までたどり着きながら、再び作業大隊に逆送された者がかなりいるという話である」と、重ねて注意をうながした。

 中隊長からの注意は、つい昨日まで居た収容所での雰囲気からも、至極ご尤もな話だと思った。このことはソ連側との対応ばかりではなく、むしろ「民主グループ」の監視に十分に気を付けなければならないと思った。やっと辿り着いた港から、また逆送されるようなことがあっては、泣くに泣けないと思った。

 先頭中隊の後に続いて、問題の収容所に入ったのは昼過ぎであった。収容所は、従前の収容所とは構造が全く異なり、第一分所から第三分所に分けられていると云うのである。我々が入ったのは、第一分所であった。此処は人員点検、入浴、滅菌消毒等を済ませる所だという。宿舎内には備え付けの三段ベットが設けられ、簡易宿泊所といった感じで、入室後はベット以外に身の置き所がないほど狭苦しい造りであった。先刻、中隊長からの注意もあったことだし、必要以外には宿舎外をぶらつかないようにお互い自粛している様子であった。

 しかし、二〇〇名もの集団ともなれば、中には色々な者がいて、常に外部からの情報伝達役をかって出る者がいた。「まだ岸壁には船が着いていない」とか、所内における同胞の動きなど、逐一入手してきては、我々仲間に得意になって知らせてくれるのであった。夕方、我々の中隊にも入浴と滅菌消毒の順番が回ってきて、これらを無事に済ませた。夕食も午後七時過ぎに終わり、今日の日程はすべて終わったと一息ついていたところへ、突然怒鳴るような大声で、「第一六八中隊の送還は中止となった」と云うのである。伝達に現れたのは、勿論「民主グループ」の幹部らしき男であった。対応した中隊長も、この一方的でしかも断定的な発言に困惑しながらも、その理由を尋ねると、彼等は、「当中隊員が所内生活での規律違反をした」と云うのである。彼等は議論することを避けるようにして出ていった。「民主グループ」の男が立ち去った後、宿舎内は一時騒然となった。中隊長は静止しながら、実は、「宿舎周辺で立ち小便をした者」がいるとか、「食糧の受領の際の態度」が悪かったと、言い掛かりを付けてきたというのであった。

 午前、中隊長から聞いたばかりの話が最早現実となって、しかもわが身に振りかかろうとは、誰が予測出来たであろうか。全員肩を落として瞬となった。こうなつてはつぎの処置を待つほかなかった。私も、この四〇日間、帰還には半信半疑ではあったが、こうして帰国の望みを抱かせ、今港まで来てから、こうも簡単非情に我々の望みを断ち切れるものかと、この扱いに憤りを感じた。陰ではすすり泣く者さえ居た。しかし、大半の仲間は同胞である「民主グループ」がとったこの扱いに憤りを噛みしめていた。

 無念の一夜が明けた。大半の仲間達は、寝不足とみえ元気がなかった。これ以上ふて腐っていたところでどうなるものでもないし、考えようによっては彼等なりに云う罪を重ねる結果にもつながりかねないので、事後は慎重に行動することになった。朝食を済ませ宿舎内で、諦めと不安のなかで過ごしていた。一緒に来た他の中隊が、第二分所へ移り始めた午前一〇時ころ、我々の中隊には使役の命令が出たのである。やはり、昨夜の「民主グループ」の伝達は、単なる脅しでは無かったのだと考えざるを得なかった。使役は、一キロメートルほど先の山裾から収容所まで薪の運搬作業であった。午前一〇時過ぎ、中隊全員が整列して現場へ向かった。二人組で丸太を担ぎ三往復して、午後三時過ぎ作業が終わって宿舎に戻った。ところが、第一分所内には他の中隊の姿はなく、明らかに我々第一六八中隊は取り残されていたのである。しかも噂によれば、輸送船は今夜にも入港するというのである。いかに諦めていたとはいえ、第一分所と背中合わせにある第三分所で、乗船待機に入った仲間たちの賑わいを耳にすると、余りにも自分が惨めといわざるをえなかった。夕食を済ませて外に出てみると、美しい夕空が日本海に映えていた。私はなぜか無感動のまま、ただぼんやりと目をやっていた。

 午後八時過ぎになつてから、急に噂として飛び込んで来たのが、「我々第一六八中隊は、この収容所施設要員と交代する」と云う情報であった。私なりに考えても、若し第一六八中隊の全員が三等位の該当者であれば、この収容所内の施設で働くことになるのが案外本当なのかも知れないと思った。若しそうであれば、作業大隊に逆送されるよりは、むしろその方が救われると思った。しかし、その夜はこの話は噂の域を出ず、具体的な話が無いままで終わった。私の脳裏からは、徐々に帰国は遠のきつつあった。

 翌朝、心のやり場のない一夜を過ごした仲間たちも、少しは落ち着きを取り戻し、朝食を済ませてじいっと使役の指示を待つていた。ところが、昼まで待っても何等の沙汰がなかった。何だか蛇の生殺しのような時間が流れていた。私もソ連側の対応としては、どうも遅すぎると思えてならなかった。残留命令が出てから既に四〇時間以上も経過していたのである。若しこの収容所の施設要員と交代するならば、すでになんらかの動きがある筈である。これには何か裏事情があるように思えてならなかった。仲間達もこうとなっては成り行き任せと、中隊長の指示もあり、昼食後は宿舎で揃って休んでいた。こうして今日は、使役に出ないまま終わるかも知れないと思っていた。

 午後四時すぎ、突然ソ連側から中隊長に呼び出しがあった。仲間たちもいよいよご沙汰があると宿舎内はどよめいた。中隊長は僅か一〇分足らずで戻ってきた。その顔は意外にも明るかった。中隊長は直ぐ全員を呼び寄せ、「第一六八中隊も帰国することになった。直ちに支度をして宿舎前に集合せよ」とのお達しであった。また、「今後の言動には最善の注意をはらい、再度咎めを受けることのないように」と念を押すように注意があった。諦め切っていた帰国の実現、余りにも突然の逆転に戸惑い、そして新たな緊張が背筋に走った。喜びは後でと、一斉に身仕度して整列を終えた。この素早さは、旧部隊での生活以来のことであった。整列が終わってからも、互いに私語を慎み、身を固くして次なる指示をまっていた。間もなくソ連将校が日本側の責任者らしき者と一緒に現れ、中隊長に何やら耳打ちしてから、我々を連れ立って歩き出した。行き先は第二分所かと思ったが、直接第三分所に入った。

 第三分所では、先発の八個中隊が整列して我々中隊の到着を待っていた様子であった。他の中隊の者は我々に事情があったことは承知しているらしく、何か怪訝な目で迎い入れられたような気がした。我々の隊列が並び終わると、直ぐに「インターナショナル」の前奏があり、引き続き登壇した司会者が、「只今より復員式を行う」と宣した。私は列の前の方に並んでいたので、司会者の顔がよく見えた。「あれッ。大滝だ」と声を殺して叫んだ。大滝君は、旧林口部隊からの戦友であった。彼は旭川出身で、一本気の張り切り屋であった。一面情の厚い男で、入隊当時は祖国で一人暮らししている母を思いやり、時折涙を流していたほどであった。やはり彼の気質からして、本気で「民主運動」に走ってしまったのかと私は直感した。つづいて「民主グループ」の代表から祝辞が述べられた。私は壇上に立っている大滝君の視線を直感的に避けた。それはたった今、死線を越える思いで第一分所を脱出して来たばかりの私にとって、彼は大滝君ではなく、まさしく「民主グループ」の幹部の一員に成り切っていたからである。彼は鷹の眼の如き鋭い眼光で、我々帰還兵士を見下ろしているのである。若し仮に私が彼とつなぎをとって会うことにより、万が一、問題が起きれば、それは取り返しのつかないことに成りかねない。二〇〇名の中隊仲間がそんな冒険を許すはずもないと思った。引き続き「帰還兵士梯団団長の挨拶」があり、そのあと、帰還兵士全員で、「インタナショナルの歌」を合唱し、復員式が無事に終わった。この間、第一六八中隊の仲間は高なる胸の鼓動をじいっと押さえ、表情を固くしていた。このあと、第三分所で割り当てられた宿舎に入り、ナホトカ港最後の夜を過ごすことになった。仲間たちは宿舎に入ってからも、あまりにも劇的に急変した状況下に、表情を固くして喜びをあらわにしようとはしなかつた。夕食も指示に従うこと、寸分もたがわず取り終わった。結局、第一六八中隊は、第二分所での所持品検査等受けずじまいで、第三分所に落ち着き、明日の乗船を待機することになった。私は宿舎の壁にもたれて、仲間達の挙動に目をやっていた。仲間のみんなも少し落ち着きを取り戻して、会話が多くなってきた。この後なにも問題が起こらなければ、明日は間違いなく乗船出来るわけだから、本来ならば素直に喜んでよいはずである。

 午後八時頃、また嫌な噂が流れた。それはタラップを上りつめてからでも船上で立ち会っているソ連将校の心証にふれ、船上から引きずりおろされて、作業大隊に逆送された者がいるというのである。だから出帆するまでは、決して気を緩めてはならないと言う。このことは脅しとも戒めとも受け取れるものであった。折角今日一日の怯えから、自分を取り戻しつっあった仲間にとってまた水を差すことになり、緊張を強いられたのである。夜も深まった九時過ぎ、中隊長から就寝の指示があった。ナホトカ収容所に入ってから終日監視の目に怯えていたので、随時就寝してよいものか、それすら戸惑いがあった。中隊長からの指示を受けた仲間は、眠ることによって怯えから解放されるように一斉に就寝した。

 六月一五日、私が目覚めたのは夜明け間もないときであった。頭を持ち上げてみると、仲間達は未だ深い眠りの中にあった。私はまたそっと頭を戻して目を閉じた。実は、私にはひとり起きて厠へゆくだけの勇気すらなかった。一人行動は監視の的になるので、出来るだけ避けた方が得策だと考えていたからである。午前六時過ぎ起床の指示で、仲間達は一斉に起床した。目覚めと同時に緊張の時が刻み始めた。しかし、いよいよ帰国という実感は隠しきれず、仲間達の顔にも明るさが増してきていた。

 私は、朝食の黒パンを口にしたとき、どうしたことか自然とこみ上げ涙ぐんだ。この「黒パンの味」こそが、過酷だったシベリアの労働そのもので、来る日来る日の食を得るため、まさしくその代償として、命を削るようにしながら過酷な労働に耐えてきたのであった。その黒パンも今朝この一食だけでもうお別れにしたいものだと、念じながら食べた。

 午前八時、昨夕復員式が行われた広場に集合の指示が出た。昨夜も着たまま寝ていたから、身支度もなく、直ちに中隊ごとに整列を終えた。どういう意味か、この帰還兵員集団を一梯団として編成され、中隊番号順に隊列を組んだ。第一六八中隊は梯団の中程にあった。まもなくソ連将校による人員点検が始まり、三〇分程して我々中隊の点検に入った。四列縦隊に整列している我々一人ひとりの顔を確かめるようにして数え、数え終わると、一歩前進させるソ連流の人員点検が行われた。午前九時過ぎに隊列が動き出し、いよいよ岸壁に向かって整然と進む。第一六八中隊が衛兵所を潜り抜け収容所を背にしたとき、私は溜飲の下がる思いがした。そして、誰一人として後を振り返ろうとはしなかった。隊列は日本海の海風を心地よく頬に受けながら、海辺沿いに岸壁に向かって進む。三〇分ほど歩くと、夢にすらすることがなかった日の丸を掲げた復員船が眼前に現れた。それは、それは感極まる思いであった。敗戦以来のこの二年間、苛酷な労働生活の中で、殆ど忘れかけていた国の威厳をかいま見たからである。この心境は決して私一人ではなかったと思う。

 岸壁に到着後、直ちに乗船態勢がとられた。既にタラップが下ろされ、タラップの上と下に、ソ連将校と日本復員局の係官が立会態勢をとっていた。間もなく、先頭中隊から乗船を開始した。次々とタラップを上っていく同胞の姿が船内に消えていく。我々仲間はその情景を固唾を飲んで見つめ、乗船を待っていた。私は、先ほど岸壁に来る道すがら、振り返ってみる勇気さえなかった収容所の光景を、もう一度この目に残したいと背伸びして振り返ったが、恐怖の中で過ごしたナホトカ収容所は、遠く靄に包まれてその姿を見せなかった。それから間もなく私はタラップに足をかけた。仲間の背中に続いて視線をタラップに落とし、表情を固くして上った。船上で立ち会っていたソ連将校の前は、まさしく息を殺して通り抜け、ことなく船内に入ることが出来た。船内に入ってからも、暫し胸の動悸がおさまらなかった。