三四 三度目の収容所へ移される

 

 体力検査で三等位となってからは、作業大隊の主勢力から離れたと云う一抹の淋しさがあった。でも日々の使役がそれ程苦痛でもなかったし、そのうえ警備兵がつかない気楽さと、多少の自由と日々変わる仕事にまぎれて難なく過ごしていた。一カ月前までは、日々の重労働に耐えながら、毎夜気になった明日への不安が、どうやら遠のきつつあった。そしてこの分であれば、この春から先もなんとか過ごせるという微かな自信が出てきた。

 三等位となってからも、所属作業小隊は変わらなかったので、宿舎内では常に堀井先輩と枕を並べていた。彼は私よりもむしろ痩せていたが、二等位として働き続けていた。いつも作業から帰ると、すぐ疲れた体を横にして、笑みをうかべながら話しかけてくれていた。私とは親子ほどの年齢差があったので、私にとっては単なる先輩ではすまされぬ親しさを感じていた。私は使役で得た余禄は、必ず堀井先輩に持ち帰るように心掛けていた。四月下旬に入ると、極寒の地シベリアでも日中の陽差しはひときわ春めいて、収容所内の汚雪にも陽だまりの気配を感じさせる。二等位の同胞たちは、今季の終わりに近い伐採作業に精を出し、私も使役に明け暮れていた。

 四月二八日は休日で、宿舎内も朝からのんびりした雰囲気であった。これも春を迎え、極寒から脱した心のゆとりだと思う。私も使役の呼び出しもなく、朝から横になったり、仲間と雑談を交わしのんびりと過ごしていた。午後二時頃のことである。作業大隊本部から元下士官風の年配の男が、一枚の紙切れを手にして突然入口に現れ、大声で、「今から氏名を読み上げる者は、今すぐ身支度をして衛兵所前に集合せよ」と前置きをして、いきなり、「佐々木芳勝」と叫ぶように読み上げた。横になっていた私は、訳も分からないまま咄嗟に、「ハイ」と答えた。あまりにも連絡者の声が大きかったので、宿舎内は一瞬静まった。私も咄嗟に、「ハイ」と返事はしたものの、この小隊でなぜ私だけが呼び出されたのだろうかと、一抹の不安がよぎった。支度とはいっても終戦時に部隊から持ち出したもので残っていたのは、毛布一枚と空の雑嚢だけで、身仕度などあらためてするものはなかった。宿舎内の仲間達は、私が落ち込んでいると見取ってか、「何処へ行っても元気でやれよ」と口々に励ましてくれた。私も空元気を出して、「みんなも元気でなぁ」と一言云って宿舎を出た。なぜか堀井先輩の姿が部屋には見当たらなかった。彼とは是非とも別れを惜しむ寸時をもちたかったが、その暇は与えられなかった。

 衛兵所前には四、五十人ぐらいの者が集まりつつあった。一年有余を過ごしたこのラーゲリの光景をしっかと脳裏に留めようと、左右を見ながら歩いた。衛兵所前では先程呼び出しに来た男が集合者の氏名確認をしていたので、私も彼に集合した旨を告げて隊列に入った。直ちに収容所長の慎重な員数確認を受け、監視兵の掌握下に入った。集合した仲間は、総員で四八名であった。私の前後にいる者のなかには、つい最近使役で一緒に出かけた同じ三等位の仲間もいた。収容所長は監視兵になにやら指示をしているようであった。我々をこれから何処へ移す積もりだろうかとやはり心配になってきた。間もなく監視兵の先導で、衛門を出た。遂に行き先は告げられず、あっけなく出発したのである。道路に出た隊列は東に向かって歩き出した。この進行方向は、今まで居た作業大隊に移って来たときに確か通った道路を引き返していた。もしかしたら、我々が最初に入ったラーゲリに戻ることになったのかも知れないと思った。

 出発後一〇分ほどして、二人の監視兵が恰も申し合わせたように、突然大声で、「ヤポンスキー・トウキョウ・ダモイ」と、再三さきを急がせ始めたのである。「ハハァー、またこの手で我々を騙す気なのだ」と思った。歩きながら前後の仲間と話し合っているうちに、この仲間たち全員が三等位であることが分かった。私も衛兵所前に整列したとき、どうも元気の無さそうな者ばかりが集まって来ているように思えた。我々三等位の者ばかりを集めて、いったい何をさせる考えだろうか。又歩かせて移動をさせるからにはそう遠くへ行くことはあるまい。やはり私が最初に入った収容所あたりだろうと思っていた。

 それにしても、二人の監視兵はなぜ何度となく、「トウキョウ・ダモイ」を繰り返すのだろうか。その云いぐさも、お前たちは喜べと云わんばかりの印象を頻りと与える。しかし、我々には過去の苦い経験から、彼らの言葉を素直に受け入れる気にはなれなかった。

 我々は、監視兵に急げ急げと気合いをかけられながら、雪路をひたすら歩いた。出発してから樹海の中に続く一筋道を四時間程歩き続けたところに、やはり道路右手奥に懐かしいラーゲリが目に入って来た。監視兵は勿論、仲間達もこのラーゲリの存在には、左程関心をしめすふうもなく通りすぎた。この四八名の仲間の中にもこの収容所に居た者が必ずいると思うが、誰も表情すら変える様子もなかった。私はもしかすると当時の同胞の誰かがまだ残ってはいないだろうかと、横を振り向きながら歩いた。ところが、元の宿舎には灯火すらみえず、廃屋のようにひっそりと樹海が囲む雪原にその姿をさらしていた。私も此処を通りすぎてからは、この夜道を何処まで行く積もりだろうかと不安になってきた。確か一年数ヵ月前、トラックでこの道路を通ったときの記憶では、この先の近くには収容所らしき施設は見当たらなかった筈である。仲間たちも既に四時間以上も歩き続けていたので疲れが出始め、そのうえ凍てついた雪道に時折足をとられて転倒する者さえいた。しかし、監視兵は己の任務を忠実に遂行するが如く、我々に対し時折声を荒げて先を急がせるのであった。

 あの思い出のラーゲリを通りすぎて、雪明かりをたよりに三時間ほど歩き続けていた。突然、先頭が止まった。足元ばかりを見て歩いていた私達は、一斉に視線を上げて前方を見た。すると道路の左側の林間に収容所らしき施設が目に入った。薄灯りが二つ三つと見えた。先頭の監視兵のひとりが、道路の左手を駆け降りた。我々もこれに続いて降りた。収容所の建物に近づくにつれ、何か不気味な静けさを予感した。午後一〇時近くだからきっと就寝中のせいだろうと思った。衛兵所前に着くと、収容所長らしき男が出てきて、随伴してきた二人の監視兵と何やら話し合っている。たぶん我々の引き渡しであろう。収容所長は、手渡された一通の紙片に目を通してから、我々の員数確認をして所内に招き入れた。この手続きを見ていると、私が一年二ヵ月前、作業大隊に着いたときとほぼ同じ形で行われていた。受入れが終わってから、収容所長の先導で、所内の奥の方に建っている宿舎に入った。ストーブで焚き暖められていた部屋に同胞の姿はなく、空き部屋になっていた。外套を脱いで腰をおろしてよく見ると、部屋の中は掃除が行き届いており、作業大隊のように汗でむせかえる体臭もなかった。疲れた足をさすりながら一息ついて居るところへ、割に身なりの整った同胞の一人が現れ、炊事場に食事の準備をしているとの連絡を受けた。何か我々は客扱いされているようで、今までの作業大隊では全く考えられない雰囲気を感じとったのであった。