三一 私が目にした民主運動の功罪

 

 治安維持法下で、天皇中心にした教育を受けてきた我々が、いかに捕虜の身とはいえ、いきなり「天皇制打倒・軍国主義反対・ファシズム、反動分子の徹底的粉砕」等を標榜する日本新聞を目にしたとき、これは明らかに日本人の思想を攪乱するものとして、懐疑的に受け取らざるを得なかった。昭和二〇年十一月、最初に入れられた収容所内で、ソ連側は「日本の主要都市は壊滅し、国土はアメリカ軍の占領下にある」と流布した。それは恰かもお前たちにはもう帰る祖国は無いといわんばかりに繰り返し耳にさせられた。私もこのこと自体は、祖国を離れるときの状況から想像しても、或いはそうなったかも知れないと思った。我々同胞にとって「終戦という幕切れ」が如何なることを意味するのか考えも及ばなかったが、我々を騙して北東シベリアの辺境の地に抑留し、祖国帰還の望みを絶ち、ソ連側が如何に洗脳にかかろうとも、懐疑的にこそなれ素直にこれを受け入れる意識は全くなかった。殊に最初に収容された同胞仲間は、各部隊から寄せ集められた病弱者で、輸送中から元軍隊で求められたような上下関係は既に希薄になっていた。そのうえ、日本側の引率責任者であった石橋少尉は、収容された翌日直ちに軍組織を解散し、階級の廃止処置をとったことにより、一時的には種々問題があったが、その後は底流には意識していたものの、我々仲間の所内生活を脅かすものではなかった。したがって、ソ連側の民主運動の名をかりてまで、早急に仲間の意識改革を求めようとする必要もなかった。

 昭和二一年二月下旬作業大隊に送り込まれて、抑留生活がいかに厳しいものであるかを此処で初めて知った。また、このラーゲリに入った晩、作業から帰って来た同胞達の様子に、元軍隊の内務班生活に近いものが感じられた。しばらく様子を見続けた私なりの結論として、このラーゲリでは、元の部隊組織がそのまま「作業大隊」として組み込まれていたため、下士官・兵士が互いに階級意識を棄て切れなかったように思えた。したがってこのような意識が歴然と残っている中では、後から転入した我々仲間を、暫くはよそ者扱いをしていたのである。

 ソ連側がラーゲリ内で配布していた「日本新聞」の記事には、同胞たちにとってはかって耳にしたことのなかった「民主運動」という言葉や、その意義などが、繰り返し掲載されていたが、そう簡単に理解出来るものではなかった。我々には、そんな訳の分からないお念仏よりも、とにかく身近な所内の生活環境の改善と、労働条件や食事の不公平をはじめとして、未だあらゆることのしがらみとなっている元軍隊制度から開放されたいという欲求を抱くようになっていた。聞くところによると、このラーゲリの中でも、最初のうちはやはり「日本新聞」に拒絶感を顕わにしていたそうである。ところが、所内生活に落ち着きを取り戻してきた昭和二一年の春頃から、毎号配られる「日本新聞」は、なんといっても我々が手にしうる唯一の活字であったことと、そのうえ、記事内容も次第に身近なラーゲリ内の民主化の問題や、作業ノルマについて取り上げられ、他のラーゲリの様子が紹介されるようになってからは、みんなが揃って一応目を通すように変わった。とくに学習するまでもなかったが、ラーゲリ生活で常々精神的負担となっていた軍階級制度をそれとなく開放要求につなげていったのである。また、ひと冬厳しい寒さの中で作業や所内生活をするうえで、馴れない作業をしてきた経験から、いままでのような軍階級のままの責任者では、必ずしもうまくいかないことに気づき始めたのである。その結果、作業小隊長などは仲間内から選び出すように徐々に変わっていった。この変化は「日本新聞」の民主運動がなしえた功績として認めざるを得なかった。

 しかし、「何事も過ぐることは足らざるに及ばず」で、昭和二一年の秋頃から、所内には異様な空気が漂い始めたのである。見えざるところでなんらかの形で「民主グループ」なるものが組織化され、不気味な動きを見せ始めたのである。当初、「所内生活の民主化」をスローガンに掲げたこの運動は、多くの仲間たちが生きのびるための身近な生活要求として自然発生的に抬頭し、大方の者がこれを迎合した。ところが、この運動がソ連側の援助と庇護の下に展開を強めると、止めどもなく活発化し、民主運動がひとり歩きするようになった。即ち、起床から就寝まで、極端にいえば一挙一投足にいたるまで、「革命的であれ」と何者かによる監視の目がしのびよるようになった。そうなってくると、我々も心穏やかならぬものを互いに感じ始めたのである。さらに、この運動の力点が、もっぱら労働生産の向上と、思想学習の強化に向けられ始めたのである。この変化をさりげなく察知した仲間内では互いに猜疑心が働くようになり、それとなく口をつぐむようになった。折角、この民主運動の力をかりて軍階級制度を崩し、やっと手にすることが出来た平穏な宿舎生活に、又ひびが入る結果となったのである。このころから所内に「反動分子」とか、「日和見主義」などという言葉が「民主グループ」から流布され、それらの意味すら十分に理解が得られぬままに、その批判と自己批判を強要する風潮がでてきたのである。私にはこの「民主運動」なるものが、こんなにも速いテンポで展開するとは想像もしえなかった。つい最近までは、私の周辺にいる者たちは「日本新聞」に目こそ通してはいたが、読後は一様に批判的であった筈である。私も一部の仲間同様に帰国までは、当たらず触らずの偽装民主主義肯定者になろうと心決めしていた。しかし内心では、若しもこのことが表沙汰になったらどうしようかと、常に恐怖がつきまとうようになった。