三三 僅かにふれたソ連人の生活

 

 この極寒の辺境の地で、我々俘虜とともに過ごしているソ連軍将兵等とその家族の生活の一端を、かいま見る機会に出会えた。そこには何かしら我々抑留者と一脈相通じるものが感じられた。

 入ソ後、我々の周辺には常時監視兵がついていたが、個人的に話を交わすことは殆ど無かった。したがって、私も彼等とは常に一定の距離をおいて、その態度なり仕種を見つめてきた。監視兵には、人種の違いは勿論、個人的な性格の相違もあり、良い人も意地悪るな人もいたが、概して彼等はおおらかであるように見えた。監視兵が我々捕虜を個人的に目を付け苛めにでるような行為は、一度も見かけたことがなかった。若し立場が逆であったら、日本兵ならばきっと態度が悪いとかなんとかの難癖をつけた苛めがあると思えた。監視兵の中には比較的アラブ系の者が多かった。昼休みなどで彼等の近くで休憩していると、彼等の仕種などがよく観察できた。一見なんだか幼稚なところが多く、一体何を考えて生きているのだろうかとさえ思えた。徴兵後、一応軍事訓練は受けているだろうが、それも単に銃の引き金を引くだけのもので、どうみてもあまり優れているとは思えない。彼等は戦勝国の立場にあって銃を手にしているが、共産主義の世界で、しかも、スターリンの圧政下にあって、どんな明日が見えてくるというのであろうかと、いらぬ干渉がましい心配すらしたくなるのであった。

 体力検査で三等位になってからは、使役要員として屡々ソ連将兵等と接触する機会に出会えた。ある日の午後、使役で衛兵所前に来るようにと連絡をうけ、早速身仕度をして出かけた。衛兵所近くにもう一人の同胞が私を待っていたので、その日の使役は二人組だった。私が衛兵所前に着くと、衛兵所内で待っていた収容所長が出てきて、ふたりについて来るように促し、先だって衛門を出た。連れて行かれたところは衛門から僅か五分ぐらいのところに建っている軍官舎の空き家であった。所長からは、夕方に入居する者がいるから、それまでの間に部屋の清掃と薪割り、飲み水の準備などをしておくようにとの指示を受けた。所長は指示が終わると忙しそうにすぐ立ち去った。

 早速ふたりで作業の手筈を相談した。凍てつくような部屋の中での拭き掃除もできないから、無断ではあったがストーブを燃やすことにした。将校官舎といっても我々の宿舎を小型にした程度の造りで、ただ居間と寝室の二間に間仕切りがあるだけのものであった。居間には焚き古して錆ついたストーブが置かれ、寝室には薄汚れた藁布団が敷かさったベットがあるのみで、それは簡素なものであった。ストーブを焚き二〇分もすると部屋中が暖まったので、外套を脱いで掃除に取りかかることにした。先ず浴場へ出向き、バケツに湯と雑巾を借りてきた。床に雑巾を当てて埃を拭き取ると、建物自体が新しいせいかすぐ板目がくっきりと現れ、思ったよりも拭き上がりが奇麗であった。部屋が暖まり床が奇麗になると、なんだか部屋中に温もりが出てきたように思った。今夜からは此処にどんな主が住むのだろうかと想像しながら、次に薪作り作業に移った。既に輪切りしたストーブ薪がかなりあったので、これを小割りするだけの作業であったから、一週間程焚ける分量を難なく割り終わった。入口横の壁沿いに積み終えてから、水運びのため浴場に向かった。浴場には川から採氷し、これを溶かして貯め置きしてある水槽から三回運び、言いつかった使役のすべてが終わった。外は薄暗くなりつつあったが、時間的に夕方までには間があったので、宿舎に帰らず此処で休んでいくことにした。ストーブに薪を思い切り投げ込んで燃やし、主の来ないうちは俺等が主とばかり、ベットに腰をかけて雑談をしていた。

 そのうち、外で人の気配がした。急いで出入り口へ駆けよると、かなり年配の夫妻が寒そうに身をこわ張らせながら家に入ってきた。夫妻は入口で私たちが居ることに一瞬たじろいた様子であったが、暖められた部屋に入り、掃除の終わった部屋の様子に気づき、夫妻は思い直したように笑みをうかべ、「スパシーボ、スパシーボ(ありがとう)」と交互に握手を求めてきた。私たち二人が部屋を掃除して暖めて居てくれたことが夫妻にとって予想外のことで、余程うれしかったのであろう。私たちも感謝の言葉に気をよくして、運ばれてきた二個の荷物を部屋まで担ぎ入れ、奥さんの指示する箇所に置いた。我々はこれ以上の長居は無用と思い、夫妻に帰る旨を告げると、奥さんはお茶を飲んでいって欲しいと、しきりに足止めをするのであった。奥さんは、たった今運び入れたばかりの荷物箱から小さな紅茶カップを取り出し、間もなくお茶の接待にあずかった。夫妻は差し出した一杯の紅茶で労をねぎらいながら、重ねて有り難うと云った。向き合ってよくみると夫妻はかなりの年配で、旦那の方は退役軍人なのか、でも軍服は着ていなかった。なにしろ言葉が分からないので、私たち二人は無言のまま差し出された紅茶を啜った。私たちの様子をにこやかにみていた旦那が口を開き、私に「親は健在かと」手真似をしながら話しかけてきた。わたしも母のみが健在だというと、おぼろげに通じたのか夫妻は一様に頷いた。最初の話題が親のことだったのは以外であった。きっと夫妻の胸のうちには、我々の身のうえを案じている親のことを想い遣っての発言であったに違いない。

 私も、この初老に近い夫妻が何故この辺境の地で勤務しなければならないのか、何か事情があってのことだろうと、その身の上に同情を禁じえなかった。昨年の夏、煉瓦造りをしていたころの話では、我々の作業監督者のなかに、独ソ戦でドイツ軍の捕虜となっていたソ連将校が、シベリアに差し向けられていると聞いた。初対面から好意的なこの人たちも、或いはそういう過去をもつている人なのかも知れないとふと思った。若しそうであったとしたら、戦勝国とはいえ、この国の厳しい体制下で流転に身をさらし、夫婦肩寄せあって生きて行かねばなるまいと思った。

 その後、一カ月足らずのうちに、私は何度かソ連軍下士官宿舎の使役に出かける嵌めになった。そんなことで急にソ連兵等と接触する機会が多くなったが、やはり言葉が通じないことでいささか躊躇せざるをえなかった。限られた三等位該当者の使役要員では、使役先もその日になって決められ、どんな使役が回ってくるかは事前に予知することができなかった。私がよく通った下士官宿舎は、下士官が八名ほどのこじんまりした宿舎であった。使役の仕事は宿舎内で焚く薪の準備が主で、そのほかに水運び、ときには宿舎内の床拭きなどがあった。彼等も一年以上にわたって我々捕虜を使役として使ってきているせいか、我々が宿舎内を出入りすることにあまり関心をしめす様子もなく、さりとて個人的な使役を言いつけることもなかった。したがって、我々も特に声がかからなければ、外で薪の用意と水汲みをして帰ることにしていたので、彼等との接触は比較的少なかった。

 ある休日の朝、下士官宿舎から掃除使役に呼び出された。休日と云うのに何故引張り出すのかと思ったが、ふだん楽をさせて貰っている身分だから、あまり文句も云えまいと思い直して、すぐ支度して出かけた。この下士官宿舎の建物は、昨年の春、我々同胞が建てた丸太造りで、確か私も内壁の石灰塗りをした覚えがあった。建物自体は我々の宿舎とほぼ同じ造りで、違いといえば一人用の木製ベットが並べられ、その横に食事用の長テーブルが置いてあるだけの違いであった。下士官宿舎に着くと、起床したばかりの彼等が身仕度や髭剃り洗面をしているところで、すぐ宿舎内に入って掃除に取りかかれる状態ではなかった。しばらく外で薪割りをして待つことにした。私がこの下士官宿舎に来初めてから、彼等の日常生活で目を引いたのは、先ず洗面方法であった。確かにこの厳寒のシベリアでは彼等にとっても水は大変貴重なものではあったが、彼等はたったコップ一杯の水で洗面を終わらせているのであった。その要領は、先ずコップの水を口に含み、その含んだ水を手のひらに移して洗面するのである。これを器用に二度、三度くり返して洗面を終わらせているのである。

 彼等が朝食を終わらせるまで、入口に立って待つことにした。下士官たちには一体どんな食糧が支給されているのか、多少興味があったからである。当番制をとっているのか、下士官の一人がテーブルの上で黒パンを切ったり、塩蔵鮭を割いて切り身づくりをしている。間もなく揃って食べ始めた。それは簡単な食事内容であった。量的な制限は当然あろうが、大らかに食べているところをみると、一応満たされているようでもあった。しかし、休日の遅い朝食としてはごく簡素なものであり、そのうえこの日の昼食は私の目の前ではついにとらなかった。

 彼等の食後、私は床に雪を撒き散らし、雑巾で出口に向かって拭き寄せていたが、ベットの脚が邪魔になり思わしく捗らなかった。腕で汗を拭いながら、もう一人呼んでくれると楽であったと思った。この掃除方法では、撒き散らした雪が解けないうちに、埃とともに戸外に棄てなければならなかったから、一息入れることもできず懸命に拭いた。撒いた雪が汚れると棄て、又雪を入れ替えて拭き、これを何度かくり返して拭き終わった。掃除には一時間半ほどかかった。彼等は、私の拭き掃除の邪魔にならないよう気づかってはくれたものの、一切手をかそうとはしなかった。その間、鼻唄をまじえて陽気に振る舞っていた。部屋掃除のあと、水運びを言いつかり、バケツを持って浴場まで三往復して水を運んだ。部屋の中からは、ギターの音色に合わせた歌声が聞こえてきた。彼等は私の想像以上に大らかで、不気味な国家体制などには一向に気にしている様子もなかった。やはり、この国でも世代の違いがあるように思えた。

 使役のすべてが終わり、上席下士官に帰る旨を告げると、横にいたもう一人の下士官が、朝食で食べ残っていた黒パンを掴んで私に差し出した。私も咄嗟の好意に「スパシーボ」と頭を下げて貰った。腕で汗を拭いながら懸命に働いていた様子を見ていてくれたのだと思うと嬉しかった。貰った黒パンを懐に入れ、休日使役の苦痛などはすっかり忘れ、西に傾いた冬陽を受けながら宿舎へ急いだ。

 それから三日後、同じ三等位の者とふたりで、将校官舎へ薪挽きの使役に出かけることになった。私はもしかしたら以前会った例の年配夫妻のところかと思いつつ衛門へ急いだ。ところが、指示された官舎は全く別なところであった。器材庫で鋸と斧を受領して、指示のあった官舎に向かった。官舎はちょうど浴場と川向かいのごく近いところにあった。確かに薪の残量はあといくらもなく、これでは呼び出しがあっても仕方がないと早速薪挽きにとりかかった。我々が来て作業に取りかかったのを窓越しに見つけたのか、早速奥さんが五歳ぐらいの銀髪の男の子を連れて挨拶に出てきた。まだ二十歳代と思われる若い奥さんであった。彼女は近寄って来ながら、なにやら薪がなくなりそうで心配だったと云っているようであった。私たちにはなんとも答えようがなかったので、鋸を挽く手を休めず微笑みかえして頷いた。銀髪の男の子が母親に「ヤポンスキー」と問いかけると、母親は、「ダァー」と答えてうなずいて見せた。室内着の薄着のまま出て来た若奥さんは寒かったとみえ、早々に家に戻っていった。残った坊やは一人っ子なのか、私たちを遊び相手と見とってか、側を離れず何やら話しかけてくる。薪を挽いてるうちはなんとか愛想してつきあっていたが、薪割をするには危ないので、通じるかどうか、「ダモイ、ダモイ」とくり返したところ、意が通じたとみえ家に戻っていった。ほぼ二週間分ぐらいの分量を割り終わったところへ、ふたたび奥さんが出て来た。何やら手に小さな紙包み二個を持って言葉をかけてきた。言葉はよく分からないが、折角美人の若奥さんのお出ましでもあるので、ふたりは揃って手を休めた。すると彼女は持ってきた紙包みを、さも気恥しそうに一つづつ私たちの手に渡してくれた。足元に山積みになっている薪の分量に満足顔で、「スパシーボ」と礼をいって戻っていった。早速貰った紙包みを開いて見ると、それは大豆の煎り豆であった。彼女が気恥しそうに手渡してくれた意味が分かった。この辺地で食糧不足の中、彼女が我々の労働になしえた精一杯の心遣いであっただろうと思った。彼女のおかれている立場からすれば、なにも我々俘虜に対し、こうまで気遣いをする必要もない筈であるのに、気恥しい思いまでもしてもてなす心遣いが、私らにとってはなんとも言えないほど嬉しかった。そこには国境を越えた人情をかいまみることができた。

 私はこのとき、ふと昨年の初冬、吹雪の中での道路作業中、作業監督が漏らした言葉を思い出していた。あの日は地吹雪のなかで、車のわだちに出来ていたデコボコ路面の地ならし作業であった。既に路面は凍てつき、作業の大半は盛り上がった凍土をツルハシで砕いて地ならしする力作業であった。この日の作業監督は、身なりからして退役者なのかも知れないと思った。作業が力仕事の連続であったから、この監督は時折休憩を挟んで休ませてくれた。昼休みの休憩時には、色々と話を聞かせてくれた。実は今整備しているこの道路は、バム鉄道(第二シベリア鉄道)の路床であって、独ソ開戦まではソ連囚人の手で建設が進められていたというのである。そして、今日の作業も単なる道路整備ではなく、鉄道の路盤整備だと云う。そのうえ、我々同胞の手でこの鉄道建設が進められてきており、今年中にはこの辺までは線路の敷設が進むとの建設見通しまで語ってくれた。そうした話をしているとき、三台のトラックが雪けむりを舞いあげながら迫ってきた。トラックのうえから多勢のロシア人らしき者が、通過を見送る我々に大声をあげながら手を振って通りすぎた。監督も右手をあげて、通り過ぎて行く彼等に応えていた。トラックが視界から消えると、目を離し呟くように云った。「ヤポンスキーは二、三年もすれば帰れる」、「ロスキーは生涯帰れないであろう」と淋しそうに漏らした。それは監督自身の身の上を語っているようでもあった。今までになく我々を気遣ってくれたこの監督の心根が、そのあたりにあったのかと思うと、意外にも親近感と彼の言葉が脳裏に残った。