三七 送還貨車は南下する

 

 六月八日早朝、待ちに待った後続の貨車四〇車輛が到着した。早速、我々の宿舎へも、「出発準備をして待機せよ」との連絡が入った。一瞬歓声がどよめいた。しかし、すぐ緊張感を取り戻した。宿舎内でこの一時間ほどの待機は、まさに陣中息を殺して待つ感じで、随分と長かった。午前八時過ぎ、収容所内の広場に集合するように連絡を受け、四〇日間張りつめて生活した宿舎を出た。集った同胞の数が、こんなにも多勢だとは想像もしていなかった。何時収容されたのか、私には考えられない人数であった。集合が終わると、新たに二〇〇名を単位に九個中隊が編成された。そして、私の所属中隊は「第一六八中隊」と呼称することになった。

 その後中隊毎に隊列を組み、貨車に向かって歩き出した。晴れ上がった青空の下、隊列が波打つように進む。勿論、我々の心も足も浮き立つようであった。衛門を出てまもなく、高く盛り土した線路上に停車している貨車の全容が目に入ったとき、その威容と云うか、大型貨車五〇両は壮観であった。愈々この貨車に乗って帰国の途につくと思うと、なおさら感動的であった。先頭隊列から逐次乗車を開始し、第一六八中隊は五車両に分乗した。私は貨車の扉が閉まるまで、眼下に見える収容所の全景から目を離すことができなかった。僅か四〇日間と云う短い期間ではあったが、かってないほど神経の休まる暇のない日々であった。

 貨車内は、かってコムソモリスク・ナ・アムーレまで輸送されてきたときのように、二段仕切りにはなっていなかった。乗車人員も貨車内で寝られるだけの余裕をみて多少すくなめであった。どうしたことか乗車が終わっても暫くは発車せず、一刻も早い発車を待っている我々にはまた何かが起きるのではないかと、気が落ち着かなかった。三〇分ほどたった頃、なんら予告もなく、貨車は次々と牽引音をたてながら動き出した。貨車内の仲間達は、一様に溜飲を下げ、安堵の微笑みがこぼれた。

 私は、明かり取りに開けられていた扉の陰から、移り変わる春の樹海に、それとなく目をやっていた。それは、もう二度と目にすることのないシベリアの光景に、命がけで生きた一年数ヵ月の生活の日々を重ね合わせながら、傷病の身でありながらよくぞ耐え抜いてきたと、胸がつまる思いであった。それにしても、遂四〇日前まで働いていた作業大隊では、そろそろ煉瓦工場が稼働し始める頃だが、同胞達は粘土堀りに明け暮れていることだろうか。又別れの言葉すら交わさずに来た堀井先輩はその後も元気だろうか。この貨車の行くへが、本当に帰国の途にあるとすれば、彼のような妻子ある大先輩をさておき、若輩の私が帰国するのは、なんだか申し訳なく思えてならなかった。そして、この鉄道も同胞達の苦役の結晶だろうと、つくづく思いやられた。

 貨車はひかれるままにひた走り、三時間余りでコムソモリスク・ナ・アムーレにさしかかり、やはり郊外の引き込み線に入線して停車した。幾筋となく敷設してある赤さびた線路は、春の午後の日差しをうけ、なんとなく温もりが感じられた。線路縁の蕗の薹もやさしく出迎え微笑みかけてくれているようだった。到着後、下車命令が出ないところをみると、どうやら此処は通過することになるのだろう。仲間たちは入れ替わり外で貨車を背にして日向を求め、体を温めていた。視界には街の様子が入らず、したがって、この地に居るはずの同胞の姿は全く見当たらなかった。貨車は停車後二時間ほどたってから発車した。午後の日差しを受けて、貨車の中も程よい暖まりを感じた。同乗の仲間たちは、今朝から繰り広げられたドラマに疲れを感じてか、誰先きとなく体を横にしていた。私もつられて横になり、じいっと眼を閉じた。しかし、線路の軋みと感情の高ぶりで眠れなかったし、又あえて眠ろうともしなかった。貨車は明らかに南下しながら走り続けていた。祖国への帰還の途にあると云うのに、なぜかまだその実感がない。むしろ作業大隊への転属でないかと云う不安すらまだするのである。

 そんななかで、私はこの二年数ヵ月を静かに振りかえっていた。思うに私は次々と所属集団から離れて、一人旅をしてきた実感が強い。昭和二十年二月、北東満洲の林口で入隊し、僅か四ヵ月余り戦友と起居を共にすることが出来たが、延吉市に転属後は、陸軍病院での入院生活から終戦後の二年間まで転々と所属が変わり、寝床の温まる間もなく出会いと別れを繰り返し続けてきたように思う。敗戦の悲劇のなか、まだ腰も伸びきらない術後の傷痕を持ち、一時は身の始末まで追い詰められた心境になった。心から頼りにしていた戦友達とも離別し、あの厳しかった内務班生活の中で培った戦友意識から遠ざかり、移り変わるその場その場で人間関係を保ちながら過ごしてきたように思う。入ソ後は、クラスキーナ丘陵での山猿生活、作業大隊に送り込まれてからの苛酷な藪だし作業、死線をさ迷った下顎部の化膿、極寒の中での伐採作業等、私にとっては、いずれも神のご加護があったから耐え抜けたと思わざるを得ない。殊に多くの同胞達が力尽きて死んでいったことを耳にしていただけに、傷夷の身で耐え抜けたことが、むしろ不思議に思えてならなかった。

 ふと頭を持ち上げて外の様子を覗くと、貨車は既に日暮れて薄暗い山野を走り続けていた。仲間たちは貨車の行くへを信じてか眠りに入っていた。翌朝、目覚めてからは、明かり取りに開いている扉の陰から、移り変わる車外の光景を暫く眺め続けていた。かなり南下したとみえ、野には若芽の息吹きが見られ、遠くは春霞で靄っていた。この光景は二年程前、北東満洲の林口で迎えた春を思わせるものがあった。

 九時頃、かなり大きい市街が視界に入ってきた。貨車は徐行し始めた。仲間たちにも見覚えのある光景であったせいか、ハバロフスクに着いたと一様に頷きながら見つめていた。貨車はしばらく徐行を続け、郊外の引き込み線に入って停車した。間もなく連絡員が現れ、扉を開いて貨内を覗きこむようにして、「朝食のパンの受領に来い」と云った。早速、先を争うように四名が受領に出かけた。しばらくして四名の使役がパンを抱えニコニコしながら戻ってきた。なんと抱えているパンが、「白パン」であった。我々にとって入ソ以来初めてお目にかかる代物で、仲間の一人が、「ソ連にも白パンがあったのか」と嘲笑しながら分配を待った。白パンは黒パンに比べ軽いせいか、一人当たりの分配量が多くあるように見えた。初めて口にした白パンはなんだか味気なく、食べ応えのないものであった。仲間の一人が、「俺は黒パンの方が、腹応えがあっていいや」と云った。仲間は爆笑こそしたが、一様に頷いていた。折角ソ連側の温情ある配慮で白パンを口にできたが、常々飢えている我々にとってさしたる好意と素直に受け取れなかったのである。

 晴れ上がった空の下、丘陵に広がる街並みがきらきらと光っていた。一年八ヵ月前に通り過ぎたときに較べ、一層街並みが整い奇麗になっているように見えた。そして此処にもかなりの同胞がいると思われたが、我々の目にその姿は全く見当たらなかった。停車してから既に二時間ほど経ったが、一向に発車の気配がない。さりとて、此処で下車する気配もなかった。これから先どちらへ向かって発車するか、帰国するならばさらに南下してウラジオストックに向かう筈である。結局この日貨車は動かずじまいで、発車したのは翌朝の明け方であった。そして、行き先は明らかに南下していた。これで私にも帰国の途にあることが納得できた。六月十二日朝五時頃、貨車は徐行しながら海辺の近くを走り、駅舎は勿論、全く何もない砂浜に停車した。直ちに下車の指示があり、一斉に砂浜に下車した。貨車は我々の下車を見届けてすぐ引き返して発って行った。砂浜に取り残された我々の眼前には、まぎれもない日本海が広がっていた。