三五 薄氷を踏む思いの四〇日間

 

 なぜ此処に収容されたのか、その収容の意図も明らかにされぬまま、作業に出ることもなく、ただ宿舎内で休養をする日々が数日間続いた。その反面、我々の生活態度をそれとなく何処かで監視されている気配が感じられた。収容された翌日、所内をそれとなく見回わって見ると、昨夜異様に感じられた所内の静寂さの訳が分かった。昨夜入所した我々が第一陣であって、昨夜までは炊事場、浴場などの施設要員しかいなかったのである。収容所の規模としてはかなり大きく、周辺には作業場らしきものは全く見当たらない。なんだか林間休養施設の感じすらするのであった。二日たっても、三日たっても作業命令が出ないので、監視兵が云っていたとおり、「トウキョウ・ダモイ」が案外真実なのかも知れないと、仲間内でも話が出始めた。

 一週間後には収容所内で見掛ける同胞の数も次第に増えて、既に数百名くらいは入所しているように思えた。日中に入ってきた気配がなかったので、やはり我々と同様に、毎夜遅く入所して来ているのであろう。ところが、次々と入所してきた同胞達も宿舎に引きこもったきり、日中でも屋外を出歩く姿を見せないのである。したがって、各宿舎間での同胞の付き合いは閉ざされ、今まで何処でどんな作業をしていたなどの情報交換すら全く出来なかった。

 我々が入所してから十日後の夜のことであった。入所後二度目の入浴をしてから夕食を済ませ、かつてないのんびりとした気分で横になっていたところへ、突然「民主グループ」と名乗る者が現れ、これからすぐ食堂に集合せよと、半ば強制的な連絡を受けた。あまりにも咄嗟のことで、我々仲間は無言の中で顔を見合わせた。私は、この一週間余りの所内の空気からして、当然くるものがきたと云う感じであった。仲間たちは無言のまま一斉に腰を上げて食堂へ向かった。食堂の壁には、先刻まで無かった筈の二枚のスローガンの垂れ幕が、「ファシズム、反動分子の徹底的粉砕」、「軍国主義反対、天皇制打倒」と大きく掲げられ、そのほか最新版の「日本新聞」数枚が張り出されていた。我々にとってこれらのスローガンは目新たらしいものではなかった。すでに作業大隊において「日本新聞」で何度となく目にしていた。「民主グループ」なる者は、我々同胞の洗脳を任務として、今夜到着したばかりなのか、見るからに張り切っていた。我々仲間を含め二〇〇名余りが集まってから、リーダと思われる一人が壇上に立ち、おもむろに今夜から「民主運動の学習を開始する」と開会を宣し、引き続き講義にはいった。話の内容は、何やら「日本新聞」の記事をそのまま棒読みしているような稚拙なものであった。彼等自身が言葉の意味を十分理解して喋っているのかどうか疑わしくなるほど「反動分子」とか、「日和見主義」などと連発しているのである。そのうえ、我々の所内生活の在り方までも「革命的規律」を求めてきたのである。聞き手に回った我々の姿勢は真剣そのものであった。我々の胸のうちでは、すでに彼等の言動からして意図するところを読み取っていたからである。私は、これで愈々同胞仲間内による監視というか、仲間同士の言動にも注意しなければならないと思った。しかし、この学習のなかで唯一の収穫は、われわれの帰国が見え隠れし始めたことであった。その後は毎夜のように学習は続けられた。我々は学習開始時間ともなれば、心なしか追われるように会場に向かった。そして彼等の話に対し至極ご尤もという顔をして聞き入った。我々はいわゆる「偽装ダモイ民主主義者」に早変わりしていたのである。この頃収容所内に、半ば真実とも受け取れる噂が流れ始めた。それは、「この収容所内での生活規律(革命的)違反の廉で、また最も苛酷な労働大隊へ逆送された」という噂であつた。それも、こともあろうに宿舎単位で、収容者全員に共同責任をとらされたとのことであった。この噂は我々仲間としても厳しく受けとめざるを得なかった。この噂を耳にしてからは、今までになく宿舎の仲間たちに結束が見られた。

 我々が入所して二週間を過ぎた頃から、時折作業命令が出た。収容所から二キロメートル程離れた伐採跡地で、害虫防止のために切り株の皮剥ぎと枝焼きの作業で、作業時間も三時間程度であった。作業日にはいつも午前一〇時頃になってから所内の空地に集合し、衛門で作業器材の斧十数丁を受領して出掛けた。宿舎毎に交代で出ていたせいか、大抵は一〇〇名程度の作業グループで出掛けていた。私たちグループの責任者は、元見習士官だった若者であったが、既に所内の空気を察知しており、常に仲間たちの行動に気配りをしていた。作業中にあっては、「短い作業時間だから辛抱して働こう」と云って励まし、つとめて監視兵の印象を良くするようにしていた。作業を終えての帰り道では、収容所の建物が視界に入ると、決まって「インタナショナルの歌」を合唱させながら衛門に向かうのであった。これはソ連側はもちろん「民主グループ」の評価の点数稼ぎをするためであった。又我々仲間も、彼のこの配慮に快く従っていたのである。

 我々がこうした所内生活を繰り返しているうちに、同胞の収容員数は日増しに増え続け、員数こそ明らかにされてはいなかったが、人の動きからして、どの宿舎も満杯のように見えた。屋外を行き交う同胞の顔には、まだ一抹の不安こそあったが、胸のうちにある帰還への喜びは隠し切れないものがあった。収容人員が増え宿舎が満杯近くなってからは、毎夜開かれていた「民主グループ」の学習活動は、物理的にも開催不能となったのか中止となった。しかし、彼等グループは、その任務の遂行のため、学習活動の代替えとして、活発に壁新聞を張り出し、隠密的監視行動を展開し始めたのである。我々の心中に多少は多勢に無勢の感があったが、なにしろ彼等には強力な後ろ楯がついているので、何がどうあってもすべて従っていたのである。