三六「トウキョウ・ダモイ」が公然となる

 

 いくら遅いシベリアの春とはいえ、五月下旬ともなれば暖色も深まり、樹海の木々も芽吹き、心爽やかとなる。これも帰国を間近かに控えた心のゆとりともいえよう。我々が此処へ入所して丁度一ヵ月後の五月二八日の午後のこと、突然「民主グループ」の一人が現れ、「只今から各自の被服を交換するから、被服庫前に集合せよ」との連絡を受けた。こともあろうに「民主グループ」から突然このような使いだてがあるとは、一瞬緊張が漲った。被服の交換などは未だかって無かったことであったから、若しや同宿の誰かの規律違反の廉で、作業大隊に逆送されるのではないかと不安がよぎった。仲間たちも無言のまま立ち上がり、各自が今持っている衣類のすべてを小脇に抱えて被服庫に向かった。被服庫前では既に五〇名ほどが並んで待っていた。その様子を見て安堵した。被服の交換は、今まで着ていたものをすべて脱ぎ、夏衣に着替えさせられた。外套も履物もすべて交換された。新たに支給された被服類のすべては、かって我々が満洲で冬衣に着替えた際に脱ぎ捨てた夏衣が主であった。ソ連側はこれらの衣服まで略奪して運び込んでいたのかと思った。この被服交換で我々の帰国が明確になったと感じ取った。宿舎に戻ってから、先程までの心配と裏腹に、小躍りでもしたくなるほどの心境で、仲間たちの顔は明るかった。着替えた夏衣姿には、両肩の重荷が取れた軽快さが感じられ、各自は口にこそはしないが、内心では祖国に思いを馳せているに違いない。私も目頭をおさえて喜びを噛みしめた。

 その翌日から理髪と入浴の順番を待つことになった。諦めていた祖国への帰還が愈々現実となってから、仲間達は気もそぞろに落ち着きが無く、立ったり座ったりして気を紛らわしていた。しかし、まだ本当に喜んでよいものかどうか、懐疑と戒めを忘れてはいなかった。こうして待つこと三日目、やっと待望の第一陣の輸送用貨車一〇輌が引き込み線に入って来た。みんな揃って屋外に出て、この貨車の姿に目を見張った。私は貨車を眺めながら、作業大隊で道路作業中に作業監督が語ったバム鉄道の敷設作業が、此処まで進んでいることを、この貨車の到着で証明されたように思えた。そして、又この収容所まで徒歩で連れてこられた訳けが十分に理解できた。

 帰国がほぼ決定的となったが、どうしたことか、後続の貨車は二日たっても、三日たっても入ってこなかった。貨車の到着を待つこと四日間、仲間達は殆ど宿舎に籠もりきりで、できるかぎり「民主グループ」の目を避けていた。それは針の筵に座して待つ心境であった。